つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

流布本『普勧坐禅儀』では消えた文章について(3)

2017-07-13 13:10:35 | 坐禅
道元禅師の『普勧坐禅儀』には、現在大本山永平寺に所蔵される天福本(真筆)と、語録に収められる流布本が知られているわけだが、両者を比べてみると色々と興味深いことも出てくる。そこで、何度かにわたってそれを指摘してみたい。なお、そもそも、『普勧坐禅儀』は中国雲門宗の長蘆宗賾『坐禅儀』を改めて成立しているが、当初の『坐禅儀』にある場合には割愛する。つまり、『坐禅儀』に無く、流布本『普勧坐禅儀』にも無い文章を検討するというわけである。

 唯だ単伝直指を務めて、専ら翻身廻頭を事とす。
    天福本『普勧坐禅儀』


この部分だが、流布本では以下のように変わっている。

 唯だ打坐を務めて、兀地に礙えらる。
    流布本


天福本に於いては、「単伝直指」という、やや抽象的な内容を務めるように勧められ、その結果も、「翻身回頭」を事としているという。いわんとするところは、歴代の仏祖が正しく伝えられた、直接悟りに到る方法というくらいの意味であり、その結果、自由自在の境涯を得るという意味になると言える。しかし、流布本では、あくまでも務めるのは「打坐」であり、その結果も「兀地」とされて、巌のような不動の境涯によって、学人の身心が収まっていく様子を示す。

よって、この場合は確かに、流布本の方が良い。個人的に思うことは、天福本の段階ではまだ、歴代の仏祖の力によって展開した、中国禅宗の五家などに配慮を示していた。ところが、流布本の段階では、どこまでも仏祖の伝灯を正法眼蔵の正伝と見て、五家というような横の広がりよりも縦の繋がりを訴えているように思う。その点から、次の一節を見ていきたい。

 方に百丈の規縄に遵い、遍ねく少林の消息に通ず。
 耳を払うの風に労すること莫れ、更に舌を撃つの響に驚かんや。
    天福本『普勧坐禅儀』


一応、ここが最後の指摘になるのだが、この部分も流布本では消えた。いわんとするところは、禅僧たる者、百丈(懐海)が定めた規縄(清規)に遵うことで、少林・達磨大師の全ての消息に通じていくべきだという。これは、我が心が仏心たるを自覚し、あらゆる事象をその仏心上の事実として丸ごと受け取っていくことを意味していると言えよう。

その境涯にあっては、耳を払う風に惑わされることも無いし、自ら撃つ舌の響きに驚くことも無い。分別無く、丸ごとを受け取るのだから当然だ。つまり、天福本の段階では、そのような包括的境涯が重んじられたといえる。

しかし、流布本では「薬山非思量話」の導入に端的なように、境涯についても、より現象の動きを動きのままに受け取るようになり、更には、修証一等が強調されることで、境涯の優劣を競ったり、禅定の優れた状況に落ち着くことを求めることも無くなった。そういう点で、「少林の消息に通ず」というような内容を示す必要が無くなったと思われる。

以上、3回に渡って、天福本と流布本との明確な相違を検討してみたが、何せ、少ない文脈なので、拙僧の推論も複数入っている。更に参究される必要があることのみを指摘しておきたい。

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