つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

身心と心身

2005-05-13 05:39:22 | 仏教
昨年と或る講演会で、あの養老孟司先生が「身心」と「心身」について述べておられました。
それによりますと、現在は「心身医学」「心身病」「心身症」のように「心」が上に来るわけですが、昔は「恒に魔王のために、しかも僕使となって、六道に駆馳し、身心を苦節す。」(法然上人『選択本願念仏集』)や「参禅は身心脱落なり。」(道元禅師『正法眼蔵』「三昧王三昧」巻など)などのように「身」が上に来ていたわけです。

養老先生に依れば、この「身」と「心」の入れ替えは、どうやら江戸時代頃ではないかと推測されており、その理由を「何事も心がけ」という世界になってきたからだとしておられました。実際、江戸時代には「心学」(註1)というのがありまして、こんな時代で「身心」が「心身」になったのではないか、という話でした。

よくよく考えてみれば、昨今良く言われるスピリチュアルだ、魂だ、精神だというのは、この転倒がなければ成り立たない話では無かろうかと思うわけです。実際、道元禅師は繰り返し「身」と「心」は一体(=身心一如)で、各々は独立ではないとされています。いや、これは各々の実態を見て述べたというよりも、あくまで法の実相に即して述べられたものではありますが…
道元禅師は、それを最初期の著作であり、坐禅修行に則った自らの教えを『辨道話』で以下のように述べておられます。

つまり、心性が常住であるという道理を知るべきである。その意旨は、この身体は、すでに生まれることがあれば、かならず滅していくが、この心性は少しも滅することはない。生滅しない心性がわが身にあることをよっくと知れば、これを本来の性なのだから、身は仮の姿である。此に死に彼方に生まれるなど定まることがない。心は常住であり、過去現在未来と変わらないのだ。

こういった教えがあったということです。これを道元禅師は先尼外道と称して批判します。

 知るべきである。仏法では、元から身心は一如であり、姿と性質は不二であると述べている。インドでも中国でも同じように知られているのだから、少しも疑ってはならない。ましてや常住を主張する系統では、世の全ての法が皆常住であり、身と心とを分けることがない。
 身心一如の意旨は、仏の教えで常に主張されたことだ。そうであるのに、何故、この身が生滅するとき、心だけが身から離れて生滅しないことがあろうか。もし一如であるときと、一如ではないときとあるならば、仏の説はウソになってしまうではないか。


まぁ、ヘタレ訳ですがだいたいこんなものでしょう。
『辨道話』は、道元禅師が中国で悟りを得て帰国されて後、寛喜三年(1231)に書かれたもので、おそらく自ら坐禅を続けてその境地というか、後には簡単に「非思量」と言われてしまいますが、この精神状態を用いて書かれたものと思われます。したがって、各所に「非思量」で分析した知であることを感じさせます。

仏教がそもそも何なのか?というちょっと大袈裟な話にも若干踏み込まなくてはなりませんが、仏教とは戒定慧の三学が示すように、結局は智慧であるはずなのです。要するに、この世の中に生滅する現象がどのようなものであるかを正しく把握することだと言うべきでしょうか。それは物質のみならず、心理的なものまで射程が及びます。その根本に縁起説があることは、少しでも仏教に触れた方ならば、良くお分かりのことでしょう。

古来より曹洞宗では修行が重要だと言われ、現にほとんどの曹洞宗侶が、坐禅に勤しみます。ただ、たまに坐禅だけあれば他は何にも要らないという一種の暴論を宣う方がおられますが、実際は坐禅をやっていれば良いということすら、智慧として言われたはずであって、戒定慧の「定」で留まって良いとされたのではないはずです。したがって、本来は定を得るための坐禅は、戒定慧の全てを包摂することになります。つまり、坐禅によって智慧を得たり、自己の有り様を検証したり、とかく様々な使い方があるはずで、道元禅師も弟子の孤雲懐弉禅師に「久しく坐禅をしていれば、次第に良くなるのだ」と『正法眼蔵随聞記』で言っております。となると、ただの「禅定」だけが目的では決してないわけです。

で、話を戻して、道元禅師はその智慧として身心一如であるといわれました。ここでは、自分で「こうあって欲しい」という願望を抑えて現象を見ています。
確かに気持ちは分かります。「いつまでも生きたい」というのは、欲求として正しいものでしょう。しかし、この欲求や感情がどれほどあっても、現実では死んでいく。ここには、人間の感情は他の動物に見ないほど肥大化しておりますが、感情には感情の実態があるわけです。それは「感情は感情にしかなることが出来ない」ということです。

常に、感情はそれ自体で成立してますが、しかし、それが外的現実に影響を与えることは、ごく小さな範囲です。
禅問答のようで恐縮なのですが、一つ面白い実験をしてみましょう。

それでは、笑顔を作って下さい。はい、笑って笑って!!
では、そこから笑いを消して下さい。



















……出来ますよね。


では、笑顔から顔を消して笑いを残して下さい。






















……出来る人おりますか?
ここが感情です。何となく分かっていただけましたか?或いは拡大された意味として「身心一如」ってこともです。

まぁ、もし感情だけが残るって事があるとすれば、それは伽椰子くらいなもので……呪怨

(註1)心学とは、狭い意味では「石門心学」を指しまして、江戸時代石田梅岩(1685〜1744)によって提唱された学問です。「本心」に覚醒することで、勤勉さや倹約を行うことが出来る人格形成を目的にしたものとされます。そして、近世中期以降には全国に広がり、大きな影響を与えました。なお、石田梅岩は朱子学・禅学・老荘思想・神道など、諸々の諸宗教に影響を受けたとされております。後継者は、石田梅岩の説く内容を平易化しようと努め、その時代や地域によって様々な学問や宗教と習合し、一言で「石門心学」と言っても様々な種類が出来ることになります。後継者には手島堵庵(1718〜1786)などがおり、その思想は白石正邦編『手島堵庵心学集』(岩波文庫・1934年)などで知られます。それから、R・N・ベラーは『徳川時代の宗教』(池田昭訳、岩波文庫・1996年)でヴェーバーの社会学的手法を用いて同著を記し、「第六章 心学とその創始者、石田梅巌」という一章を設けて論じ、江戸時代に於ける宗教と政治と経済の関係を分析しました。

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ヴェーバー 1934年 正法眼蔵随聞記 スピリチュアル 選択本願念仏集
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2 コメント

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R・N・ベラー (信濃大門)
2009-11-14 04:37:41
 R・N・ベラーの『日本近代化と宗教倫理 未来社』を読んでいて、凄い外国人もいるものだと感心し、またその中で「石田梅巌」という江戸期の人物を知りました。これまた凄い人もいるもんだ思い、この両名に言及するしているブログはあるのかと思い朝から検索していたところ
○身心と心身 - 2005.5.13
○クシャミをした?盤珪禅師 - 2008.1.6
○江戸期の仏教 忠孝と持戒(続・或る僧の修行日記7) - 2007.6.28
があり、大変勉強になりました。
コメントありがとうございます。 (tenjin95)
2009-11-14 06:46:53
> 信濃大門 さん

> またその中で「石田梅巌」という江戸期の人物を知りました。これまた凄い人もいるもんだ思い、

石門心学の創始者ですね。実際のところ、「心学」という言葉は元々、朱子学辺りを指していたようですが、後に石田梅岩が出て、彼による実践的な民間学を意味するようになりました。実は、今後、この関係の記事を増やそうと、刊行されたものばかりではありますが、基本的な典籍を手元に相当数準備しています。よろしければ、その時にもご意見をお寄せ下さい。

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