前回の【(12e)】に引き続いて、無住道曉の手になる『沙石集』の紹介をしていきます。
『沙石集』は全10巻ですが、この第10巻が、最後の巻になります。第10巻目は、様々な人達(出家・在家問わず)の「遁世」や「発心」、或いは「臨終」などが主題となっています。世俗を捨てて、仏道への出離を願った人々を描くことで、無住自身もまた、自ら遁世している自分のありさまを自己認識したのでしょう。今日も「一 浄土房遁世の事」を見ていきます。これは、遁世し、往生しようとする人達の様々なドラマを紹介します。
最近の人は、受楽のために誓願を発す人は少ない。ましてや、衆生を度そうとする心は、いよいよ稀である。五欲の楽しみや、名利への執着ばかりが深く、本気で世間を厭い、疎む心が無く、病気や死といった憂いや悩み、種々の苦に遇っても、なお厭う心が無い。僅かな楽しみに耽り、厭離したいという心が無い。流石に、人は必ず死ぬ道理があると知って、往生を願うけれども、本気の心が無ければ、この身が惜しまれて、世を捨てることが出来ないのだ。
生を受けることとは、心の執着に基づき、(過去の)様々な行為に随って生まれてくる。心に好むことが、その原因となる。そうであれば、未来で生まれるところは、今生の心で好むところ、願う形に顕れる。悪の行いを好むのは、悪道への願いである。三毒を起こすことは、三悪道を好むのである。そうであれば、自分の心のあり方を能く能く探って、(それを改めようと)試みるべきである。
ただ今、観音菩薩・勢至菩薩という行者を具えて、極楽へお出かけになり、そのまま留まるつもりだという心があれば、往生も頼もしい限りだ。最近の人の心の様子を見るに、一日・二日は(極楽を)珍しく思っても、妻子が恋しく、住む場所も覚束無く思われて、「一度帰って、また来よう」と急いで帰りたくなると思われる。これほどの心でしかないのならば、どうして浄土の世界にいる菩薩たちと交流できようか。
前半部分、管理人拙訳
無住禅師は、誓願を発す理由として、まずは「受楽」を願うべきだといいます。この場合の「受楽」とは、前回の記事の時にも申し上げたのですが、この苦の世界(よって、ここを「娑婆=忍土」といいます)を脱して、世間的な快楽では無くて、仏道を正しく得た際の楽を得ることを願うべきだという教えのことです。それはつまり、極楽浄土にいる阿弥陀如来の教えを聞き、自ら悟りを開くことを意味しています。
そして、悟りを開いて菩薩となった衆生は、今度、他の衆生を救わんと行動しなくてはならないわけですが、無住禅師の時代の人々は、そうではなくて、世間的な快楽=五欲の楽しみや、名利心の充実を願う執着ばかりが深いため、そういう真の意味での楽を願う人がいないというのです。確かに、我々は後々大変なことになると分かっていても、今、ちょっとした快楽を得る機会が来ると、その後々の苦しみを忘れてしまいそうになります。そして、その一時的な快楽を大事にしようと思ってしまいます。
このような執着が、我々の輪廻を生み出します。しかも、執着の様相が、そのまま次の人生の形をも決めると述べています。ですけれども、その中で、もし観音や勢至といった阿弥陀如来の眷属である諸大菩薩によって導かれ、浄土の様子を見てみたとき、世俗への執着を離れ、このままここに居たいのだ、と願うような場合には、往生出来るというのです。しかし、往々にして、それまでの人生の快楽に負け、我々はその快楽をこそ得たいと願います。無住禅師は、快楽に負ける程度の思いであれば、往生などとても出来まいと苦言を呈するのです。
なお、このようにいうと、当然に絶対他力の本願力を信じる専修念仏の信奉者から文句が来そうですが、それについても、無住禅師が苦言を呈しています。
最近の人がいう、「他力本願というのは、我が心の善し悪し、我が誓願の有り無しをいわずに、頼みさえすれば、仏が必ず傍らに連れて行ってくれる」などといっている。もしそうであれば、経(『観無量寿経』)には、「三心を具える者は、必ず往生することを得るのだ」と説いている。釈(『楽邦文類』などでは善導『観経疏』としているが、同疏には見えず)には、「もし一心(=禅定)が僅かであれば、つまりは往生することは出来ない」といって、心を安んじるように教示している。どうして、心の善し悪しを言わなくて良いと出来ようか。「五念行を、四修に励んで、間断なく修行し、他のことを交えないようにせよ」(善導『転経行道願往生浄土法事讃』からの取意)ともいわれている。どうして、自分の善根が不要なことがあろうか。(『観無量寿経』に)「刹那刹那に捨てないこと、これを正しい禅定の修行と名付ける」と解釈して、刹那刹那に阿弥陀仏を捨てず、余計な想いが無いことを、必ず定めて往生出来る行いだといっている。そうであれば、善導の註釈に「身命を惜しまず、身命を顧みず」(『観経疏』巻4からの取意)といっている。このような人こそ、来迎にも与ることが出来よう。
