このブログでも、数回にわたって採り上げている天台座主だった慈円大僧正でありますが、この人は九条藤原摂関家の出身で、藤原兼実とは実の兄弟として手を取り合って当時の仏教界・政界を乗り越えようとしていました。ところが、或る時、この兼実が、慈円との協力関係を解消して、こともあろうに、当時新興宗教的拡大をみせていた法然の専修念仏に帰依してしまったのです。慈円は、大いに驚いたことでしょうし、なかなか理解もできなかったことでしょう。結果、極めて強い専修念仏批判をしていますけれども、それを慈円の手になるとされる歴史書『愚管抄』巻6から見ていきましょう。
また、建永年間(1206〜07)のことだが、法然房という上人がいた。京の都の中に住んで、念仏を拠り所にする教えを立てて専宗(専修)念仏と号して、ただ阿弥陀仏とばかり申すべきであり、そうではない顕密の修行はしなくても良い」というようなことを言い出して、何も分かっていないような愚か者や、無知の入堂や尼に喜ばれて、大いに繁昌に繁昌を重ねることとなってしまった。
その中に安楽房という者がいた。安楽房は、泰経入道に仕えていた侍で、入道して専修(念仏)の修行者となった者だが、住蓮と一緒に、「六時礼讃」は善導和上の修行法であるとして、それを布教の中心とし、尼たちから熱心な帰依を受けた。しかし、この尼たちは、余計なことまでいい「この(専修念仏の)修行者になれば、女犯を好んでも、魚や鳥を食べても、阿弥陀仏は少しも咎めることはない。一筋に専修(念仏宗)に入って念仏だけを信じていれば、必ず、最期に(極楽に)来迎していただける」といって、京にも田舎にも、この教えが広がったのである。
そうすると、院の小御所の女房や、仁和寺の御室の御母などといった人々が、一緒にこの教えを信じるようになり、秘かに安楽房などを呼び寄せて、その教えを説かせて聞こうとしたため、また、(安楽房も)、数人で出向くようになった。夜になれば、そのまま留め置かれるようなこともされたのである。別に、何ということもなく、ついに安楽房・住蓮はクビを切られてしまったのだ。
法然上人は流罪になり、京の中にいてはならないとして、追われてしまったのである。流罪のことは、(後鳥羽上皇から)沙汰があったのに、法然を支持する人々がすがって、少し(沙汰の内容が)変えられてしまった。さらに、法然の味方があまりに多かったので、赦されて、ついに東山の大谷というところで亡くなった。往生だ、往生だ、などといって人々が集まったけれども、何ということもなく、臨終行儀にも、増賀上人のようなことは、なにもなかったのである。
〈中略〉
果てには法然の弟子といって、魚鳥を食べ、女犯をするようなことまでし始めた(弟子の様子を)見ると、まこと、仏法が滅びていく姿が現れていることは疑いがない。
〈中略〉
さて、九条殿(兼実)は、法然上人が説き勧めた念仏の教えを信じ、法然上人を戒師として出家した。その後は、中国の妻のことに驚いたり、呆れたりして、法然の流罪を嘆いていたが、久しく病床に伏して、起きることも出来なくなってしまった。そして法然の流罪が行われた建永2年(1207)4月5日に、見事な臨終を遂げたのである。
『愚管抄(巻6)』岩波文庫本、260〜262頁、拙僧ヘタレ抄訳
吉川弘文館人物叢書の『慈円』を書かれた多賀宗隼氏のご見解に依れば、慈円は比叡山伝統の仏法と、法然上人に代表される新しい立場との交錯の中に於いて理解されるとされています(188頁参照)。以上に紹介した文章にも、そのような意図が見え隠れするといえましょう。法然上人と、その仲間たちの所行に対し、従来の仏教の教えを担ってきた者としての矜持が、その反応を引き起こさせています。
その反応を具に見ていきますと、こう、自分の近いところから新興宗教が起きていく様子を見ていく、その元の教団の大物幹部というような感じがしまして、「あいつらは分かっていない」と思いつつ、唱導する側にも、信じる側にもコントロールが効かない様子をもどかしく思っているような所もあるような感じがしますね。たいがい、或る宗教・宗派の中から、新興宗教が生まれていく場合には、元の教えの一部を拡大解釈しながら特化することで、従来の広い教義的文脈の中にありながら埋没していた、部分的な教えを強調することで、改めてその教えに力を付加していくというようなところがあるかと思います。
それが原理の方向に行くと、原理主義になりますし、或いは進歩主義になることもあるでしょうけど、どちらにしろこの背景には「選択」という重要な鍵があります。「選択」によって、特化しながら、改めて従来の教えなどを解釈し直すことも可能になるのでしょう。浄土思想についても特に、法然上人の場合には、従来の宗派が「自力門」「聖道門」であるとし、自らの教えは「他力門」「浄土門」であるとしましたが、これとて「選択」によって、自力が本当の意味で自力になり、聖道が本当の意味で聖道になったわけでしょう。対向があったから、そうなったわけです。
