つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

水上勉氏の道元禅師観批判

2014-01-25 19:19:30 | 仏教・禅宗・曹洞宗
水上勉氏をWikipediaで調べてみると、この人は「小説家」というカテゴリーで良いらしい。その小説家が書いた禅の入門書が『禅とは何か―それは達磨から始まった―』(新潮選書・1988年)である。然るに、同著には当然、日本の禅についても記載があって、その中でも半分くらいは曹洞宗について触れている(ただし、主は臨済宗である)。

そこで、個人的に大きな問題だと思うのは、「第三章・反時代者道元希玄の生き方」「第四章・曹洞大教団の誕生」である。だいたいのあらすじを申し上げれば、「第三章」では『正法眼蔵』を中心に孤高の道元禅師像を描き、「第四章」ではその後の瑩山禅師より後の時代を書くことで、その道元禅師の禅が徐々に大衆化したことを批判するという、まぁ、良くありがちで、しかも誤解だらけの曹洞宗教団論である。

まず、水上氏が描きたい道元禅師とは、「反権力」の人である。然るに、至心に古伝を読み解けば、ここでいう「反権力」についても、普段思うような、全面否定というよりも、我々僧侶側が名聞利養を追求せずに近づくことを説いているに過ぎない。要するに、自分の権威などを高めるためでは無くて、権力者であってもただ1人の迷える衆生として扱うことを説いているのである。その証拠は、『正法眼蔵』「行持(下)」巻に見える、本師・如浄禅師とその住職地にいた長官との遣り取りである。如浄禅師は、このように述べた。

 趙提挙は、嘉定聖主の胤孫なり。知明州軍州事、管内勧農使なり。先師を請して、州府につきて陞座せしむるに、銀子一万鋌を布施す。
 先師、陞座了に、提挙にむかふて謝していはく、某甲、例に依って山を出でて陞座し、正法眼蔵涅槃妙心を開演して、謹んで以て先公の冥府を薦福す。但だ是の銀子、敢えて拝領せず。僧家には這般の物子不要なり、千万賜の恩、旧に依って拝還す。
    「行持(下)」巻


この出典は、如浄禅師の侍者であった広平の『日録』であった。道元禅師はわざわざここで『日録』を典拠にしているということは、この一件を直接見聞きしたのではなくて、あくまでも伝聞情報として指摘していることになる。しかも、おそらくは『日録』の一部を書写させてもらったのだろうと思う。まぁ、他に引用例があるわけでは無い(はず・・・)ので、詳細は分からない。

それで、この一節で如浄禅師が触れていることは、まず、当時の宋国でも皇帝に連なる長官から、招聘を受けたので先代を供養するための上堂を行った。その時、布施として銀1万両が準備されていた。ところが、如浄禅師はそれを受け取らず、返したという。それは、僧侶にはそのような物が不要だったからである。現実には、この時代の僧侶は既に個人財産を持っていたのだが(色々と諸費用が掛かったことは、公的な資料から明らかであり、それは個人財産でなくては賄えないため、そのように判断される)、如浄禅師はそうではなかったということになる。どうも、文脈を見れば、当時の一般的な僧侶は、このような多額な布施を受け取ったようである。

然るに、問題はそうであっても、供養の上堂は行ったのだ。そのことが肝心である。もし、単純な権力嫌いであれば、元々招聘に応じるべきでは無い。だが、招聘には応じたし、先代の冥福は祈ったが、多額の布施を受け取ったわけではないということだ。これが、先ほどいった、「僧侶側が名聞利養を追求しない」ということである。

そう考えると、水上氏が頻りに道元禅師の「反権力」の典拠として引用している以下の文章も、判断は慎重に行うべきである。

国王・大臣に親近すべからず。
    『宝慶記』第5問答


で、この一問答は、修行者にとっての禁忌が多く示されていることでしられているのだが、これ、実際には「第一の初心の弁道功夫の時」という前提がある。つまりは、修行始めたばっかりの者は、こういうことに気を付けろ、という話であるのだ。そう考えると、これを、既に住職となり、自らの弟子まで持つようになった人に直接当てはめるわけにはいかない。でも、何故か水上氏はそういうことをしてしまっているのだ。拙僧にはその点、理解が出来ない。

或いは、こちらの記述も知られている。

如浄和尚、師に示して云く、「帰国有らば、国王・大臣に近つくこと莫れ、聚洛・城隍に居せず、須らく深山窮谷に住し、雲集の閑人を要せず、虚多く実の少きが如くならず、真個の道人を撰取して、以て伴と為せ。若し一箇半箇の接得あらば、仏祖の惠命を嗣続し、古仏の家風を起こす者なり」。
    明州本『建撕記』


