つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

「本来無一物」の宗乗的参究

2009-06-07 07:20:08 | 仏教・禅宗・曹洞宗
この「本来無一物」という語句は、かの中国禅宗六祖慧能が、師である五祖弘忍に対して呈した偈の一句であるとされています。六祖の伝記である『六祖壇経』については、様々な写本がありますが、その中で同書を伝えた系統の意図が反映してか?それぞれに同異が激しく、この偈のテキストを定めるのも大変ですが、ここでは道元禅師が用いた偈のテキストを使ってみてみましょう。

 第三十三祖大鑑禅師、かつて黄梅山の法席に功夫せしとき、壁書して祖師に呈する偈にいはく、
  菩提本無樹、明鏡亦非台、(菩提は本より樹無し、明鏡も亦た台に非ず)
  本来無一物、何処有塵埃。(本来無一物、何れの処に塵埃有らん)
 しかあれば、この道取を学取すべし。大鑑高祖、よの人、これを古仏といふ。圜悟禅師いはく、稽首曹渓真古仏。
    『正法眼蔵』「古鏡」巻


道元禅師は、このような素晴らしい偈頌を示された六祖慧能禅師のことを、古仏と評価している人がいるとし、一例として臨済宗の圜悟克勤禅師の言葉も紹介されています。では、この「本来無一物」とはどのような意味なのでしょうか?これまた一例に過ぎませんが、以下のような訳文を見たことがあります。前後の句も訳して、全体として捉えてみましょう。

悟りにはもともと樹はない、澄んだ鏡もまた台ではない。
本来からりとして何もないのだ、どこに塵や埃があろうか。
    中川孝氏『六祖壇経』タチバナ教養文庫、52頁


六祖は(道元禅師の評価はともかくとして)見性を重んじた人です。見性とは、仏性をありありと見取することであり、仏性に於ける絶対平等、絶対無差別の世界に於いては、もはや菩提ということもなければ、明鏡ということもなく、我々の心に着きやすい煩悩なども無いと看破しているのです。これを、六祖の深い見性体験に基づくと評価する人もいます。さらに、その紐帯となる「本来無一物」については、確かに六祖の思想のカギになるわけですが、しかし、これは素直に六祖の独創であるということもできません。中国に禅宗が根付き始める、その揺籃期を支えた祖師方によって徐々に育てられた宗教体験を、六祖が総括したと見るべきなのです。

それでは「本来無一物」という斬新な響きを伝えるこの秀句はいかにして生れたのであろうか。『楞伽人法志』には、弘忍が門人に提起して工夫せしめた例題が挙げてある。その中に「糞穢の草土を掃除し却って、併当し尽せば一物も亦た無し、是れ何物ぞ」というのがある。〈中略〉この「一物亦無」という弘忍の提示と、慧能が「無一物」と頌したその発想に何らかの関係を考えることが可能である。
    中川氏前掲同著、333~334頁


中川氏やその先行研究の指摘に依れば、六祖の「本来無一物」は、四祖道信、五祖弘忍がそれぞれに自身の内証を表現されるために用いた「無」への徹底的な参究があった上でもたらされたものです。これは、一方で六祖の師兄であった大通神秀が我々自身に本具する仏性の様子を知りつつ、しかしながらそれを俗態に堕として、中途半端な「無相偈」を書いたことに比べてみると、神秀は無への徹見に乏しかったことを知るわけです。さて、そのような六祖の「本来無一物」ですが、最初に採り上げた道元禅師はこれをどう評価しているのでしょうか?前掲と同じ「古鏡」巻では、次のように提唱されます。

しかあればしるべし、大鑑高祖の明鏡をしめす、本来無一物、何処有塵埃、なり。明鏡非台、これ命脈あり、功夫すべし。明明はみな明鏡なり、かるがゆえに、明頭来明頭打といふ。いづれのところ、にあらざれば、いづれのところ、なし。いはんや、かがみにあらざる一塵の、尽十方界にのこれらんや。かがみにあらざる一塵、かがみにのこらんや。しるべし、尽界は塵刹にあらざるなり、ゆえに古鏡面なり。

