つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

「坐定」について

2017-07-14 16:48:25 | 坐禅
道元禅師には、以下の文章が知られている。

身心倶に調えて、挙体、数ば欠し、内外放寛し、左右揺振すること七八箇。兀兀として坐定して、思量箇不思量底。不思量底、如何思量、非思量。乃ち坐禅の要術なり。
    『弁道法』


見ていきたいのは、「坐定」という用語である。この語については、江戸時代の註釈がある。

左右揺振とは、身を左右にふりうごかして、麁より細に至り止む。ここが坐定なり。
    面山瑞方師『普勧坐禅儀聞解』


面山師は、このように指摘される。つまり、左右揺振に於いて徐々に身体を動かしながら、その動きを小さくして、そして、これは最近の言い方のようだが、最もバランスの良い点を見つけたら、そこで留まると坐定になるといえる。つまり、揺振の後で、坐定に至る。道元禅師『正法眼蔵』「坐禅儀」巻では、揺振を説かないので、この辺の前後関係が分からないが、しかし、坐定は思量の安定の「前提」に説かれているように見える。

さて、このように「坐定」という用語を見ていくと、機能的には理解できるのだが、一点問題となる文脈がある。それが、次の一文である。

次に須く坐定して身を揺すること七八度して、麁自り細に至り、兀兀として端坐するなり。
    瑩山禅師『坐禅用心記』


こちらである。これをそのまま読むと、「坐定」してから「揺身」し、「兀兀として端坐」に至るように見えてしまう。そうなると、先の解釈が成り立たない。何度も坐定するように思えてしまう。だが、以前から何度か読んでいるように、『坐禅用心記』については、江戸時代の版本の訓点は信用できない。その通りに読むと、齟齬を来す箇所が幾つか見られる。よって、この箇所についても、訓点通りではなくて、正しく読み解くようにするべきだろう。

そうなると、問題なのは冒頭にある「須く坐定して」という箇所になる。この一節、原文は次の通り。

次須坐定揺身七八度。自麁至細。兀兀端坐也
    同上


・・・ここで、或る事に気付いた。これ、やっぱり句点が足りないのではないだろうか?それを補って訓ずると、次の通り。

次に須く坐定すべし。身を揺すること七八度して、麁自り細に至り、兀兀として端坐するなり。
    同上


つまり、「揺身」以下の説明は、「坐定」の内容説明だと解釈してはどうだろうか?そう考えると、文脈として矛盾しない。それどころか、「坐定」の意味について、「兀兀として端坐」という意味なのだと確定できる。また、面山師の解釈にも一致し、これらは少なくとも江戸時代以降に行われている坐禅のありようと一致するといえる。

枝葉末節のような記事で恐縮だが、少なくとも、この箇所は以上のように読み直すべきだと主張し、終えておきたい。

この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へにほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。

これまでの読み切りモノ〈曹洞宗10〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。
ジャンル:
文化
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 米国上院が次期駐日大使の人... | トップ | 江戸時代中期に創業された鋳... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL