つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

日本禅宗開祖になり損ねた禅僧 覚阿上人(禅宗以前の禅僧達1)

2007-07-29 09:07:21 | 仏教
今回から新連載を始めようと思います。この連載は「禅宗以前の禅僧達」という連載名にしましたが、皆さんも日本史の授業などで、日本に禅宗を伝えた開祖は栄西禅師であると学ばれたと思います。実際のところ拙僧も同様なのですが、しかし、中国で禅宗が成立したのは5世紀あたり遡ることが可能であるともされており、そうであれば、日本に仏教が来る頃(538年または552年)にはすでに、中国には禅宗があったわけです。ならば、当然に栄西禅師、そして道元禅師という現在の臨済宗・曹洞宗の開祖が中国から伝える前にも、禅僧が日本にいたと見て良いかと思いますし、実際におられました。様々な治癒を行う「十禅師」や、様々な「三昧」を操る禅僧は、大変な力がある存在だというので、半ば伝説上の人材として扱われていたようなのです。このようなことに加えて、比叡山には開闢当初から「禅」が入ることで、日本には栄西禅師などの伝来以前から、禅に対する興味のようなものがあったとされています。日本達磨宗の大日房能忍が流行したのも、このような「憧れ」と無縁ではありません。

というわけで、栄西禅師にしろ、道元禅師にしろ、彼らは新たな宗派としての「禅宗」について、奈良時代以降の日本にあった「禅への憧れ」という文脈に重ねるように振る舞います。『興禅護国論』はそのためだけに書かれた著作といっても過言ではないですし、道元禅師も『永平広録』の上堂に、それまでの日本での禅に関する事例を挙げています。

そこで、今回からの連載はそのような鎌倉時代の禅宗以前の禅僧に焦点を当てて考えてみようと思います。なお、この辺の研究は、すでに中尾良信先生『日本禅宗の伝説と歴史』、船岡誠氏『日本禅宗の成立』(ともに吉川弘文館)といった業績があるので、それらをご一読されることをお勧めします。

【栄西以前の入宋僧 覚阿上人】

覚阿上人(1143〜?)については、伝記的には不明な部分が多いのですが、なんと、日本人として唯一中国の五燈(5つの正式な燈史文献)に名前が載っている禅僧だったりします。日本では、栄西禅師や道元禅師、或いは東福円爾などが有名でしょうけれども、しかし実際にはこの覚阿こそ、禅宗のパイオニアと呼ばれるべきだと判断できましょう(入宋の時期は栄西の方が若干早いが、栄西の第一次入宋はロクな結果を残さなかった)。ただ、残念ながら日本ではその教えを嗣ぐ者が歴史的に残ることがなかったため、結果的に覚阿上人は歴史に埋もれてしまった格好です。そのことを、曹洞宗の太祖である瑩山紹瑾禅師は『伝光録』で次のように述べておられます。

橘の太后所請として唐の斉安国師下の人、南都に来りしかども、其碑文のみ残りありて、児孫相嗣せざれば、風規伝はらず。後、覚阿上人は瞎堂仏眼遠禅師の真子として帰朝せしかども、宗風興らず。
    第五十一 道元禅師章


このような記述がある以上、鎌倉時代の禅者に、存在は知られた人なんだとは思いますし、瑩山禅師も初期禅宗の祖師として、やはり従来の日本にあった「禅の文脈」を掘り起こそうとします。瑩山禅師は「五燈」を良く読んだ人ですから、覚阿上人についても、やはりその中から見いだしたのでしょう。今回は瑩山禅師に倣って、色々な文献から覚阿上人の伝記を見ていきたいと思います。折角ですので五燈の1つである『嘉泰普燈録』巻20(一部『元亨釈書』巻6にて補足)から見ていきましょう。そこでは先の瑩山禅師の言葉のように「霊隠仏海慧遠禅師法嗣」に立項されています。この仏海禅師瞎堂慧遠(1103〜1176)は、臨済宗楊岐派の僧で、『碧巌録』を著したことで有名な圜悟克勤の法嗣になります。だとすると覚阿上人は、道元禅師が目の敵にした大慧宗杲の法甥ということになるんですな・・・