道元禅師は、「本来無一物」を、六祖が「明鏡」を示す言葉だとされています。そして、明鏡は明鏡きりであり、その絶対なる事実を示す言葉の「明鏡非台」は、仏祖道参究への命脈があるので、良く工夫されるべきだといっています。そして、鏡と塵埃とは、徹底一つであると解釈されます。「塵埃無し」ではなくて、「何れの処」という疑問を用いた「無限定」にって、あらゆる場所が、明鏡としての尽界、そして塵埃だとされるのです。もし、明鏡だとばかり見て、塵埃が無いとするのであれば、それは明鏡と塵埃とは、どこまでも対立したままで終わり、明鏡へも仏性へも、そして塵埃へも、その徹見は不十分なのです。しかし、尽界は、塵埃による刹ではなく、古鏡面です。今ここにある塵埃に、直接に古鏡面を見る、その絶対一元とはそこまで突き詰められなければならないのです。「これから塵埃を払拭しよう」という神秀の偈は論外ですが、「本から塵埃など無い」という程度の解釈で六祖の偈を見てもまた、不十分なのです。

上堂に云く。直に道わん本来無一物と、還た遍界不曾蔵を看ん。下座。
    『永平広録』巻1-53上堂


道元禅師はまだ、京都宇治興聖寺にて化を振るっておられた頃、「本来無一物」を用いた説法で、以上のように述べたことがあります。本来無一物と遍界不曾蔵とは同じことなのです。ともに、仏法の隠れ無き様子を示す言葉だと理解できるわけですが、その意味では塵埃と明鏡とを対立させていては、この境地を道取することはできません。「無一物」については、明鏡として、仏性として、塵埃として、見るべき「一物も無い」のではなくて、今まさに自己に対して現象する塵埃の一切を、明鏡そのものであると観るのです。塵埃に明鏡を観、明鏡に塵埃を観、塵埃を塵埃と観、明鏡を明鏡と観、その事実の連続的生起を以て、「われを排列しをきて尽界とせり、〈中略〉われを排列してわれこれをみるなり」(「有時」巻)となるのです。

さて、ここだけで留まりますと、やはり修証否定の論理を招く可能性があります。それは、晩年の道元禅師が再度「本来無一物」を説いた際に、「道うこと莫れ本来無一物」(『永平広録』巻7-526上堂)と全否定していることがありますが、実際に六祖以降の唐代の禅風は、概して仏性なる事実に目覚めることを説き、一方で修行の形式に把われることを否定し、坐禅も否定したのです。また、以下のような問題点があります。

元来自なく他なし、都て一物なしといふ所見は、外道の断見二乗の空見に同じし。大乗極則、豈二乗外道に同くすべけんや。子細に精到して正に落著せん時、有といふべきに非ず、空朗朗なる故に。無といふべきに非ず、明了了なる故に。
    瑩山禅師伝光録』第40章


先ほど、無一物の捉え方に注意しましたが、それはこの瑩山禅師の見解を受けてのことです。「都て一物なし」というのは、大乗の教説ではなく、むしろただ欲望を否定しさえすれば良いとする二乗の教説と同じになるのです。有でも無でもない、まさに常に留まらない様子を、直接に直観しなくてはならないのです。よって、先にも挙げたような、塵埃と明鏡との連関についても、あくまでも次々と経験される事実、その連続的生起をもって理解されねば成りません。そして、「一句合頭語、万劫繋驢橛」となることを躊躇せずこの事実を示す言葉として、以下の一節を引いておきます。

