つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

「知的設計」で人間誕生 米で反進化論台頭 「神」と表現せず学校で教育

2005-08-28 15:22:23 | 仏教・宗教・カルト・霊感商法関連ニュース
「知的設計」で人間誕生 米で反進化論台頭 「神」と表現せず学校で教育 (産経新聞) - goo ニュース

いや、神って使わないで「知性を持つ者」でも一緒ですよ。元々神とはモーゼがシナイ山で交わした契約の前の十戒の中に「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」(『聖書』「出エジプト記」、日本聖書協会・126頁)という一文があるのですから。

したがって、「インテリジェント・デザイン」論が、「自然は非常に複雑で、ダーウィンの進化論が主張する無作為の自然淘汰(とうた)で説明することはできない」とすることで、自然の法則に高度な「何らかの意図をもった知性=知的設計者」が介在しているとする考え方ですけど、非常に問題ですね。

もし、知的設計者がいたとして、この設計者は善意に満ちているのでしょうか?それとも悪意ももたらすのでしょうか?それとも善悪を超越してるのでしょうか?もし、善意に満ちているとすれば、この世界に悪がある理由を説明できませんし、自然だってもっと優しくても良いような気がします。都会に住んでいると理解できませんが、基本的に自然は残酷です。それは、我々人間に合わせてくれようとしないからです。むしろ、人間が自然に合わせてくれるだろうと一方的に期待する心そのものが傲慢な考えに過ぎないのですが・・・そして、悪意とは人間が一方的に期待して裏切られているに過ぎないのではないでしょうか?おそらく自然とは我々の善悪の彼岸に存在しています。そして、人間はその自然のほんの一部を自分達でも理解できるように還元しているに過ぎません。これが科学的思考です。

ですから、実際に世界が多様な自然に満たされていることの説明として、ダーウィンの説(正確には「ダーウィン=ウォレスの説」と呼ばれるべきですけど)による自然淘汰論だけでは問題があるのではないか?なんて反論は、これまで多くの科学者・哲学者・宗教者が提出してきました。手近なものでは八杉龍一氏編訳『ダーウィニズム論集』(岩波文庫)などで勉強できます。しかし、我々は科学の名の下に、ダーウィンの学説を用いてきました。学説とて、進化論からは逃れられませんが、現在は進化論が支配的(まぁこういった学説(公理)の支配を考えるのも「パラダイム」的な思考であって、ポパーが出した旧知の説です。既にオートポイエーシスなどのシステム論で否定されつつあります)です。今後変わるかもしれません。しかし、今現在変える必要は認められません。おそらく、ダーウィンの説を改良していくだけで、しばらく人類は対応できるでしょう。こういった事を例えば、E・H・ヘッケルは以下のように述べます。

われわれは、ダーウィンの進化学説がけっして成熟し完成しまとまった学問体系に到達しているのではないことも、忘れてはなりません。むしろそれは未来の体系の大筋を示すものであり、いま存在する体系を徹底的に改革させる最初の強力な動機を与えるものです。できあがってまもない、向上を目ざす建造物に数多くあるすき間や弱点は、おおぜいの敵手の攻撃を非常に容易にしています。他方、ダーウィンが一面的に強調しすぎている生存闘争における自然選択より重要性がおそらく劣っていはいない多数の関係が、まだまったく、あるいはほとんど、分っていません。
     『ダーウィニズム論集』114頁

ですから、元々ダーウィンの学説は将来に向かって改良されるべきモノであることは確かですが、それは決して今回のアメリカがやろうとしているようなことではないはずで、だからこそ非常に厄介なのです。

今回の「インテリジェンス・デザイン」説で前提にされるような、自然を含めた我々が作られる際に、知性が介入したとすれば、この知性は我々に理解できるものなのでしょうか?もし理解できれば、自然を我々の矮小な知識でもって、考えようとする、自然の矮小化に他なりません。そこで、こういった考え方に対して「イヤ違う。この創造者は当然我々に理解できないモノまで作ったのだ」という人がいるかもしれない。つまり、理解できないのだったら、そんな創造者はいてもいなくても一緒です。。。

