日本曹洞宗では二人の祖師を尊崇しています。一人は永平寺を開かれた道元禅師で高祖とお呼びします。もう一人は總持寺を開かれた瑩山紹瑾禅師で太祖とお呼びします。そして今日はその道元禅師のお生まれになった日である(旧暦では1月2日)とされているのです。
その道元禅師ですが生誕にあたっては以下のような話が伝わっております。
道元禅師は、村上天皇から九代目として源氏の家に生まれ、生まれたときには普通の子供とは異なる顔相をしており、必ずこの子は「聖者」になると考えられておりました。
しかし、古書には「聖なる子供が生まれる時には、その母の命は危うい。子供が7〜8歳の時に亡くなるだろう」とありましたが、母は「自らの命が危うい」という言葉を聞いても驚きもせず、怪しむこともしませんでした。何故ならば懐妊したときに空から声が聞こえ「この子は、500年来に肩を並べるものがないほどの聖人である。日本に正法を興隆するだろう」と告げたからです。
そして、母は道元禅師が8歳の時に亡くなり、道元禅師はその葬儀の時に立ち上る香煙を見て世の無常を悟り、出家を決意しました。その後は、多くの典籍を読み、九歳の時には『倶舎論』というインドで書かれた仏教書を読みます。周囲の者は、「利口で文殊菩薩のようだ。これは、真に大乗仏教のために生まれてきたに違いない」と噂し合いました。
『永平寺三祖行業記』より一部を訳しました
以上は8〜9歳くらいまでのお話しですが、これを信じると、非常に優秀な方だったようです。一説には道元禅師の幼名が「文殊丸」だったという話がありますが、それは周囲の方が「文殊菩薩のようだ」と言ったことから付けられたことであり、本当かどうかは分かりません。
それから、上記の文章には父親の名前は書いておらず、現在では「久我通親」が父親だとも、「久我通具」が父親だとも言われております。色々な実証的な研究によると、後者の「通具」が父親らしいのですが、拙僧としては「通親」が父親として語られてきた宗義にも配慮を示し、むしろそちらを切り捨てることで、重層的に発展してきた宗義としての歴史を、のっぺらで痩せたものとすることこそ問題だと思いますので、ここでは併記しておきます。実証的な研究成果は、研究的世界で語られるべきであり、実際の世俗的な宗教的現場では、その現場の空気を尊重すべきなのであります。
話を戻しますが、母親を早く亡くした道元禅師が、その葬儀で香(註・当然に線香ではない)から立ち上る煙が空に消えていく様子を見ながら無常を観じて、仏道への志を発し、そして比叡山にて得度し、中国に渡って天童如浄禅師の下で大悟徹底するのです。日本に帰られたあとは、京都に興聖寺を、越前に永平寺(大仏寺)を建てて懐弉禅師や詮慧禅師、僧海首座といった優秀な弟子を育てられ、『正法眼蔵』を執筆し、『永平広録』として編集される語録を残しました。
坐禅を中心とした修行体系を確立し、その内容は峻厳だったとされますが、その教えは脈々と嗣がれ、現代まで至っております。今日は我々宗門人へ法灯を中国から将来された道元禅師のお生まれになった日でございますれば、拙僧も坐禅して、その恩に報いたいと思います。合掌。
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これまでの読み切りモノ〈2〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。
その道元禅師ですが生誕にあたっては以下のような話が伝わっております。
道元禅師は、村上天皇から九代目として源氏の家に生まれ、生まれたときには普通の子供とは異なる顔相をしており、必ずこの子は「聖者」になると考えられておりました。
しかし、古書には「聖なる子供が生まれる時には、その母の命は危うい。子供が7〜8歳の時に亡くなるだろう」とありましたが、母は「自らの命が危うい」という言葉を聞いても驚きもせず、怪しむこともしませんでした。何故ならば懐妊したときに空から声が聞こえ「この子は、500年来に肩を並べるものがないほどの聖人である。日本に正法を興隆するだろう」と告げたからです。
そして、母は道元禅師が8歳の時に亡くなり、道元禅師はその葬儀の時に立ち上る香煙を見て世の無常を悟り、出家を決意しました。その後は、多くの典籍を読み、九歳の時には『倶舎論』というインドで書かれた仏教書を読みます。周囲の者は、「利口で文殊菩薩のようだ。これは、真に大乗仏教のために生まれてきたに違いない」と噂し合いました。