対向を立てるというのは、新しい立場を立てる場合には、きわめて有効でしょうし、或いは立てられた側としても、従来の価値観が全くもって揺さぶられるということになるわけです。情報の相対化による、固有の情報の価値の半減化が起きたということです。
さて、それで、この引用文で、慈円が言っているのは、従来天台宗にて救済されていた人が、新しい浄土宗に靡いていく様子、そして、その新しい教えを説いていく者が、決して「聖者」でもなく、或る意味僧侶の従来の価値からすれば、批判されるべき存在であることなどを明らかにしています。されど、ここに多くの人が共感していきました。この辺が難しいところです。おそらく慈円というのは、もちろん権力者側でしたが、さりとて自ら自身真摯に修行し、優れた天台宗の学僧でもありました。そうであるのに、その立場は評価がされず、別の、どうでも良いような者が評価されていくのに堪え忍ぶわけです。
そして、その堪え忍びは、政治家になってから、ずっと二人三脚で頑張ってきた九条兼実までもが、浄土宗に靡くということでもって、ピークに達したように思います。或る意味で、慈円は既に、兼実にとってあまり有効な現世利益をもたらす存在ではなく、また来世への関心が思ったのでしょうから、浄土宗に行くわけです。慈円はこの兼実との別れの後も、常に一族の栄華を願い、多くの人材に力を貸します。また一方で、天台宗の中に、様々な研究を行うための場所なども作っていきます。この辺のバランスは、拙僧には大いに共感できるのです。一度挫折したくらいで、自らの理想を諦めるわけにはいきません。或いは、理想を具現するためには、多少の方向修正なども甘んじて受けなくてはなりませんが、理想まで捨てるわけではない、拙僧、この辺が大きく参考になるのであります。
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また、建永年間(1206〜07)のことだが、法然房という上人がいた。京の都の中に住んで、念仏を拠り所にする教えを立てて専宗(専修)念仏と号して、ただ阿弥陀仏とばかり申すべきであり、そうではない顕密の修行はしなくても良い」というようなことを言い出して、何も分かっていないような愚か者や、無知の入堂や尼に喜ばれて、大いに繁昌に繁昌を重ねることとなってしまった。
その中に安楽房という者がいた。安楽房は、泰経入道に仕えていた侍で、入道して専修(念仏)の修行者となった者だが、住蓮と一緒に、「六時礼讃」は善導和上の修行法であるとして、それを布教の中心とし、尼たちから熱心な帰依を受けた。しかし、この尼たちは、余計なことまでいい「この(専修念仏の)修行者になれば、女犯を好んでも、魚や鳥を食べても、阿弥陀仏は少しも咎めることはない。一筋に専修(念仏宗)に入って念仏だけを信じていれば、必ず、最期に(極楽に)来迎していただける」といって、京にも田舎にも、この教えが広がったのである。
そうすると、院の小御所の女房や、仁和寺の御室の御母などといった人々が、一緒にこの教えを信じるようになり、秘かに安楽房などを呼び寄せて、その教えを説かせて聞こうとしたため、また、(安楽房も)、数人で出向くようになった。夜になれば、そのまま留め置かれるようなこともされたのである。別に、何ということもなく、ついに安楽房・住蓮はクビを切られてしまったのだ。
法然上人は流罪になり、京の中にいてはならないとして、追われてしまったのである。流罪のことは、(後鳥羽上皇から)沙汰があったのに、法然を支持する人々がすがって、少し(沙汰の内容が)変えられてしまった。さらに、法然の味方があまりに多かったので、赦されて、ついに東山の大谷というところで亡くなった。往生だ、往生だ、などといって人々が集まったけれども、何ということもなく、臨終行儀にも、増賀上人のようなことは、なにもなかったのである。
〈中略〉
果てには法然の弟子といって、魚鳥を食べ、女犯をするようなことまでし始めた(弟子の様子を)見ると、まこと、仏法が滅びていく姿が現れていることは疑いがない。
〈中略〉
さて、九条殿(兼実)は、法然上人が説き勧めた念仏の教えを信じ、法然上人を戒師として出家した。その後は、中国の妻のことに驚いたり、呆れたりして、法然の流罪を嘆いていたが、久しく病床に伏して、起きることも出来なくなってしまった。そして法然の流罪が行われた建永2年(1207)4月5日に、見事な臨終を遂げたのである。
『愚管抄(巻6)』岩波文庫本、260〜262頁、拙僧ヘタレ抄訳