こちらについては元々、以下の文脈だったのが後に拡大されてしまったものと思われる。

本国にて山谷に隠居し、聖胎を長養せよ。
    『三祖行業記』「道元禅師章」


ここに、「隠居」とあるのだが、同文献ではこの「隠居」について、以下のようにも書く。

始め本国に帰りて、建仁寺に寓止し、漸く隠居地を求む。有縁の旦那の施す所、所々歴観すること、僅かに一十二所。遠国・畿内、皆意に合わず。暫く洛陽の東南、深草の里、極楽寺の旧跡に隠居す。
    同上


よって、つまりはここで道元禅師は「深草に隠居」されたわけであるが、それが或る意味、如浄禅師の教えだったといえる。国王云々は、『三祖行業記』には見えず、永平寺・寂円派系統の伝記文献である『建撕記』に見えることなのである。その点を考えておきたい。しかも、同文献には「国王・大臣に近づくな」と書かれている一方で、近衛殿に道元禅師が面会したことを示す。これは、藤原家の一家であった近衛家の当主(だと思う)に、道元禅師が面会して法談に及んだことである。この一件も「反権力」という観点からは非常に理解が難しいことであるが、先に挙げた「名聞利養の否定」のみがいわれているとすれば、理解は容易い。別に、権力を毛嫌いしていたわけではないということだ。

結局、本当に「反権力」であったのは、道元禅師なのか?それとも、水上勉氏なのか?ということである。正直、『禅とは何か』を見ていくと、後者である気がしてくる。だからこそ、こんなことまでいわれている。

道元の只管打坐の禅は同じ宋から伝来しながら権力にむすびつきすぎて、弱体化していた純粋願望臨済を尻目に、地方豪族や庶民にうけて、大きく伝播することになる。
    『禅とは何か』84頁


今の京都五山・鎌倉五山の多くが、創建当初の建築がそのまま残るとはいわないが、それでも、あれは素晴らしいものであるし、決して「弱体」などといえる状況では無い。しかも、道元禅師の「只管打坐の禅」が、そのまま民衆に受け入れられたわけではあるまい。その只管打坐からもたらされる神通力(供養・祈祷の成就に繋がる)こそが受け入れられたはずだ。よって、このような一節は、水上氏の妄想に近い歴史認識である。小説家とはいえ、これはいくら何でも酷い。酷いといえば、こんな「凡ミス」も見える。

後醍醐帝が、道元に紫衣をおくった話は有名だが・・・
    『禅とは何か』95頁


……後醍醐帝?後醍醐帝??後醍醐帝???

とりあえず、お二人の生没年を記載してみよう。後醍醐帝の在位の典拠は、『東方年表』(1998年・第33刷)。

●道元禅師 1200~1253年
●後醍醐帝 生没年:1288~1339年、在位:1318~1339年


まぁ、後醍醐帝の在位は色々と難しいので、『年表』の記載のママである。この間、辞めたり、辞めさせられたり、色々あったことは断っておく。問題はそれよりも、このお二人、そもそも生没年が重なっていない。その後醍醐帝が道元禅師に紫衣を贈る?タイムマシンでもあったか?それとも、後醍醐天皇お得意の加持祈祷か?

この一件の詳細は、【賜紫衣謝偈】をご覧いただきたい。この「賜紫衣」の話は、1670年代以降に刊行された道元禅師伝に、突如として出てくるものであって、古伝には見えない。おそらくは、偽作された説話である。とてもではないが、道元禅師の権力観を示せる内容ではなかろう。

要するに、水上氏の文章とは、水上氏自身が「反権力の道元禅師像」を描きたいと思って、それに相応しいと思われる文脈のみを、強引にかき集めて成立した、という代物なのである。とんでもないフィクションであるといえるが、これが小説家ということか?なお、このフィクションの続きで、更に気の毒なのが、その後の祖師方である。

冒頭の方でも申し上げたように、「第四章」は、曹洞宗教団の拡大の話を示すものであるが、先にも示した通り、純粋禅である道元禅師の只管打坐がねじ曲がって成立したかのような印象を与える。まず、瑩山禅師登場まで、水上氏がどう理解しているか、こんな感じでまとめてみよう。

道元禅師入滅
  ↓
懐弉禅師は道元禅の忠実な実践者
  ↓
寂円禅師は道元禅の後継者
  ↓
義介禅師は布教拡大派であり大乗寺を澄海阿闍黎から譲り受けて改宗
  ↓
曹洞宗は、道元禅師の愛弟子である寂円・懐弉の永平寺派と、大乗寺派に分派
  ↓
大乗寺派に瑩山禅師登場。これで大教団へ・・・


……?何を読んでこう理解したのだろうか?まったく意味不明。まぁ、懐弉禅師が忠実な実践者であったことはそうなんだろうと思う。ただ、そもそも、水上氏による道元禅師の性格付けが失敗している以上、この「忠実な実践者」という指摘は、外れている可能性が高いと思う。懐弉禅師はおそらく、バランスの取れた調整型のリーダーであるし、道元禅師もそれを信頼して大小様々なことを相承していたと思う。しかも、寂円―懐弉の永平寺派というのが、義介禅師に対抗して存在していたということはあり得ない。懐弉禅師は、寂円派の道元禅師伝である『建撕記』を見ても、瑩山派のそれである『三祖行業記』を見ても、ともに義介禅師を正統な後継にするべく努力していたことは明らかであって、そこに寂円禅師は影も形も見えない。