志も無いような者を、傍らにお迎えになるというのなら、一人も漏れることは無いことになる。一子平等の慈悲は、誰をお捨てになることがあろうか。喩え、その身を浄土にお取り下さっても、その屍は浄土にて朽ち果て、心はこの世界に帰ってきて、執着するところに生を受け、行いの結果によって苦楽があるのだ。仏法の力も衆生の行いの報いが発生する力(=業力)を抑えることは出来ない。魔界の人が(人を魔界に)連れ去るとしても、まずはその心を動揺させ、惑わして、心が尋常では無い状況になった時であり、仏が人を救われるのも、心を勧めて、心が道に入るとき、助けられるのである。
後半部分、管理人拙訳
無住禅師は、それまでの浄土思想の流れから言っても、余りに極端すぎる「専修念仏」と、「専修念仏者による他宗派批判」について、積極的に反論しています。この一説もそう理解されるべきでしょう。確かに「専修念仏」については、最近、松岡正剛氏が『法然の編集力』(NHK出版)という著作でも書いていたり、或いは拙僧も【反・無宗教論 ver10.1】という記事で書いているように、法然上人の戦略的選択でもって、初めて成立しています。要するに、現代の論文を書くように、様々なテキストを読んで、その上で総合的に判断するというのでは無く、法然上人自身が信じる阿弥陀仏の救済が、それとして実現するように、テキストを選択し、場合によっては読み換えまで行っているのです。
その戦略的選択を行った当の本人はまだしも、その結果の教えを受けるだけのユーザー側は、そんな戦略があることを共有しません。結果的に、念仏さえしていれば救われる、という話になっていくわけです。しかし、そういう見解に対して、無住禅師は、経論を引用しながら、自ら自身の善行によって積んだ功徳が無くてはならないと指摘するわけです。
この上記引用訳文の無住禅師のような発想をする人、拙僧自身は記憶に無いのですが、要するにもし、阿弥陀仏がその本願で、浄土に連れて行ったとしても、その人自身が持つ「業」は残り続け、結果的に、その人の統御されない心によって、また望まない輪廻に進むだろうと推定しているのであります。実際、阿弥陀仏の四十八願を読んでいくと、輪廻には陥らないような気もしますけれども、さておき、では、一体、どのような心境にまで至れば良いのでしょうか?無住禅師の見解は来月の記事で申し上げたいと思います。
【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年
これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。
この記事を評価して下さった方は、
にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
『沙石集』は全10巻ですが、この第10巻が、最後の巻になります。第10巻目は、様々な人達(出家・在家問わず)の「遁世」や「発心」、或いは「臨終」などが主題となっています。世俗を捨てて、仏道への出離を願った人々を描くことで、無住自身もまた、自ら遁世している自分のありさまを自己認識したのでしょう。今日も「一 浄土房遁世の事」を見ていきます。これは、遁世し、往生しようとする人達の様々なドラマを紹介します。
最近の人は、受楽のために誓願を発す人は少ない。ましてや、衆生を度そうとする心は、いよいよ稀である。五欲の楽しみや、名利への執着ばかりが深く、本気で世間を厭い、疎む心が無く、病気や死といった憂いや悩み、種々の苦に遇っても、なお厭う心が無い。僅かな楽しみに耽り、厭離したいという心が無い。流石に、人は必ず死ぬ道理があると知って、往生を願うけれども、本気の心が無ければ、この身が惜しまれて、世を捨てることが出来ないのだ。
生を受けることとは、心の執着に基づき、(過去の)様々な行為に随って生まれてくる。心に好むことが、その原因となる。そうであれば、未来で生まれるところは、今生の心で好むところ、願う形に顕れる。悪の行いを好むのは、悪道への願いである。三毒を起こすことは、三悪道を好むのである。そうであれば、自分の心のあり方を能く能く探って、(それを改めようと)試みるべきである。
ただ今、観音菩薩・勢至菩薩という行者を具えて、極楽へお出かけになり、そのまま留まるつもりだという心があれば、往生も頼もしい限りだ。最近の人の心の様子を見るに、一日・二日は(極楽を)珍しく思っても、妻子が恋しく、住む場所も覚束無く思われて、「一度帰って、また来よう」と急いで帰りたくなると思われる。これほどの心でしかないのならば、どうして浄土の世界にいる菩薩たちと交流できようか。
前半部分、管理人拙訳
無住禅師は、誓願を発す理由として、まずは「受楽」を願うべきだといいます。この場合の「受楽」とは、前回の記事の時にも申し上げたのですが、この苦の世界(よって、ここを「娑婆=忍土」といいます)を脱して、世間的な快楽では無くて、仏道を正しく得た際の楽を得ることを願うべきだという教えのことです。それはつまり、極楽浄土にいる阿弥陀如来の教えを聞き、自ら悟りを開くことを意味しています。
