今日1月26日は高祖降誕会であり、道元禅師の誕生日であります。旧暦では1月2日なのですが、新暦に換算して今日に固定されたのであります。で、ここ数年は毎年、この日に関する記事をアップするようにしていたのですが、そろそろネタも尽きてきたので、どうしようかと思案中・・・
いや、でも、せっかく道元禅師の映画『禅 ZEN(公式サイト)』が封切りされてまだ2週間あまり、ここを機に宣伝も兼ねようと思います。そこで、いつものように伝記資料を当たろうと思っているんですけど、それだったら【去年の記事】でもリンクしておけば良いですよね。よって、今年は全く別のことを書きます・・・と、ここまで書いて2週間ほったらかしました。大したネタが出てこないので、仕方なく、道元禅師がお生まれになった状況について、多くの伝記でどのように描いているかを併記してみましょう。
禅師。生(原文ママ)は源氏、諱は道元。洛陽の人なり。村上天皇九代の苗裔。後中書八世の遺胤。初めて生まれし時、相師見て曰く、この児、常童と異なれり。必ずこれ聖子なり。七処平満、骨相奇秀、眼に重瞳有り。凡流と異なるが若し。古書に曰く、聖子誕ずる時、その母の命危うし。この児七八歳の時、即ちその母喪えり。母その言を聞くと雖も、至愛掬養して、驚かず怪しまず。また自らこの子を念ず。懐妊の時、空中に声有りて、告げて言く、この児五百年来、肩を斉しくするもの無き聖人なり。倭国に正法を興隆せんが為に託生し来たる。相師の言に符号す。
『永平寺三祖行業記』「初祖道元禅師」章
師、諱は道元。俗姓は源氏。村上天皇九代の苗裔。後中書王八世の遺胤なり。正治二年初て生る。時に相師見たてまつりて曰く、此子聖子なり。眼重瞳あり、必ず大器ならん。古書に曰く、人聖子を生ずる時は、其母命危うし。この児七歳の時、必ず母死せん。母儀是を聞て驚疑せず、怖畏せず。増すます愛敬を加ふ。果して師八歳の時母儀即ち死す。人悉く道ふ。一年違ひありと雖も、果して相師の言に合すと。
瑩山禅師『伝光録』第51章
曽祖、越前吉祥山永平寺開山和尚、諱は道元、洛陽の人。姓は源氏、村上天皇の後裔、後中書王の遺胤。初めて生れし時、相師見て云く、七処平満、骨相奇秀、眼に重瞳有り、此の児、凡に非ず、必ず是れ聖子たるべし。古書に云く、聖子誕ずる時、其の母の命危うし、此の児、七八歳の時、須らく其の母喪うべし。又、自ら念じて、此の児、懐胎の時、空中に声有りて、告げて曰く、此の児五百年来、双肩無き聖人と為りて、倭国に託生して、正法を興行す。相師の言に符号す、果して八歳の冬、其の母喪えり。
瑩山禅師『洞谷記』「洞谷伝灯院五老悟則并行業略記」
道元大和尚、此年(註:正治2年)御誕生、洛陽人也。源氏。村上天皇九代之苗裔也。後中書王八世遺胤也。其母懷妊之時、空中有声、告云、「此児五百年来無斉肩大聖人なるべし。今倭国に正法を興隆せんが為に生れ給う」と、云々。
又、卜相人見て云、「此児、常の童児に異也、必ず聖人ならん。七処平満にして骨相奇秀也。眼に重瞳まします。是凡流にあらず」と云。
又、古老の名儒等見て、賛云、「凡夫の非類に、可作大器と。須是称神童」と云々。
瑞長本『建撕記』
釈道元。姓は源氏。京兆の人。紳纓の胤なり。
虎関師錬『元亨釈書』巻六
だいたい以上に挙げたものが古い時代(14〜16世紀くらいまで)に書かれた伝記でありまして、総じて同じ内容だということが分かります。『元亨釈書』は、趣を異とする文献なので、表記も別ですが、それ以外はほぼ一緒であり、ここからは、瑩山禅師の周辺で、道元禅師の伝記が編集されていったことを示すものともいえます。なお、よくよくご覧いただければ分かりますが、道元禅師の御両親については、ほとんど書かれていません(そもそも、生まれた日も分からない・汗)。村上源氏であることや、京都の生まれ、そして他の子供とは見た目が異なっていたことや、母を早くに亡くすことなどが書かれるのみです。
それで、困ったのが後の人だったのでしょう。両親の名前をよほど知りたかったと見えて、この「村上天皇九代の苗裔。後中書八世の遺胤」ということから、様々な推測を行っていったようです。そして、主として以下の2通りを見ることが出来ます。
●「源通忠」説
・永平開山道元和尚行録
・日域曹洞列祖行業記
・永平仏法道元禅師紀年録
⇒ただし『紀年録』では、「通親の孫」「通具の第三子」などの説も併記。
・延宝伝燈録
・本朝高僧伝
・扶桑禅林僧宝伝
・建撕記(延宝本)
●「源通親」説
・日域洞上諸祖伝
・永平実録
・訂補建撕記
●「源亜相の子」説
⇒この「亜相」とは、宰相に準じる位ということで、名前ではなくて官位のこと。
・日域洞上聯燈録