 覚阿上人は日本国の藤氏(=藤原氏)の子である。14歳で得度受具し、大小乗の教えを習って、良い評判であった。29歳の時、商売をしている者から「中国ではかえって禅宗が盛んである」と言われ、覚阿は奮然として法弟である金慶を無理に引き連れて、海を渡ること1年余りにして初めて中国に到った。乾道辛卯(中国南宋の乾道7年[1171])の夏のことである。香を携えて霊隠寺の仏海禅師を拝した。
 そこで仏海禅師が(覚阿たちに)「どうしてやってきたのか?」と問うた。すると、すぐに覚阿は筆談をしようとし、その答える書を返して「我が国には禅宗が無く、ただ五宗の経論を講ずるのみです。国王には姓氏が無く、金輪王(註・転輪王の1つ)と号しています。嘉応(1169)の改元をもって、天皇の位を捨てて出家し、行真と名乗りました。歳は44歳でしたが、皇太子は7歳で天皇の位を受けさせられました。今まで5年余りすぎましたが、僧は貢ぎ物をすることなく、(天皇への)講義を申し上げた者が正式な僧の位を賜ります。私達は、中国の遠公禅師の名を大変に尊敬申し上げており、特に、方丈に詣でて礼拝し、願わくは心印を伝え、それで迷いから解き放っていただきたいのです。さて、心・仏及び衆生、この三は差別有ること無しと言い、姿も言葉も離れて明らかにされること(=禅宗の奥義)を、どのようにして禅師さまは開示されるのでしょうか?」と尋ねた。
 仏海禅師は「衆生の虚妄なる見解で、仏を見、世界を見ているな」と答えた。
 覚阿が再び書いて「無明は何を原因にしてあるのでしょうか?」と尋ねた。
 仏海禅師は、ただちに(覚阿を)打ち据えると、(弟子達に)命じて、陞座をして、その疑問を決したのだった。
 覚阿は翌年の秋には仏海禅師に別れを告げて金陵にて遊覧し、長蘆に至った。そこで、川岸から太鼓の音が聞こえるや、忽ちに悟って、始めて、仏海禅師が(方便の)手を伸ばすようにして示した素晴らしい意旨を知ったのである。霊隠寺に舞い戻るや5つの偈を述べて、見解したところを述べた。それは霊隠寺を去って海の東(日本)に帰る偈として言われたものである。

其一:海を渡って来て「教外の伝(=禅宗の奥義)」を探した。知見を離れ蹄筌(=禅宗の方便や手段のこと)を脱しようと思っていた。諸方を遍参して草鞋も破れてしまったが、水が澄み切った川に映る月が天にあるだけだという境地に至った。
其二:葛藤も知見も掃き尽くして、手を伸ばして摘んだ仏法全体が現れた。脳の後ろに円かなる覚りが虚空に徹している。様々なはたらきが一気にはたらききったのである。
其三:素晴らしい悟りの境涯をどのようにして人に説こうか。それは、地に倒れてすぐに起きるように自分で明らかにすべきである。まっしぐらに本分の田地に踏みいれば、倒れて頭を打っても、悟りへの道を進んでいるのだ。
其四:真実を求め迷いを滅しようとしたが、元から素晴らしいものではなかった。迷いがそのまま真実を明らかにするというのも全てこれは錯りだ。笑いを堪える霊山の老古錐を真っ向から投げ捨てれば、それは壊れた柄杓だった。
其五:拳を立てて喝をして、少しばかり仏法を弄んだが、これを説いても仏法ではないものを論じているだけで、泥水に入るだけだ。様々なものをぶった切って指し示すことを止めれば、音が笛に帰るだけだよ、ラ〜ラ〜リ〜♪。

 そして、この偈頌を受け取った仏海禅師は、その悟りの境涯を認め、帰ろうとする覚阿に対して偈を書いて与えた。それには「覚阿はわずかに文墨に親しみ、善く諸国の書に至る。ここ(霊隠寺)では未だ数年も経ていないが、祖師の智域に入ってきて、そこに於いて、悟りの言葉に自ら通じたのである。」とあった。
 (覚阿は)淳熙乙未(中国南宋の淳熙2年[1175])には、日本の僧統(僧を管理する役職の僧)とともに、僧を遣わして仏海禅師を訊ねさせ、その僧には水晶・降魔の杵・数珠2つ・綵扇20本、これらを宝箱に入れて、副えるように持たせてきた。仏海禅師は喜んでこれを受け取った(下線箇所は『釈書』)。
 また、淳熙9年には、夏王(=高倉天皇か?)の請によって、日本の叡山寺(=比叡山延暦寺の支院か?)の住持となったため、また僧を遣わして『嗣書』を通じさせようとしたが、仏海禅師はその時には入寂されていた。
    拙僧ヘタレ訳


仏海禅師の法嗣として立項されているのは3人いるのですが、この覚阿上人のが最も長いものとなっています。それは、5つの偈頌が大きく占めるからですが、それでも、キチッと学ばれていた様子が明らかになります。正真正銘の法嗣と理解して良いでしょう。この『嘉泰普燈録』は、道元禅師も参照していますので(若干、著者について批判していますが)、この覚阿上人についても知っていたものと思われます。

しかし、この覚阿上人、見て分かるとおりなのですが、比叡山でかなり普通に修行をしており、そして評判が良かったようなので、優秀な僧侶だったと思うのですが、或る時、商人から中国の事情を聞くや、奮然として禅宗を学びに行ってしまうあたり(しかも、筆談していたというのなら、語学的にも会話は無理)、相当の激情家で行動家だったようです。拙僧の悪い癖ですが、この時に拉致られた「金慶」はどうなってしまったのかが気になります・・・

