つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

仏を描く

2017-09-12 08:33:13 | 仏教・禅宗・曹洞宗
定期購読している岩波書店の販促雑誌『図書』の2017年8月号に画家の舘野鴻氏が「命は描けるか」を寄稿していた。そこに、以下の一文を見出した。

命は描けない。命は静止しているものではなく、状態であり、関係の中で、いつも運動し変化しているものであるから。姿を平面に描いてもそれは命ではない。
    『図書』8月号、25頁


拙僧つらつら鑑みるに、いわば、我々が修証一等の覚悟を持って修行するのも、こういう話だと思うのだ。なお、ちょっと言葉を補うと、仏とは静止しているものでもあるし、状態として関係の中でいつも運動し変化しているものでもある。よって、道元禅師が『正法眼蔵随聞記』で仰るように、麁悪な仏像であっても、それを拝めば功徳がある。だが、同時に状態としてあるものでもあるから、我々がその状態としての仏行を営み、仏である事実を事実ならしめていく必要も出てくるといえる。

これを、静止と運動のどちらが正しいか?というような分別で捉えると、仏からは遠ざかってしまう。仏は仏である限り、功徳として具わらないものはない。よって、静止も運動もともに仏であるのだ。

ところで、何故、静止も運動もともに仏であると述べるかといえば、以前も採り上げたことがある一節を思うためである。

雲巖云く、「坐すれば即ち仏なり。坐せざれば即ち仏に非ず」。
洞山云く、「坐せざれば即ち仏なり。坐すれば即ち仏に非ず」。
    『景徳伝灯録』巻8・南泉普願章


この問題について、拙僧自身は仏の普遍性という観念でもって読み解いているけれども、今回の静止と運動という点で考えれば、雲巖禅師は仏を運動であると考え、洞山禅師は仏を静止であると考えていることになる。このお二人とも、我々は法の祖先として仰いでいるのだから、結局は静止と運動とその両方が仏にはあると見なければならない。

さて、拙僧思うに、それでも曹洞宗としては、やはり仏は運動として考えるべきなのだろう。道元禅師は『正法眼蔵随聞記』などで、繰り返し、仏道は「身」で得ると強調されている。いわば、我々の全身を使って仏を描くのである。その姿こそが坐禅だ。

ただまさに尽界・尽法は画図なるがゆえに、人法は画より現じ、仏祖は画より成ずるなり。
    『正法眼蔵』「画餅」巻


道元禅師はこのようにも仰っている。仏祖は画より成ずるのである。この時の「画」とは、既に法そのものの根源でもある。法の根源とは仏である。仏が仏であるということは、そこに坐禅が行ぜられているのである。結局、やはり我々も仏を描くには、平面に描くことも写仏として出来るけれども、仏祖の一児孫としては、全身を奮って描きたいものだ。

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