つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

禅宗の修行と動作システム

2015-05-22 14:23:18 | 仏教・禅宗・曹洞宗
まずはこの一節を御覧いただきたい。

動作の創発に意識はほとんど関与していない。この関与しないことに動作の自然性がある。手足を動かすさいに、いちいちそこに意識を向けていたのでは、とてもなめらかな動作はできない。動作の進行において、意識がそこから消えていくことに動作の自然性がある。この消えていく事態を意識の積極性と考えようと思う。そのため動作を現象学から考察していくためには、意識がそこから消えていく分だけ動作の自然性が出現し、動作がそれじたい作動するように意識が身を引く事象として成立する。こうした設定を行うことが必要である。またそれに応じた工夫が必要である。
    河本英夫先生『損傷したシステムはいかに創発・再生するか―オートポイエーシスの第五領域』新曜社・2014年、230~231頁


まず、ここで挙げられている「動作」について、拙僧は我々が行う「修行」全般を当て嵌めている。然るに、我々が行う修行のほとんどには、意識は関わっていない。状記引用文にある通りで、意識すれば、動作の自然性が無くなる。動作そのものの純粋性も減衰する。河本先生はその時に、現象学的手法を用いて、意識が積極的に身を引く事態を想定している。

拙僧が注目したいのは、その想定に見合う「工夫」である。

拙僧つらつら鑑みるに、禅の修行については、この意識の関与を減衰させ、動作そのものにしていくと思われる。それが、自己の強為と法の云為として理解される。

 三千威儀経云、若不洗大小便、得突吉羅罪。亦不得僧浄坐具上坐、及礼三宝。設礼無福徳。
 しかあればすなはち、弁道功夫の道場、この儀をさきにすべし。あに三宝を礼せざらんや、あに人の礼拝をうけざらんや、あに人を礼せざらんや。仏祖の道場、かならずこの威儀あり。仏祖道場中人、かならずこの威儀具足あり。これ自己の強為にあらず、威儀の云為なり、諸仏の常儀なり、諸祖の家常なり。ただ此界の諸仏のみにあらず、十方の仏儀なり、浄土・穢土の仏儀なり。
    『正法眼蔵』「洗浄」巻


道元禅師は、仏祖の道場で修行する人は、必ず「威儀」を具足するという。この威儀とは、仏の定めた通りの行いによって、仏の優れた威力を具足する。しかし、仏の優れた具足である以上、我々の強為(意識)であることはない。それによって、我々の動作を行うことを、「威儀の云為」「諸仏の常儀」「諸祖の家常」という。そして、この云為や常儀として行われる修行を、我々は「工夫(功夫)」という。

    詠行住坐臥
守るとも 覚えずながら 小山田の いたづらならん かがし成けり
    『道元禅師和歌集


この「守るとも覚えずながら」が、自己の強為ではなくて、法の云為であることをいう。そして、この「詠行住坐臥」は、別の写本では「四威儀非思量工夫」という。先に挙げた法の云為としての工夫は、「非思量」と同義である。「非思量」とは、我々の意識を前提にした動作を指していない。よって、道元禅師は明らかに、我々の意識を前提にしない「動作」を直観しておられることが分かる。

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