そもそも、拙僧のような仏教徒(キリスト教の方も見に来ているので、その方の考えを否定しないために敢えてこのように申し上げます)には、創造者は必要有りません。必要なのは、世界の有り様を観ていく智慧と、智慧をたゆまずに発現していくための修行です。修行しなければ発現しないのか?といぶかる方がいるかもしれません。例えば“科学的思考”などを強硬に振りかざす方が、まさに不要と叫ぶでしょう。逆に拙僧は言いたい。拙僧は科学的思考を実現しようとする方が、例えば非常に重大な病になったとき、身の不幸(失恋・受験失敗など)が起きたときに、あっさりと「科学的思考」の信者を止めていく姿を見ましたし、極論すればそういった「常-識」などは虫歯一本で揺らぐような幻想としての強弁です。したがって、拙僧が問題だと思うのは、こういった科学的合理性を強弁する態度そのものであり、強弁そのものが非合理的態度なのです。

最も合理的な生き方は、必要があったときに自分の思考法を変えることであり、拠り所としている特定の領域を疑い、破壊し再建する労苦を厭わないことです。そして、仏教では修行=坐禅によって、事象の根源(=無明)を問い、無明から一切の事象を成り立たせる、自分自身の煩悩を明らかにすることこそ智慧に他ならないのです。古代のインドでは、そうした知恵を持つ者を悟りを得たもの=覚者(ブッダ)として尊崇されました。その意味ではブッダは宗教者ではないかもしれません。出来ることなら拙僧もそういった非宗教者でありたいですな・・・

しかし、今の日本ではそういった非宗教者は尊崇されても生きてはいけないでしょう。ブッダが生きていたインドなら、ブッダは多くの帰依を受け、布施を受けました。現代の日本では、どれだけ素晴らしい知恵を持っていても、それ自体が布施の対象になることはありません。インドでは、そういった尊者に対して布施をすることが、今現在尊者となれていない自分の人生が、来世で尊者に近い位置に生まれ変わることを約束していたため、皆布施をしました。また、布施をしてブッダの法を聞くことで、さらに尊者に近付くこともできました。こういった、精神的な高貴さを大事にする社会では、ブッダはそのままで生きていけます。

したがって、ブッダがどれだけ素晴らしくても、基本的に現世中心主義である現代の日本には必要ないのです。この世さえ楽しければ良いからです。葬儀にしろ、法事にしろ、全てはこの世を楽しむために存在していると、極論すればそうなります。

だからこそ、智慧を持つ破戒僧こそ必要ではないかとも考えます。破戒僧だからこそ、葬儀にでも何にでも手を染めて、勝手に食べてくれて、たまには法を説いてくれてご先祖様を祀ってくれるからです。一番付き合いやすいでしょ?

なんだか、まとまらない文章になってきたので、書いてしまいますが、科学万能主義も宗教万能主義も要らない。むしろ万能なんて事があり得ない、事象の限界を見定めて、限界の中でどうするかを考えて生きていきたい拙僧でした。っていうか、これってプラグマティズムですけどね。だからかな?このブログにはW・ジェームス同様に取っつきにくい、結論が分かりにくい文章しかないのは・・・
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7 コメント

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非礼をおわびいたします (Rough Tone)
2005-08-28 23:25:40
トラックバックに続き、コメントありがとうございました。



 じつは、私にとって「科学的思考」という言葉は、ネガティブなイメージを持たない、むしろ合理的精神を象徴する言葉だと思っていたので、トンデモな「科学万能主義」と一緒にされてはたまらないという思いから、一気に反論めいたことを書いてしまったところがあります。じつは本質的にはそう違いがなく、言葉の表層の解釈に差があっただけなのだということがわかりました。すみません



 トラックバックさせていただいた記事では、なにやら反論めいた感じになってしまいましたが、つけていただいたコメントを拝見して「科学を盲信することがじつは科学的でない非合理主義である」ということは、tenjin95さんとの共通の認識であるということがわかりました。



 私はなにせ、これまで「神を信じない」「神はいない」「宗教は阿片」などとブログで書き散らしてきましたので、宗教関係の方からの反応には過敏になっていたのかもしれません。申し訳ございませんでした



 最後に、以前に私が書いたエントリから引用させていただくことをお許しください。



「 宗教になくて科学や哲学にないものというのは、「なぜ?」という問いだろう。無論、科学者も、科学理論も、信仰の対象になってしまってはおしまいだ(自戒せねば・・・)。

 タレースなどと同様に自然哲学者のひとりとされるピタゴラスは、「万物の根源」と考えた「数」を絶対化し、神として崇めた。またフランス革命政権も、「理性」の優位性を強調するあまり、それは批判は許さない信仰の対象になっていった。

