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有宗 第十七(富永仲基『出定後語』を学ぶ20)

2017-01-30 14:31:24 | 仏教・禅宗・曹洞宗
このブログの読者の方であれば、仏教が仏滅後100年頃に大きな分裂(根本分裂)をし、その後も大小多くの部派に分かれたという話は、よくご存じであろうと思います。今日ここで採り上げる富永仲基『出定後語』の一章は、まさにその部派仏教における分裂を扱うものです。

後に明治時代以降、直接にインド由来の経論を読むようになってから得られた知識とは、富永の見解は違うと思いますが、当時、そのような歴史的経緯についてほとんど省みられなかった状況に鑑み、かなり画期的成果が出ていたはずだと思うのです。それを見ていきたいと思います。

なお、この一章のタイトルである「有宗」のことですが、以下の一節から理解可能です。

これ、みな小乗、三蔵の学者、有をもつて宗となせる者にして、この時、いまだ大乗の言あらず。その、はじめて大乗の言ある者は、実に仏後五百年なり。
    『日本思想大系43』69頁


つまり、この場合の「有」とは、「空」に対応するもので、後者は大乗のこと、前者は部派仏教(富永は伝統的記述に従って、小乗と表記)のことを意味しているわけです。そして、富永は、『大智度論』巻63の一節を用いつつ、仏滅後500年頃の状況として、部派が500にも分かれ、しかも、自分たちの教え・言葉に執着し、どうしようもなかったので、畢竟空たる般若の諸法が、意味をなしたという見解に及んでいます。その大乗の系譜については、次章の「空有 第十八」に見えますので、本章ではまずは部派仏教各派に関する富永の見解を見ていきたいと思います。

そこで、まず、本章の冒頭です。

大論に云く、「仏後百年、阿輸迦王、般闍于瑟大会(引用者註:5年に一度行われる大規模な集会のこと)を作す。諸大法師、論議異なるが故に、別部の名字あり」と。これ、大天乖諍のことを言ふ。これよりさき、仏法、一味和合して、いまだ異執あらず。その、はじめて異執ある者は、実に仏後百十六年なり。その後二百年ないし四百年、おのおの分別して二十一部となり、五百年また五百部となる。
    『日本思想大系43』69頁


ここで引用されているのは、龍樹尊者『大智度論』巻2です。原文では、「八犍度阿毘曇、六分阿毘曇等」について、いつ頃から起きたかを尋ねています。それで、龍樹尊者の見解が、先の通りだということです。現在であれば、この『大智度論』に関するテキストの問題などもあって、どれほどに「仏教史・仏教教団史」を示しているか疑問が呈されるところですが、富永は信じて論を進めています。なお、前者については、『阿毘曇八犍度論』という「迦旃延子」の著が漢訳されておりますが、それも踏まえてのことです。なお、「大天乖諍」というのが、いわゆる後代には「根本分裂」と言われた事象であり、その意味で、仏教教団の分裂が正しく富永に認識されていたことになります。

ただし、この辺は別に、富永だからこそ、というわけでもありません。例えば、以下の記述もあります。

七仏嫡嫡相承しきたれり、いかでか西天にある依文解義のともがら、五部を立するがごとくならん。
    道元禅師『正法眼蔵』「仏道」巻


このように、「五部を立てる」という言い方で、インドの仏教(特に、論師を中心とした部派仏教だと認識されている)が分裂したことが指摘され、しかも、時代もだいたい分かっていました。

上堂に云く、参学の人、須らく邪正を知るべし。いわゆる、優波毱多の已後、五部の仏法を称するあ、乃ち西天の陵替なり。
    『永平広録』巻3-207上堂


このようにあって、道元禅師はインドの仏教が、優波毱多(禅宗第四祖)の後で、「五部の仏法」を称するようになったとしているのです。無論、道元禅師は釈尊の仏法・真理とは、「正法眼蔵涅槃妙心」の普遍的事実を説きますので、仏教教団の分裂には否定的です。ただし、以下のような認識もありました。

西天の五部の僧衆ことなれども、おなじく九夏安居を護持して、かならず修証す。
    『正法眼蔵』「安居」巻


これは、教えは違っていたけれども、実際の修行についてはともに同じことをしていたという理解です。それで、道元禅師が「西天の五部の仏法」云々という指摘をされるに至ったのは、『仏祖統記』巻3や『翻訳名義集』巻4「律分五部篇第四十一」などを見たためでしょう。それぞれ「優波毱多の弟子達が五つに分かれ、それぞれに法を立て、律を制定した」とあるためです。

それで、この章の紹介についても、続けて『律』のことを見ていきたいと思います。富永は以下のように論を進めます。

しかして、律は則ち分かれて五部となれり。
    『日本思想大系43』69頁


このようにして、「五部の律」があることを論じるのですが、まず富永は『摩訶僧祇律』に関して、「広く多くの律を集めるものという解釈」と、「犢子部(婆蹉富羅部)のものという伝承」と2種があることを指摘し、結果として中国にまで伝わった律の伝承には大きな問題があると指摘したのです。その上で、以下の2点を指摘します。

・その五部をもつて、すでに仏世にありとなせる者も、またその妄、知るべし。
・また、その五分の律が優婆毱多の五弟子に出づとおもへる者のごときも、また、恐らくは必ずしもしからざらん。
    『日本思想大系43』70頁


おそらく、富永の批判の主眼は、この2点です。それは、「五部の律(五分の律)」について、いつ頃からできたのか?という話について、仏の在世時にあったという見解は誤りであり、また、優婆毱多の五人の弟子によって作られた、という話もおかしいということなのです。実は、前者については、「釈尊の予言」という形で、後世に伝えられたもののようです。ですが、予言なんて、その時に本当にあったかどうかなんて分かりません。また、後者についての富永の批判は、各部や律の伝承を詳しく見ていくと、結局は、「優婆毱多」という特定の人の弟子達が急に始めたのではなくて、釈尊のところから徐々に伝承されていく中で、別れていったのだろうという推論を導いています。

この辺は、安易に「まとめ的伝承」に依存するのではなくて、個別に見ていくことで、史実を明らかにしようという態度に他なりません。その意味でも、改めて富永の研究態度には、近代的なものがあったと評価すべきなのでしょう。無論、その結果も全て近代的だった、ということは出来ませんが・・・

【参考資料】

・石田瑞麿訳『出定後語』、中公バックス日本の名著18『富永仲基・石田梅岩』1984年
・水田紀久編『出定後語』、岩波日本思想大系43『富永仲基・山片蟠桃』1973年

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