それぞれの資料を見比べてみると、「源通忠」が父親だという説が強いようです。しかし、この説については、今はほぼ完全に否定されておりまして、それもそのはず、この方は道元禅師よりも生まれが遅いと考えられているのです。それで、面山和尚が指摘した『永平実録』『訂補建撕記』の見解から、源通親であるという説が、一時期は強く信じられていました。ところが、これまた古い資料の研究に依って、どうやら道元禅師が比叡山に入る13歳まで、父親は生きていたとされるようになりました。比叡山につなぎを入れてくれた母方の親戚である良顕法眼は出家を求める道元禅師をなだめながら「親父・猶父、定めてその瞋有り」(『三祖行業記』)としています。今風の言葉でいえば「お父さん達に怒られるよ」という所でしょうか。よって、1202年に亡くなったという通親では話が合わないわけです。
また、道元禅師は父親を供養する上堂を永平寺で行っていますけれども、「育父源亜相の為の上堂」(『永平広録』巻5-363上堂)とあります。この「亜相」ですが、古来から指摘されているように「大納言」を示す語だとされております。通親は内大臣でしたので合わず、確かに通忠は大納言でしたが年代が合わず、よって、結果的に大納言で年代も合う源通具(1171〜1227)という説が浮上し、今ではこの説が受け入れられているのです。幾つかの文献に依れば、道元禅師はその三男だったかもしれないようです(門子本『建撕記』など)。
ところで、色々な資料を見ていきますと、この通具、どうやら道元禅師が生まれたときには、父・通親の知行地であった伊予国(今の愛媛県)の太守だったようです(1200年3月まで)。でも、これは、役職だけを受けて、実際には行かなかったと見るべきなんでしょうね。でないと、道元禅師が生まれたのが、伊予国ってことになりそうですからね。今と違って、安易に往復できるような距離にもなかったでしょうし・・・
更に母親についてですが、こちらは更に不明。一応、通説では藤原基房の娘で、伊子だとされております。しかし、通親が父親という説が曖昧になった以上、伊子であるはずがないわけです。よって、母親は不明のようです。道元禅師伝の御研究で知られる中世古祥道老師のご発表を曹洞宗総合研究センターの学術大会にて毎年拝聴していますが、老師も母親については、その家系(特に良顕との関係で)などを御指摘されつつ、特定はされていません。他の新史料でもない限り分からないようです。まぁ、まだまだ男尊女卑の時代ですから、一女性についての記録の詳細は残されていないのでしょう。
なお、末尾に挙げるのは恐縮ですが、拙記事で採り上げた内容については、中世古老師の『道元禅師伝研究(正・続)』(国書刊行会)をご覧いただければ一目瞭然であります。拙僧は、あくまで分かりやすさを求めて、老師の著作を掻い摘んでまとめ、記事にしただけでございます。なんの目新しさもないですが、一応、今日の記事には相応しいかと思って投稿した次第です。また、吉川弘文館人物叢書の『道元』(竹内道雄師)ですと、まだ伝統的な見解にも見るべきことがあるというお立場であり、この問題の解明の難しさをご指摘しておられます。
などなど、拙僧ゴチャゴチャ申し上げましたが、今朝は道元禅師降誕の辰に因んで、坐禅をしてご供養いたしたく存じます。合掌
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いや、でも、せっかく道元禅師の映画『禅 ZEN(公式サイト)』が封切りされてまだ2週間あまり、ここを機に宣伝も兼ねようと思います。そこで、いつものように伝記資料を当たろうと思っているんですけど、それだったら【去年の記事】でもリンクしておけば良いですよね。よって、今年は全く別のことを書きます・・・と、ここまで書いて2週間ほったらかしました。大したネタが出てこないので、仕方なく、道元禅師がお生まれになった状況について、多くの伝記でどのように描いているかを併記してみましょう。
禅師。生(原文ママ)は源氏、諱は道元。洛陽の人なり。村上天皇九代の苗裔。後中書八世の遺胤。初めて生まれし時、相師見て曰く、この児、常童と異なれり。必ずこれ聖子なり。七処平満、骨相奇秀、眼に重瞳有り。凡流と異なるが若し。古書に曰く、聖子誕ずる時、その母の命危うし。この児七八歳の時、即ちその母喪えり。母その言を聞くと雖も、至愛掬養して、驚かず怪しまず。また自らこの子を念ず。懐妊の時、空中に声有りて、告げて言く、この児五百年来、肩を斉しくするもの無き聖人なり。倭国に正法を興隆せんが為に託生し来たる。相師の言に符号す。
『永平寺三祖行業記』「初祖道元禅師」章