 世の宗教というものは、はじめから宗教らしい宗教だったわけじゃないような気がする。神の前の万民平等を説くイエスやムハンマドの教えは、差別されあるいは虐げられていた人びとにとって、どれほど光となったことだろう。親鸞の悪人正機説は、善人になりたくともなれないことがわかっているふつうの人々に、どれだけ救いを与えたことだろう。



 開祖といわれる人びとは、イエスにしても釈尊にしても、彼らなりに世界と向き合い、人の世の真理を発見したと考えた、あるいは人びとを救う唯一の道だと考え、それを広めたかっただけだったのではないだろうか。」



http://roughtone.air-nifty.com/passing_strangers/2004/09/post_2.html

「まつりあげるな、とチクタクマンは言った」



 無神論者にも示唆を与えてくれる素晴らしい記事を、今後とも拝見させてください。
追記 (Rough Tone)
2005-08-28 23:47:20
 上記引用文中「宗教になくて科学や哲学にないもの」というのは「宗教になくて科学や哲学にあるもの」の間違いです。



 とはいえ、臨済禅における「公案解決」などの意味を考えれば、この言葉はあきらかにまちがいですね。こういうことが誤解のもととなるのでしょうね。



重ね重ねすみません。
どうぞお気遣い無く (tenjin95)
2005-08-29 07:19:15
> Rough Tone さん



別に気分を害したわけでもなく、むしろ、Rough Toneさんが、本当に合理的思考が出来ない科学教信者であれば、拙僧がTBをかけることもありませんでしたし、コメントすることもありませんでした。



さて、科学的思考が合理的であることは疑いないこともありますが、問題はそういった思考を使いこなす我々人間の側にあります。本文中に述べたように、これが強弁されては、妄信と同じになります。或いは、述懐されておられるように、科学的思考にはネガティブなイメージは持っておられなかったということですが、おそらく信仰を持つ方であれば“神”という言葉に対しても、同様のイメージを持つことでしょう。



なお、拙僧は後出しジャンケンのようで恐縮ですが、神についてはいてもいなくても構わないと思っております。むしろ、釈尊の論法を用いるならば、そういった超越者については「無記」という回答を示しております。つまり答えを出さないということです。



それから、「宗教は阿片である」というマルクスの『ヘーゲル法哲学批判序説』での物言いについては、一般的には「宗教への批判」だと思われていますが、「宗教への啓蒙主義的批判への批判」ですね。Rough Toneさんも、読み込んでおられるようですが、宗教は幻想です。そして、この幻想の中に現実への抗議と要求が含まれています。では、現実の苦悩を取り払うのだから科学が素晴らしいということになるのかもしれませんが、基本的に科学とは理性の所産です。



そして、カントが『純粋理性批判』「第1版序文」で指摘するように「人間の理性は、或る種の認識について特殊の運命を担っている、即ち理性が斥けることもできず、さりとてまた答えることもできないような問題に悩まされるという運命である。斥けることができないというのは、これらの問題が理性の自然的本性によって理性に課せられているからである、また答えることができないというのは、かかる問題が人間理性の一切の能力を越えているからである。」という、人間理性の能力を越える事態を前提していますので、実は宗教に見えるような(科学への妄信含む)信仰は、理性が望まぬとも理性にもたらされてしまうようなものなのかもしれません。



これらを鑑みるに本当の意味で宗教を否定したければ宗教や神へのネガティブな発言を行ったところで対話は成立しませんので、むしろその宗教を必要としている理性の機能を批判=吟味するべきだと考えますし、拙僧はそうしております。



なんだかとりとめもないようなコメントになってしまって恐縮ですが、今後とも気になる事などございましたら遠慮無くご批判・ご叱正賜れば幸いです。合掌。
Unknown (Rough Tone)
2005-08-29 10:34:35
ありがとうございます。



>>科学的思考にはネガティブなイメージは持っておられなかったということですが、おそらく信仰を持つ方であれば“神”という言葉に対しても、同様のイメージを持つことでしょう。



この点については、



http://roughtone.air-nifty.com/passing_strangers/2005/07/post_ee30.html

「宗教は阿片」



というエントリのコメント欄にて、さいとさんという方と議論をさせていただいて、科学にしろ宗教にしろ、盲信はまちがいであるという止揚を得たと思っていました。「宗教が社会を作り、宗教が善悪を決め、宗教が文化を作る。宗教というのは、日常生活に非常に密着したもの」というさいとさんの言葉が印象に残っています。この意味を否定するなら、世界各地の個々の文化は破壊され、砂漠のような精神の荒廃した社会を生み出してしまうことにもつながります。