『永平寺三祖行業記』より一部を訳しました
以上は8〜9歳くらいまでのお話しですが、これを信じると、非常に優秀な方だったようです。一説には道元禅師の幼名が「文殊丸」だったという話がありますが、それは周囲の方が「文殊菩薩のようだ」と言ったことから付けられたことであり、本当かどうかは分かりません。
それから、上記の文章には父親の名前は書いておらず、現在では「久我通親」が父親だとも、「久我通具」が父親だとも言われております。色々な実証的な研究によると、後者の「通具」が父親らしいのですが、拙僧としては「通親」が父親として語られてきた宗義にも配慮を示し、むしろそちらを切り捨てることで、重層的に発展してきた宗義としての歴史を、のっぺらで痩せたものとすることこそ問題だと思いますので、ここでは併記しておきます。実証的な研究成果は、研究的世界で語られるべきであり、実際の世俗的な宗教的現場では、その現場の空気を尊重すべきなのであります。
話を戻しますが、母親を早く亡くした道元禅師が、その葬儀で香(註・当然に線香ではない)から立ち上る煙が空に消えていく様子を見ながら無常を観じて、仏道への志を発し、そして比叡山にて得度し、中国に渡って天童如浄禅師の下で大悟徹底するのです。日本に帰られたあとは、京都に興聖寺を、越前に永平寺(大仏寺)を建てて懐弉禅師や詮慧禅師、僧海首座といった優秀な弟子を育てられ、『正法眼蔵』を執筆し、『永平広録』として編集される語録を残しました。
坐禅を中心とした修行体系を確立し、その内容は峻厳だったとされますが、その教えは脈々と嗣がれ、現代まで至っております。今日は我々宗門人へ法灯を中国から将来された道元禅師のお生まれになった日でございますれば、拙僧も坐禅して、その恩に報いたいと思います。合掌。
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頓首 pumpkin 合掌
いつも朝課随喜する妻が「方丈様、いつものお勤めの後に読まれたお経は何ですか?何方かの御法要ですか?」
と言いますので
「コウソゴウタンエで安楽行品を読みました」と答えました。
妻には私のぼそぼそとした言葉が良く聞こえなかったのでしょう
「ごっそり、ボタンエビでアンラ、ぎょうさん・・・ですか?何ですかそれ?」
しばらく笑いが止まりませんでした。
「どうげんさまは、お水を大事にする人なんだよ」と教えてくれるのですが・・・?
水を大事に使うような教えがあるのでしょうか?
ご存知でらしたら、ぜひ教えていただきたいのですが。
拙僧は、朝方坐禅いたしました。
寝る前にも、少し坐りたいと思います。
法身堅固・辨道増進を祈念します。
tenjin95 合掌
> うさじい さん
我々が普通に使っている用語が、いかに一般の方から乖離したものであるかを如実に感じさせるようなことでありますね。確かに「道元禅師の誕生日を祝って唱えた」と言えば良いんでしょうけど、ついつい「高祖降誕会」と言ってしまいます。
やはり、こここそ老婆心でもってお説きした方が良いのかもしれませんね。
うさじいさんのコメントを見ながら、「What time is it now?]を「掘った芋いじるな」だと聞こえたという昔の人の話を思い出しました(笑)
> おき太 さん
別ログへのTBもありがとうございます。
> 両祖様のお誕生日には安楽行品を読むのですね。
同品は、内容が如来滅後でも、経があれば成仏できるという内容ですので、おそらく残された者が、先達を追慕する内容として優れているのでしょう。
> ろみぃ さん
そうですか、なによりでございました。
ところでご質問の件ですが、「杓底の一残水、流れを汲む千億人」という言葉のことですね。 道元禅師様は洗面の時、柄杓に汲んだ水を全て使うのではなく、残された水を元の流れに戻されたというのですが、この辺が非常にムダにしないという意味で尊重されるという見方がございます。おそらくこのことでしょう。
ではないでしょうか?
毎日すごいですね、我が家は母方が曹洞宗ですので1年に1回は永平寺さんに参っています。 お坊さんの生の意見が聞けて面白く読ませてもらっています。
仰せの通りで、こういうミスは良くございます。
ご指摘いただきましてありがとうございます。
早速修正いたしました。
今後とも、よろしくお願いいたします。