吉川弘文館人物叢書の『慈円』を書かれた多賀宗隼氏のご見解に依れば、慈円は比叡山伝統の仏法と、法然上人に代表される新しい立場との交錯の中に於いて理解されるとされています(188頁参照)。以上に紹介した文章にも、そのような意図が見え隠れするといえましょう。法然上人と、その仲間たちの所行に対し、従来の仏教の教えを担ってきた者としての矜持が、その反応を引き起こさせています。
その反応を具に見ていきますと、こう、自分の近いところから新興宗教が起きていく様子を見ていく、その元の教団の大物幹部というような感じがしまして、「あいつらは分かっていない」と思いつつ、唱導する側にも、信じる側にもコントロールが効かない様子をもどかしく思っているような所もあるような感じがしますね。たいがい、或る宗教・宗派の中から、新興宗教が生まれていく場合には、元の教えの一部を拡大解釈しながら特化することで、従来の広い教義的文脈の中にありながら埋没していた、部分的な教えを強調することで、改めてその教えに力を付加していくというようなところがあるかと思います。
それが原理の方向に行くと、原理主義になりますし、或いは進歩主義になることもあるでしょうけど、どちらにしろこの背景には「選択」という重要な鍵があります。「選択」によって、特化しながら、改めて従来の教えなどを解釈し直すことも可能になるのでしょう。浄土思想についても特に、法然上人の場合には、従来の宗派が「自力門」「聖道門」であるとし、自らの教えは「他力門」「浄土門」であるとしましたが、これとて「選択」によって、自力が本当の意味で自力になり、聖道が本当の意味で聖道になったわけでしょう。対向があったから、そうなったわけです。
対向を立てるというのは、新しい立場を立てる場合には、きわめて有効でしょうし、或いは立てられた側としても、従来の価値観が全くもって揺さぶられるということになるわけです。情報の相対化による、固有の情報の価値の半減化が起きたということです。
さて、それで、この引用文で、慈円が言っているのは、従来天台宗にて救済されていた人が、新しい浄土宗に靡いていく様子、そして、その新しい教えを説いていく者が、決して「聖者」でもなく、或る意味僧侶の従来の価値からすれば、批判されるべき存在であることなどを明らかにしています。されど、ここに多くの人が共感していきました。この辺が難しいところです。おそらく慈円というのは、もちろん権力者側でしたが、さりとて自ら自身真摯に修行し、優れた天台宗の学僧でもありました。そうであるのに、その立場は評価がされず、別の、どうでも良いような者が評価されていくのに堪え忍ぶわけです。
そして、その堪え忍びは、政治家になってから、ずっと二人三脚で頑張ってきた九条兼実までもが、浄土宗に靡くということでもって、ピークに達したように思います。或る意味で、慈円は既に、兼実にとってあまり有効な現世利益をもたらす存在ではなく、また来世への関心が思ったのでしょうから、浄土宗に行くわけです。慈円はこの兼実との別れの後も、常に一族の栄華を願い、多くの人材に力を貸します。また一方で、天台宗の中に、様々な研究を行うための場所なども作っていきます。この辺のバランスは、拙僧には大いに共感できるのです。一度挫折したくらいで、自らの理想を諦めるわけにはいきません。或いは、理想を具現するためには、多少の方向修正なども甘んじて受けなくてはなりませんが、理想まで捨てるわけではない、拙僧、この辺が大きく参考になるのであります。
この記事を評価して下さった方は、
これまでの読み切りモノ〈仏教5〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。













「たいがい、或る宗教・宗派の中から、新興宗教が生まれていく場合には、元の教えの一部を拡大解釈しながら特化することで、従来の広い教義的文脈の中にありながら埋没していた、部分的な教えを強調することで、改めてその教えに力を付加していくというようなところがあるかと思います。」
とお書きになっておりますが、ここの部分につぃて、詳しく分析した論文や本などありましたら、権ごんにご教示下さいませ。
> 法然の登場と、既存の宗派への影響ですよね。既存の権威集団の中から、新興勢力が出現してくるメカニズムは、いろんな組織の変革にも当てはまるような気がします。大いに勉強になります。
そうですね。組織論として、色々な角度から学ぶことが可能かも知れませんね。
> とお書きになっておりますが、ここの部分につぃて、詳しく分析した論文や本などありましたら、権ごんにご教示下さいませ。
とのことですが、詳しい分析となると、本格的な専門的論文になるかと思いますが、とりあえず概論的な著作であれば、以下のようなものはどうでしょうか?
末木文美士先生『日本仏教史』新潮文庫
阿満利麿先生『法然の衝撃』ちくま学芸文庫
多少なりともご参考になれば幸いです。