そして、悟りを開いて菩薩となった衆生は、今度、他の衆生を救わんと行動しなくてはならないわけですが、無住禅師の時代の人々は、そうではなくて、世間的な快楽=五欲の楽しみや、名利心の充実を願う執着ばかりが深いため、そういう真の意味での楽を願う人がいないというのです。確かに、我々は後々大変なことになると分かっていても、今、ちょっとした快楽を得る機会が来ると、その後々の苦しみを忘れてしまいそうになります。そして、その一時的な快楽を大事にしようと思ってしまいます。
このような執着が、我々の輪廻を生み出します。しかも、執着の様相が、そのまま次の人生の形をも決めると述べています。ですけれども、その中で、もし観音や勢至といった阿弥陀如来の眷属である諸大菩薩によって導かれ、浄土の様子を見てみたとき、世俗への執着を離れ、このままここに居たいのだ、と願うような場合には、往生出来るというのです。しかし、往々にして、それまでの人生の快楽に負け、我々はその快楽をこそ得たいと願います。無住禅師は、快楽に負ける程度の思いであれば、往生などとても出来まいと苦言を呈するのです。
なお、このようにいうと、当然に絶対他力の本願力を信じる専修念仏の信奉者から文句が来そうですが、それについても、無住禅師が苦言を呈しています。
最近の人がいう、「他力本願というのは、我が心の善し悪し、我が誓願の有り無しをいわずに、頼みさえすれば、仏が必ず傍らに連れて行ってくれる」などといっている。もしそうであれば、経(『観無量寿経』)には、「三心を具える者は、必ず往生することを得るのだ」と説いている。釈(『楽邦文類』などでは善導『観経疏』としているが、同疏には見えず)には、「もし一心(=禅定)が僅かであれば、つまりは往生することは出来ない」といって、心を安んじるように教示している。どうして、心の善し悪しを言わなくて良いと出来ようか。「五念行を、四修に励んで、間断なく修行し、他のことを交えないようにせよ」(善導『転経行道願往生浄土法事讃』からの取意)ともいわれている。どうして、自分の善根が不要なことがあろうか。(『観無量寿経』に)「刹那刹那に捨てないこと、これを正しい禅定の修行と名付ける」と解釈して、刹那刹那に阿弥陀仏を捨てず、余計な想いが無いことを、必ず定めて往生出来る行いだといっている。そうであれば、善導の註釈に「身命を惜しまず、身命を顧みず」(『観経疏』巻4からの取意)といっている。このような人こそ、来迎にも与ることが出来よう。
志も無いような者を、傍らにお迎えになるというのなら、一人も漏れることは無いことになる。一子平等の慈悲は、誰をお捨てになることがあろうか。喩え、その身を浄土にお取り下さっても、その屍は浄土にて朽ち果て、心はこの世界に帰ってきて、執着するところに生を受け、行いの結果によって苦楽があるのだ。仏法の力も衆生の行いの報いが発生する力(=業力)を抑えることは出来ない。魔界の人が(人を魔界に)連れ去るとしても、まずはその心を動揺させ、惑わして、心が尋常では無い状況になった時であり、仏が人を救われるのも、心を勧めて、心が道に入るとき、助けられるのである。
後半部分、管理人拙訳
無住禅師は、それまでの浄土思想の流れから言っても、余りに極端すぎる「専修念仏」と、「専修念仏者による他宗派批判」について、積極的に反論しています。この一説もそう理解されるべきでしょう。確かに「専修念仏」については、最近、松岡正剛氏が『法然の編集力』(NHK出版)という著作でも書いていたり、或いは拙僧も【反・無宗教論 ver10.1】という記事で書いているように、法然上人の戦略的選択でもって、初めて成立しています。要するに、現代の論文を書くように、様々なテキストを読んで、その上で総合的に判断するというのでは無く、法然上人自身が信じる阿弥陀仏の救済が、それとして実現するように、テキストを選択し、場合によっては読み換えまで行っているのです。
その戦略的選択を行った当の本人はまだしも、その結果の教えを受けるだけのユーザー側は、そんな戦略があることを共有しません。結果的に、念仏さえしていれば救われる、という話になっていくわけです。しかし、そういう見解に対して、無住禅師は、経論を引用しながら、自ら自身の善行によって積んだ功徳が無くてはならないと指摘するわけです。
この上記引用訳文の無住禅師のような発想をする人、拙僧自身は記憶に無いのですが、要するにもし、阿弥陀仏がその本願で、浄土に連れて行ったとしても、その人自身が持つ「業」は残り続け、結果的に、その人の統御されない心によって、また望まない輪廻に進むだろうと推定しているのであります。実際、阿弥陀仏の四十八願を読んでいくと、輪廻には陥らないような気もしますけれども、さておき、では、一体、どのような心境にまで至れば良いのでしょうか?無住禅師の見解は来月の記事で申し上げたいと思います。
【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年
これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。
この記事を評価して下さった方は、












