つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

「無所得」の世俗的用法について

2017-09-13 08:22:48 | 仏教・禅宗・曹洞宗
道元禅師に次のような教えが残されている。

 夜話云、昔、魯の仲連と云将軍ありて、平原君が国に有て能く朝敵を平ぐ。平原君賞して数多の金銀等を与へしかば、魯の仲連辞して云「ただ将軍の道なれば敵を討つ能を成す已而。賞を得て物を取んとにはあらず」と謂て、敢て取ずと言。魯仲連廉直とて名よの事なり。
 俗なほ賢なるは、我その人としてその道の能を成すばかりなり。代りを得んと思ず。学人の用心も如是なるべし。仏道に入リては仏道のために諸事を行じて、代に所得あらんと不可思。内外の諸教に、皆無所得なれとのみ進むるなり。心を取。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-7


さて、この場合の「無所得」の意味であるが、何か事をなした時の「見返り」を求めない様子であるといえる。文字通り「得るところが無い」という意味で、「無所得」なのである。

上記一節で道元禅師が引用しているのは、中国の『史記』「魯仲連・鄒陽列伝 第二十三」の話である。実際の話はもっと複雑ではあるけれども、道元禅師はその要旨のみを学人に示したといえる。云わんとするところは、この魯仲連という人がとにかく立派で、平原君に対しても直言するのだが、その中で、多くの者は恩賞が欲しくて平原君に取り入るが、私はそうではないと良い、自らの役責を果たすことのみを求めると言い切った。そして、実際に手柄を立てて千金を与えようとした平原君に、その金銭を返却したのである。

これを承けて道元禅師が示されるのは、この俗人は極めて賢であるとし、自らがその専門家として、為すべき事を為すのみであったとしている。そして、その見返りを得るとは思っていなかったとし、学人(修行者)の用心もこのようであるべきで、仏道に入ったならば、ただ仏道のためだけに諸事を行い、見返りを求めてはならないとしたのである。そのことは、内外(仏教書と非仏教書)の多くに、「皆無所得なれ」とのみ書かれるが、その心を取るべきだと諭したのである。

拙僧つらつら鑑みるに、やはり仏道にて事をなす人は、見返りを求めない人であると思う。ただそのためだけに行うのである。ただし、これを、例えば、世俗の人が宗教的サービスを受けようという時に、無料になると思うというのとは話が違う。世俗の人が仏事をなす時には、基本「布施行」しかなしえない。その意味では、世間の人は、ただ布施行を行い、その見返りを求めるべきではない、という話になる。

もし、宗教者が見返りを求めないから仏事・法事がタダになる、と喜ぶ俗人がいれば、それはその俗人が「無所得」では無くなってしまうし、有り体にいえば、仏陀が嫌った「ケチ」ということになる。仏陀はケチを「貪り」であると批判したことを知っておくべきだ。よって、全員が無所得に徹すれば、現在起きているような、布施に関するような問題は無くなってしまうのだ。

でも、結局、それが出来ていない人が多くて、金銭の多寡にばかり執着するから、道元禅師が仰る「賢」になりきれない愚者ばっかりだ、ということになる。なんとも情けない。無論、拙僧も気を付けたい。

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