>>本当の意味で宗教を否定したければ宗教や神へのネガティブな発言を行ったところで対話は成立しませんので、むしろその宗教を必要としている理性の機能を批判=吟味するべきだと考えますし、拙僧はそうしております。



 私も、これまで書散らした無神論をめぐる文章は、自己の理性の弱さから信仰に逃げ込み、合理的な精神を忘れ狂信にいたったりはしないぞという、自分自身の決意表明のようなものでした。私の理性の限界を超えた事態がおきたとき、ネットにも実社会にも跋扈するさまざまな非合理主義に対抗できないような気がしていたからです。



今回はおつきあいくださりありがとうございました。
キリスト教信者です (jyakuzuregawa)
2005-08-29 11:19:39
tenjin95さんの引用された『出エジプト記』は旧約聖書です。これは「十戒」という掟です。十戒の掟は、神以外のものを信じてはならない、が含まれています。



アメリカはキリスト教信者が多い国です。その殆どがプロテスタントです。主にプロテスタントの使う聖書は、新約聖書だと思います。

 ですから、あえて新約聖書から引用しますが、

「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(新約聖書・マタイによる福音書・4節10章)とイエス様も十戒を引用しているのです。ブッシュさんも十戒の意味をわかっているはずです。

また、新約聖書ヨハネによる福音書(1章1~3節)においても、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。」で、神が世界を創造された、と書いてあります。

「知的設計者」は神ではありません。

神以外のものが世界を創ったと認めるのなら、すでに掟破りではないのでしょうか・・・?

 

「知的設計者」など使わなくても、学校で従来の科学を教え、教会や家庭で神について教えれば、それでいいと思ってしまうのですが。























ちょっとした結論を付けます。 (tenjin95)
2005-08-29 11:26:23
> Rough Tone さん



再コメントありがとうございます。



さて、実は最近拙僧はユマニストという生き方に共感しつつあります。この生き方をする人は、日本では渡辺一夫氏(個人)などが有名ですが、端的に「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」という問いを発し得る人々のことです。今回の論議に即せば「合理性は自らを守るために非合理性に対して非合理的に接するべきか」となるでしょうか。



拙僧は合理的な思考によって、理性から信仰へ逃げなくてはならないとの結論が出たのであれば逃げるべきだと思いますし、逃げないがために非合理的な思考に陥るのであれば、それは自ら合理性の看板を捨てているのです。



なお、「「宗教が社会を作り、宗教が善悪を決め、宗教が文化を作る。宗教というのは、日常生活に非常に密着したもの」というさいとさんの言葉」については、拙僧もうなずく点は多いですが、あくまでもそういった機能をする「宗教」もあるということにしておきたいですね。道元禅師は『正法眼蔵』「諸悪莫作」巻で「善悪は時なり、時は善悪にあらず」とされ、時代によって善悪の基準が変わることを示し、また社会や文化については、宗教が影響も与えたこともあるし、与えないこともあります。逆に言えば、そういった点でしか宗教が語れない段階で非常に痩せた宗教観であると危惧しております。



この点については、阿満利麿先生の著作等をご覧いただければ幸いです。おそらく、宗教観が良い意味で一変しますよ。
コメントありがとうございます。 (tenjin95)
2005-08-29 17:10:58
> jyakuzuregawa さん



上記のようにご指摘いただけますと、拙僧も大変に勉強になります。正直、キリスト教も旧約・新約関わらずに『聖書』を用いているだろうと判断して、敢えて十戒を引用してみたのですが、さすがに餅は餅屋というところであります。



しかも、ご指摘のような神ではない知的創造者の無意味さも、一応考慮しなかったわけではないのですが、こういった神学について門外漢甚だしい拙僧が知ったかぶりで申し上げても、誤解の上乗せになってしまいますので・・・



「「知的設計者」は神ではありません。神以外のものが世界を創ったと認めるのなら、すでに掟破りではないのでしょうか・・・?」のように考えられると、確認できまして、勉強になりました。ありがとうございます。

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「科学的思考」と「科学万能主義」 (Passing Strangers)
 tenjin95さんのブログ「つらつら日暮らし」から、さきに書いた「インテリジ