そもそも、寂円禅師の位置付けは、古伝を見れば見るほど不明瞭になってくる。詳しいのは、寂円禅師の法嗣で後に永平寺五世となる義雲禅師の『語録』と、永平寺十三世・建綱禅師が著した『宝慶由緒記』だけである。しかも、後者の成立は15世紀に入ってからであろう。『建撕記』についても同じ感想なのだが、正直、時間が経ちすぎている。まぁ、寂円禅師が大野の宝慶寺で只管打坐の禅風を継承した事実はその通りだと思うのだが、それはあくまでも、晩年の道元禅師が構築しようとした叢林の「一部」を継承しているだけであって、総合的な継承はむしろ、ここで水上氏が「大乗寺派」と呼ぶ系統にあると思う(『瑩山清規』は道元禅師の僧堂の坐禅を忠実に受け継ぎ、合わせて様々な諷経を取り入れている。なお、道元禅師の時代にも、当然に諷経はあった)。

おそらくこれは、【三代相論】について、大混乱が起きたとばかり考えてしまいがちな人の誤読であろう。

義介禅師が永平寺を降りた理由は、様々推測されている。まぁ、山内からの批判があったことは間違いないが、その原因は、水上氏が言われているような寺院運営の方向性の問題とは限定できない。義介禅師の個人的な性格の問題もあるし、また、義介禅師は永平寺退院後、同寺の麓に「養母堂」を立てて母を養護したともされるので、その関係もあったのか?ついでにいえば、義介禅師の法嗣である瑩山禅師もまた、母を最期までそばにいさせて大事にしている。ただ、それらは全て推測に過ぎない。また、水上氏は寂円―懐弉の永平寺派とはいうが、1309年に義介禅師が大乗寺で御遷化されたとき、義介禅師の喪儀の様子を書き残した『喪記』では大乗寺から永平寺へ訃報が発せられたといい、その関係で義演禅師が義介禅師の位牌を書かれたとされる(『建撕記』)。だとすれば、義介禅師がご存命の時には、寂円禅師の関係は永平寺に入っていないのであって、先の水上氏の見解は、誤解に誤解を重ねたものだといわざるを得ない。

繰り返すが、義介禅師に何も問題が無かったとはいわない。だが、それは、ここで水上氏が言われるようなことではない。

なお、水上氏はその後も執拗に、「曹洞宗の変質」ということを述べるのだが、その方向性は今枝愛真氏の見解を引きつつ、「加持祈祷の密教化、死者の葬送、供養などを大いに奨励」といういつも聞き慣れている、誤読の曹洞宗教義論である。まず、密教化について、もしそれが義介禅師や瑩山禅師に始まったという事実があるならば、この批判は該当するかもしれない。だが、実際には、ここでいう密教化に相当するような「神仏の加護を祈る」ことは、既に道元禅師の時代から始まっている。それが、『永平寺知事清規』「典座」項に見える「竈公諷経」である。ここで道元禅師は「竈の神様」に祈るように説き、更にその時に唱える経呪には、『楞厳呪』『大悲呪』が見える。ということは、密教系の陀羅尼をもって読経し供養していたのである。また、『正法眼蔵』「安居」巻にも「土地堂念誦」が見えるが、これは「土地神」に対して、安居の無事円成を祈る念誦法要である。よって、これらを総合すれば、道元禅師には、「帰依三宝」巻に見えるように、諸神に帰依をしたところで直接に仏道を得られるわけでは無いが、諸神への供養によって仏道が成就する条件が調うとは考えたのである。その態度は、瑩山禅師でも変わらない。同じく、「死者の葬儀」については、確かに道元禅師には在家葬儀の記録こそ見えないが、『知事清規』では中国で行われたその事例を引いているし、興聖寺で弟子の葬儀(亡僧僧海、慧に対して)は行われていた。また、供養については言うまでも無い、『正法眼蔵』「供養諸仏」巻では、諸仏への供養をせずに成仏した例は無い、とまで断言される。

よって、水上氏などがあこがれた「純粋禅」とは、歴史上存在していなかった妄想に過ぎない。転じていえば近代合理主義の中で夢想されたフィクションなのである。結局、『禅とは何か』という1冊は、小説家である水上氏によって書かれた、一大フィクションだったという結論で終わるのであった。いつもいうことだが、道元禅師の性格付けを、『正法眼蔵随聞記』『弁道話』『学道用心集』でばっかり行うから、こういう間違いをするのだ。せめて、『正法眼蔵』『永平広録』『永平清規』くらいは全て読んで欲しいものであった。いや、それらを正しく読む機会を逃したまま、亡くなられた水上氏に憐愍の情さえ憶えるのである。

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