つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

実業者的宗教者 蓮如上人(7)

2005-07-31 06:30:26 | 仏教・禅宗・曹洞宗
実は、最近網野善彦先生の『日本の歴史をよみなおす』と『続・日本の歴史をよみなおす』が合冊されて『日本の歴史をよみなおす(全)』としてちくま学芸文庫から出ました。それを見ていると、中世日本は農業国家というよりも、商業国家としての痕跡が色濃く見えるということで、その視点から蓮如上人の行跡を見ていくと、また別の見え方が出来るので、その検討に時間がかかっております。されど、【前回の(6)】(6月27日)からずいぶん時間が過ぎたので、そろそろアップしなきゃと思っておりました。今回のはまだ網野先生の著作の分析は済んでおりませんが、とりあえず挙げておきます。

以下本文。

蓮如上人(以下尊称略記)が、近江国から北陸へ入られたのは、文明3年(1471)7月頃であったとされています。後に「吉崎御坊」と言われる根拠地です。この吉崎は、加賀(現・石川県南部)と越前(現・福井県東部)との国境の海岸沿いであり、当時は奈良興福寺大乗院の荘園の中にありました。この興福寺は元々は浄土信仰を力で抑える、いわゆるの旧勢力の寺院であり、この吉崎周辺は、興福寺最大級の荘園でした。通常であれば本願寺の進出などは、絶対に叶うことはなかったのですが、ここに蓮如の人脈が活きてきます。実は、この大乗院を管理していた者の中に尋尊大僧正という方がいたのですが、この者と蓮如は昵懇の仲であり、大乗院の門跡であった経覚大僧正は、師弟の間柄だったのです。蓮如は、本願寺出身の母を持つ親戚であった経覚から教学を学んでいたようなのです。そして、後には金銭の貸借を行うなど、親戚付き合いをしていたともされています。そのため、こういった方々の尽力もあって、本願寺と蓮如は、北陸へ進出することが可能になったのです。無論、当時の荘園は中央の管理だけでもって運営されていたわけではありません。地元の武士からも諒解を取り付けなければならないのですが、本願寺の末寺である和田の本覚寺が尽力し、当時越前周辺を支配していた朝倉氏(後に戦国大名になる)が近江にいた蓮如を訪ねることで、話がまとまったようです。

【吉崎への進出】

上記のように満を持して行われた蓮如の吉崎入りですが、その目的は何だったのでしょうか?一説には異端の教学が蔓延っていた北陸を放置できなかったともされておりますが、そうであれば当時異端が盛んだったのは関東・三河・美濃など多くの場所がありました。そこで、この理由について笠原一男氏は吉川弘文館人物叢書の『蓮如』にて、蓮如が記した文明7年4月28日の『御文』を参照しながら以下のような推測を立てています。

・名聞利養や栄花栄耀のためではない。
・近江三井寺の長く居ると門徒の参集が多すぎて、また山門の嫉妬を買いそうである。
・北陸には多くの異端の教説が流布し、その異端の戦いを行うため。
・同地には本願寺の末寺が多く存在し、本願寺法主の一族が多く点在している。
・これら本願寺の末寺は、異端教学との抗争を激しくしながら、中心となる軸が形成されることを待っていた。
           『蓮如』124~131頁を適宜参照

こういった多くの事柄が蓮如を後押しし、吉崎進出は達成されました。これについて蓮如は以下のように記しております。

文明第三初夏上旬のころより、江州志賀郡大津三井寺南別所辺より、なにとなくふとしのぶ出でて、越前・加賀諸所を経回せしめをはりぬ。よって当国細呂宜郷内吉崎といふ在所、すぐれておもしろきあふだ、年来虎狼のすみなれしこの山中をひきたひらげて、七月二十七日よりかたのごとく一宇を建立して、昨日今日と過ぎゆくほどに、はや三年の春秋は送りけり。
           文明五年九月日(『浄土真宗聖典 第二版』1095頁)

さて、蓮如はあっさりと「越前・加賀をぶらっと歩いて、吉崎が素晴らしいと思ったので…」なんて適当に決めたように示されておりますが、実際は多くの交渉が行われ、そして、自らの場所を獲得したのです。やはり1つのことを成すには、多くの準備が必要だということでしょう。こういったあり方は、我々が事業を成す際にも非常に参考となってきます。それも、後発者として従来の既得権益の中に進んでいく場合には、事前の諒解がなければいたずらな争いを招くことになりましょう。