さておき、そこで、一年あまりかけて中国に渡ると、早速に宋代の五山第二位であった霊隠寺に上り、当時の住職だった仏海慧遠に参じています。でまぁ、一通りの問答をして、その後も修行をしていたようなのですが、多分安居の期間が終わって諸方に遍参していたときに、悟りを開きます。そして、その境涯を偈頌にして仏海禅師に奉納し、境涯を認められて帰ってくるということになりました。ここで、偈頌について話をしていきますが、内容としては方便や仮の手段を脱して、直接に禅の奥義に入ったことを示し、最終的には諸法実相にまで境地を高めたことを明らかにした内容です。「其五」に有る「笛」の話は日本に帰国後、ちょっとした逸話にもつながっていきます。

そこで、『嘉泰普燈録』では、日本の比叡山に住持として入ったことが示されます(高倉天皇とは、何かしら関係があったらしい。後述)が、それは何かの誤解のような気もします。結論的に日本に帰ってきてからの覚阿について述べたいと思うのですが、それは『元亨釈書』巻6「睿山覚阿」項や、『本朝高僧伝』巻19「江州睿山沙門覚阿伝」が詳しいので、それを見ていきます。

或いはこうも言われている。嘉応の帝(=高倉天皇)は覚阿に禅の修行を聞こうとして、召してその宗義の要を質問された。(やって来た)覚阿は、笛をほしいままに吹いたため、(天皇は)制された。(覚阿は)時機が未だ熟していないとしたが、天皇もその家臣も(覚阿の説法の真意を)測ることがなかった。惜しいことだ、その教化も修行も聞こえるものが残っていない。
    『元亨釈書』拙僧ヘタレ訳


この場合、最後は分かっていないことになっています。これは『本朝高僧伝』でも、高倉天皇と機縁が契わなかったことまでは一緒で、その後は「覚阿はすぐに、旧い(自分の)庵に帰って、ふたたび世に出ることはなかった。」という記述になってはいますが、結局は晩年の覚阿について良く分からないということです。そのためか、一応全ての文献で覚阿は比叡山の僧だということになっています。拙僧つらつら鑑みるに、この機縁が契わずに隠棲するというのは、中国初祖・菩提達磨が梁の武帝と機縁が契わずに江を渡り少林寺にて面壁九年したことと似て、禅僧と権力との関わり方を明らかにしているような気もします。つまり、相手に理解できなければ、それを自分と相手というどちらのせいにもせず、ただ「身を隠す」という態度ですね。覚阿が高倉天皇の前で吹いた笛とは、まさに「本分の田地」に帰ることそのものだったわけで、他には何の手段も要らないという徹底したものでした。その覚阿の禅境は先の訳文中に挙げた「5つの偈頌」からも理解できるでしょう。だからこそ、なかなか理解もされないわけです。これこそまさに、体験的世界以外の何ものでもありません。ここには、「掴むことができるかどうか」というバイナリーコードが成立しています。「分かるかどうか」ではないのです。

さて、覚阿について『本朝高僧伝』(1704年成立)を書いた卍元師蛮が次のような評論を書いています。

余(=卍元)が思うに、日本から中国に入って師に参じて大悟した者で、すぐに師に対して偈を呈した者は、宋代・元代の間にとても多かった。ところが、彼の方(=中国)の様々な記録を見ても、たった1つの偈頌であっても載っていない。ただ、雷菴正受の『嘉泰普燈録』と、大川普済の『五燈会元』だけが、独り、覚阿の五偈を載せているのだ。どうして(覚阿が)意にも句にも共に通じていないことがあろう。
    拙僧ヘタレ訳


この、卍元の言葉の通り、それこそ「五燈」には栄西禅師も道元禅師も円爾禅師も誰も載っていないのです。しかし、覚阿だけは載っているということは、この先駆者的位置付けにあった覚阿という者の存在が珍しく、その後にも続くことになった入宋日本人禅者として貴重だったということでしょう。それだけに、拙僧的には覚阿の存在が大きければ、もう少し日本と中国とのつながりも、燈史文献レベルでも契ったかもしれないのになぁ、と『元亨釈書』を書いた虎関師錬同様に残念に思うのであります。ただ、そうだからこそ、こうやって拙僧のブログに載ったので、拙僧的にはこの記事を書くことで、覚阿上人の御供養といたしたく存じます。合掌。

追記:
栄西禅師は『興禅護国論』の後記に収められた「未来記」にて暗に覚阿上人を批判し、道元禅師も『正法眼蔵』「嗣書」巻にて暗に批判しています。この見解があって、先に挙げた瑩山禅師の批判的見解に繋がったと見るべきです。

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