つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

今日は山の日(平成29年度版)

2017-08-11 07:59:26 | 仏教・禅宗・曹洞宗
今日8月11日は山の日である。昨年度から施行されたわけだが、この日は山に因んで、山のことを学ぶ日としなくてはならない。

山は、超古超今より大聖の所居なり。賢人・聖人、ともに山を堂奥とせり、山を身心とせり。賢人・聖人によりて、山は現成せるなり。おほよそ、山は、いくそばくの大聖・大賢いりあつまれるらんとおぼゆれども、山は、いりぬるよりこのかたは、一人にあふ一人もなきなり、ただ山の活計の現成するのみなり。さらにいりきたりつる蹤跡、なほのこらす。世間にて山をのぞむ時節と、山中にて山にあふ時節と、頂ネイ・眼睛、はるかにことなり。
    『正法眼蔵』「山水経」巻


まず、山を学ぶのであれば、この一節が最適である。この場合、「山」とは「仏法」のことである。そのように読んでいけば、間違えることは無い。つまり、山というのは古今を超えて大聖(仏陀)がおわす場所だといい、賢聖という優れた境涯を持つ修行者達もまた、山を自らが住む場所とし、更には山を身心とした。そして、賢聖によって、山は現れるという。この辺の「山」を全て「仏法」に置き換えれば、別段不思議なことを言っているわけでは無い、ということが分かるだろう。

なお、単純な置き換えのみで済まされないのは、「山」本来の語義が保持されているためで、修行する場所、或いは寺院が建立される場所という意味も保持はされている。だからこそ、数え切れないほどの大聖・大賢が集まる場所ではあるのだが、不思議なことに山に入ってしまうと、誰1人として会うべき対象はいないと仰っている。

これは、山に入るという言葉が、仏法そのものになりきるという意味があるためで、仏法は仏法として普遍的事象であるから、ただその働きばかりがあって、そこに「大聖」などの固有的存在は立たないし、その仏法の中で仏法そのものとして生き抜いた大聖などは、仏法には入って何かをなした、というような跡形すら、何も残さないのである。

そして、道元禅師は世間に生きて仏法を眺める状況と、仏法中に仏法を見ようとすることとは、その姿も、肝心要のところも、全て違っているという。これは、仏法そのものになりきるということと、ただ眺めようとすることの意義の違いである。後者はただの観察者であって、本来普遍であり、自分自身も決して除外されることの無い仏法の働きを、敢えて除外しようとしている。だが、仏法とは、ただ証入すれば良いのであって、それを「山に入る」としているのである。

今日も山の日に因んで山に入る人も多いと思うが、天候も不安定な地域があるようなので、事故には気を付けていただきたい。なお、仏法的には、今日という日に山=仏法に入る人は、「自己」に気を付けていただきたいと思う次第である。まさしく、道元禅師が「現成公案」巻で仰るように、仏道を習うこととは、自己を習うことであるからだ。

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