見成これ何必なり。
    『正法眼蔵』「現成公案」巻


愛すれど及ばない、されど好語なる歟、見成これ《何必》。

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9 コメント

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難しい! (観音寺和尚)
2009-06-07 11:49:03
今日はまた、唸るほどの難しさですね。しかし言葉の上でわかったつもりになっていたことがよくわかりました。精進します!
本来無一物 (zazen256)
2009-06-08 04:21:12
 私は六祖慧能の「本来無一物」については、
「空の世界」の中で考え続けたいと思っています。

皆さんコメントありがとうございます。 (tenjin95)
2009-06-08 08:31:28
> 観音寺和尚 さん

> 今日はまた、唸るほどの難しさですね。しかし言葉の上でわかったつもりになっていたことがよくわかりました。精進します!

拙僧も、まだまだ精進したいと思います。
それは、やはり坐、坐、坐・・・

> zazen256 さん

久方ぶりのコメント、ありがとうございます。

> 私は六祖慧能の「本来無一物」については、「空の世界」の中で考え続けたいと思っています。

別に、今更に思わなくたって、みんな空の世界の中で考えている事実には変わりないと思います。
修証不二 (金剛居士)
2009-06-23 23:19:09
こちらの記事に触発されて、私も記事を書いてみました。

要点を凝縮して解りやすくまとめるのには時間がかかりますね。で、そうやって苦労して書き上げた記事も、さほど修行をしていない人には難解な文字の羅列にしか見えなかったりする。

トラックバックも打ちましたが、コメントかTBかどちらか一方にすべきでしたかね。
コメント&TBありがとうございます。 (tenjin95)
2009-06-24 04:23:32
> 金剛居士 さん

> こちらの記事に触発されて、私も記事を書いてみました。

そうですか。ご苦労様でございます。

> 要点を凝縮して解りやすくまとめるのには時間がかかりますね。で、そうやって苦労して書き上げた記事も、さほど修行をしていない人には難解な文字の羅列にしか見えなかったりする。

いやいや、そんな修行をしていない人、なんていう立場を設定しては、さも、自分は修行しています、なんていう増上慢になってしまいます。ただ、自証を自道取されれば、それで良いではないですか?拙僧も、記事の難易については、こだわらず記事にしています。それは、拙僧自身に必要だからです。そして、もしかしたら、それが誰かに伝わるかもしれない、後者は余り期待せずに書いていますけれども、そんなくらいの態度でよろしいのでは?
拙ブログへのTBとコメントありがとうございました。 (金剛居士)
2009-06-29 00:50:13
tenjin95さん

 六祖の偈についてですが、研究者がほぼ誤りであるとした論拠や、どのような点で六祖自身の徹見が活かされず仕舞いになるのかなど、機会がありましたら解説記事を書いていただけると幸いです。また、たぶん参照できないとは思いますが、うまくいけば読む機会に恵まれるかもしれませんので、その文献などもご提示いただけるとありがたいです。

 前の私のコメントの「難解な文字の羅列」云々については、「禅は不立文字なのに解説のために文字に依って立とうとしてしまい、立てずにくずおれた」ってことで・・・。(^^;

 増上慢については、私もいろいろと考えるところがありますし、ここで書くと長くなってしまいますので、いずれ私のブログで記事にしたいと思っています。

 私も書きながら物事が明確に見えてくるというようなことがよくあるので、専門用語を駆使して書いてみるのが大好きです。知識をひけらかしているわけではありません。私にそんな暇はない。(^^; 他者のためと言いつつ自分自身のために小難しい議論を続けていくことでしょう。(爆)
コメントありがとうございます。 (tenjin95)
2009-06-29 07:28:19
> 金剛居士 さん

> 六祖の偈についてですが、研究者がほぼ誤りであるとした論拠や、どのような点で六祖自身の徹見が活かされず仕舞いになるのかなど、機会がありましたら解説記事を書いていただけると幸いです。

拙僧は、六祖慧能の研究者ではないので、この辺は従来の先行研究をご覧いただいた方が誤解が無くて良いでしょう。参考までに、中川孝氏の『六祖壇経』(タチバナ教養文庫)の「解説」331頁~をご覧ください。

> 前の私のコメントの「難解な文字の羅列」云々については、「禅は不立文字なのに解説のために文字に依って立とうとしてしまい、立てずにくずおれた」ってことで・・・。(^^;

不立文字については、様々な解釈がありますが、やはり文字から入るのではなくて、自己の経験から入ることを目指す教えを自称するための、一種の標語なのでしょう。よって、文字を立てたか否かが問題なのではなく、文字の前にキチッと坐禅できているか否かが問題なのです。

> 増上慢については、私もいろいろと考えるところがありますし、ここで書くと長くなってしまいますので、いずれ私のブログで記事にしたいと思っています。

そうですか。増上慢というのは、本当に気を付けたいところです。

> 私も書きながら物事が明確に見えてくるというようなことがよくあるので、専門用語を駆使して書いてみるのが大好きです。知識をひけらかしているわけではありません。私にそんな暇はない。(^^; 他者のためと言いつつ自分自身のために小難しい議論を続けていくことでしょう。(爆)

そうですか?先のコメントを見ると、決してそんなことでもないような気がしますが、知識のひけらかしは、ハッキリ言って見苦しい物です。それは絶対にしない方が良いでしょう。また、専門用語を駆使して、と仰っていますが、むしり必要なのは、我々自身の豊かな経験であって、その経験を説明するのに、初めて『用語』が要請されるのであって、専門用語が先行しても、それこそ「不立文字」とは離れて行くばっかり、そんな人に禅が会得できるのでしょうか?そんな難しいことを言う前に、まず坐ってみますかね。
専門用語、使わないで! (安原)
2010-05-27 22:24:41
出来る限り、専門用語は使わないで頂けると大変にありがたいのですが。私のように無知無学な読者のことも考えてください。無知無学ながらも少しでも理解を深めようと努力している者にとっては専門用語は少なければ少ないほどありがたいものです。専門用語を使うことがどうしても必要な時もあるでしょうが、その時は出来るだけ平易な解説を付けて頂けると助かります。多分、平易な解説を付けると言うのは専門用語を使うよりも実はずっとずっと難しいことに気が付かれることでしょう。理解の深い人でないと平易な解説はできないと思います。
コメントありがとうございます。 (tenjin95)
2010-05-28 08:09:38
> 安原 さん

> 出来る限り、専門用語は使わないで頂けると大変にありがたいのですが。私のように無知無学な読者のことも考えてください。無知無学ながらも少しでも理解を深めようと努力している者にとっては専門用語は少なければ少ないほどありがたいものです。

ご要望、極力お答えしたいとは思いますが、しかし、仏教というのは、言葉だけで学ぶわけで無し、修行を通して学んでみてください。

http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/7a45141fcf56550c3ab23e67ee69b1cc

以前、このような記事を書いたこともありますので、ご覧ください。

> 専門用語を使うことがどうしても必要な時もあるでしょうが、その時は出来るだけ平易な解説を付けて頂けると助かります。

一応、専門用語には拙僧が作っているネット辞書へのリンクを張るように心掛けています。そちらもご参照ください。或いは、総体的な要望を出すだけではなくて、個別的に、特定の用語を知りたいという要望を出していただければ、対応します。

> 多分、平易な解説を付けると言うのは専門用語を使うよりも実はずっとずっと難しいことに気が付かれることでしょう。理解の深い人でないと平易な解説はできないと思います。

ご指摘の通り、だと申し上げたいところですが、専門用語が何故、専門用語なのか?それを考えたことはありますか?それは、その用語でないと表現できない意味があるからなのです。平易な用語に置き換えた瞬間に、本来の意味が霞む・・・そういうこともあるのです。また、本来難しいことを、易しく説くというのは、詐欺師に等しいという見解を聞いたこともありますのでその辺もご理解ください。

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