【吉崎での戦い】

さて、上記の項目でも説明しましたが、蓮如が吉崎で行おうとしたのは、異端教学との戦いに勝つためであるともされています。そして、その異端教学とは「施物だのみ」「物取り信心」ということです。これは、志(=布施)を捧げれば、門徒本人の信心は足らなくても、真宗の坊主の力でこれを補い、往生決定させてくれるという異端です。いわば“地獄の沙汰も金次第”な話なのですが、蓮如はこの考え方を否定しました。

しかし、これを糺すのは非常に大きな困難が生じていました。それは、この「物取り」が北陸の真宗僧侶の収入源として重要な既得権だったからです。多くの布施を納める信者を“良い門徒”として尊重し、また門徒の方も不安が多い世界に於いて往生を決定してくれる坊主の力は歓迎していたのです。蓮如はこういった異端に対して『御文』をもって繰り返し否定しています。それも、“堕地獄の業”とまで強く主張しています。

それおもんみれば、人間はただ電光朝露の夢幻のあひだのたのしみぞかし。たとひまた栄華栄耀にふけりて、おもふさまのことなりといふとも、それはただ五十年乃至百年のうちのことなり。〈中略〉これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかはなずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑いなし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。〈以下略〉
       文明五年九月中旬(『浄土真宗聖典 第二版』1100~1101頁)

さて、このように蓮如は強く強く僧侶にも門徒にも、両方に異端へ落ちることを諫めていますが、これは効果をなかなか現しませんでした。それは、先にも言いましたが“既得権”の問題です。各地の坊主が、阿弥陀と同等の済度の力を持つという教義は、本来の真宗の教義からは決して相容れないものなのです。さらに、これらの坊主達によって門徒の私物化が進み、多くの布施を納めてくれる“良い門徒”の奪い合いが進んでいたのです。そして、蓮如は全ての坊主に対し、彼らが私有していると思っている門徒は全て弥陀の門徒であり、本願寺の門徒であるとしたのですが、その論理は非常に明快です。それは、基本的に浄土真宗の安心は、阿弥陀仏一仏への帰依をもって成立するわけで、その帰依は“念仏”によってのみ叶うという専修念仏が重要な信仰なのです。この論理を“布施”へも拡大し、門徒による物だのみ、坊主だのみも全て“雑行”であるとし否定したのです。しかし、ここには大きな問題があります。この論理によって真宗坊主への布施が止まってしまえば、真宗坊主は路頭に迷い、本願寺だけが生き残っても、教線の拡大は望めません。したがって、蓮如は“布施”がダメだというのではないのです。それは単なる理想主義に過ぎません。そうではなく“正しい布施”を示すのです。蓮如の現実的対応はこういった場面で大きく機能します。

そもそも、当年より、ことのほか、加州・能登・越中、両三箇国のあひだより道俗男女、群集をなして、この吉崎の山中に参詣せらるる面々の心中のとほり、いかがと心もとなく候ふ。〈中略〉よくよく耳をそばだてて聴聞あるべし。そのゆゑは、他力の信心といふことをしかと心中にたくはへられ候ひて、そのうへには、仏恩報謝のためには行住坐臥に念仏を申さるべきばかりなり。このこころえにてあるならば、このたびの往生は一定なり。このうれしさのあまりには、師匠坊主の在所へもあゆみをはこび、こころざしをもいたすべきなり。これすなはち当流の義をよくこころえたる信心の人とは申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
        文明五年二月八日(『浄土真宗聖典 第二版』1090~1091頁)

つまり、蓮如は、真宗坊主がどのようにして安心決定したかを良く聞いて、その教えに従って安心決定したならば、その喜びを布施にして、縁を結んでくれた坊主へと運ぶべきだとしているのです。結局は蓮如は“金銭の授受”を肯定しつつも、その内容をただの金銭から、信仰にもとづく御礼へと転換したとするべきでしょう。これならば、真宗の坊主達も収入を大きく減ずることなく、かといって真宗の教義に反することなく教団運営に参画することが可能になります。

もう一点北陸にいた蓮如が否定した異端は即身成仏的な教義を持っていた三門徒教団ですが、その問題と解決については【蓮如上人(5)】にてすでに述べたところです。蓮如はこれら多くの異端と戦いながら、真宗正統の教学を打ち立てようとしました。

しかし、蓮如のこうした教化活動は蓮如の持っていた理想と相反して、共同体の論理に巻き込まれていきます。そして、吉崎での布教は終わりを告げることになるのです。それはまた次回【蓮如上人(8)】以降にお伝えしましょう。


《参考文献》

笠原一男『新装版 蓮如』(昭和61年・吉川弘文館人物叢書)
重松明久『本願寺百年戦争』(昭和63年・法蔵館)
『浄土真宗聖典 第二版』(2004年・本願寺出版社)
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