師、諱は道元。俗姓は源氏。村上天皇九代の苗裔。後中書王八世の遺胤なり。正治二年初て生る。時に相師見たてまつりて曰く、此子聖子なり。眼重瞳あり、必ず大器ならん。古書に曰く、人聖子を生ずる時は、其母命危うし。この児七歳の時、必ず母死せん。母儀是を聞て驚疑せず、怖畏せず。増すます愛敬を加ふ。果して師八歳の時母儀即ち死す。人悉く道ふ。一年違ひありと雖も、果して相師の言に合すと。
瑩山禅師『伝光録』第51章
曽祖、越前吉祥山永平寺開山和尚、諱は道元、洛陽の人。姓は源氏、村上天皇の後裔、後中書王の遺胤。初めて生れし時、相師見て云く、七処平満、骨相奇秀、眼に重瞳有り、此の児、凡に非ず、必ず是れ聖子たるべし。古書に云く、聖子誕ずる時、其の母の命危うし、此の児、七八歳の時、須らく其の母喪うべし。又、自ら念じて、此の児、懐胎の時、空中に声有りて、告げて曰く、此の児五百年来、双肩無き聖人と為りて、倭国に託生して、正法を興行す。相師の言に符号す、果して八歳の冬、其の母喪えり。
瑩山禅師『洞谷記』「洞谷伝灯院五老悟則并行業略記」
道元大和尚、此年(註:正治2年)御誕生、洛陽人也。源氏。村上天皇九代之苗裔也。後中書王八世遺胤也。其母懷妊之時、空中有声、告云、「此児五百年来無斉肩大聖人なるべし。今倭国に正法を興隆せんが為に生れ給う」と、云々。
又、卜相人見て云、「此児、常の童児に異也、必ず聖人ならん。七処平満にして骨相奇秀也。眼に重瞳まします。是凡流にあらず」と云。
又、古老の名儒等見て、賛云、「凡夫の非類に、可作大器と。須是称神童」と云々。
瑞長本『建撕記』
釈道元。姓は源氏。京兆の人。紳纓の胤なり。
虎関師錬『元亨釈書』巻六
だいたい以上に挙げたものが古い時代(14〜16世紀くらいまで)に書かれた伝記でありまして、総じて同じ内容だということが分かります。『元亨釈書』は、趣を異とする文献なので、表記も別ですが、それ以外はほぼ一緒であり、ここからは、瑩山禅師の周辺で、道元禅師の伝記が編集されていったことを示すものともいえます。なお、よくよくご覧いただければ分かりますが、道元禅師の御両親については、ほとんど書かれていません(そもそも、生まれた日も分からない・汗)。村上源氏であることや、京都の生まれ、そして他の子供とは見た目が異なっていたことや、母を早くに亡くすことなどが書かれるのみです。
それで、困ったのが後の人だったのでしょう。両親の名前をよほど知りたかったと見えて、この「村上天皇九代の苗裔。後中書八世の遺胤」ということから、様々な推測を行っていったようです。そして、主として以下の2通りを見ることが出来ます。
●「源通忠」説
・永平開山道元和尚行録
・日域曹洞列祖行業記
・永平仏法道元禅師紀年録
⇒ただし『紀年録』では、「通親の孫」「通具の第三子」などの説も併記。
・延宝伝燈録
・本朝高僧伝
・扶桑禅林僧宝伝
・建撕記(延宝本)
●「源通親」説
・日域洞上諸祖伝
・永平実録
・訂補建撕記
●「源亜相の子」説
⇒この「亜相」とは、宰相に準じる位ということで、名前ではなくて官位のこと。
・日域洞上聯燈録
それぞれの資料を見比べてみると、「源通忠」が父親だという説が強いようです。しかし、この説については、今はほぼ完全に否定されておりまして、それもそのはず、この方は道元禅師よりも生まれが遅いと考えられているのです。それで、面山和尚が指摘した『永平実録』『訂補建撕記』の見解から、源通親であるという説が、一時期は強く信じられていました。ところが、これまた古い資料の研究に依って、どうやら道元禅師が比叡山に入る13歳まで、父親は生きていたとされるようになりました。比叡山につなぎを入れてくれた母方の親戚である良顕法眼は出家を求める道元禅師をなだめながら「親父・猶父、定めてその瞋有り」(『三祖行業記』)としています。今風の言葉でいえば「お父さん達に怒られるよ」という所でしょうか。よって、1202年に亡くなったという通親では話が合わないわけです。
また、道元禅師は父親を供養する上堂を永平寺で行っていますけれども、「育父源亜相の為の上堂」(『永平広録』巻5-363上堂)とあります。この「亜相」ですが、古来から指摘されているように「大納言」を示す語だとされております。通親は内大臣でしたので合わず、確かに通忠は大納言でしたが年代が合わず、よって、結果的に大納言で年代も合う源通具(1171〜1227)という説が浮上し、今ではこの説が受け入れられているのです。幾つかの文献に依れば、道元禅師はその三男だったかもしれないようです(門子本『建撕記』など)。
ところで、色々な資料を見ていきますと、この通具、どうやら道元禅師が生まれたときには、父・通親の知行地であった伊予国(今の愛媛県)の太守だったようです(1200年3月まで)。でも、これは、役職だけを受けて、実際には行かなかったと見るべきなんでしょうね。でないと、道元禅師が生まれたのが、伊予国ってことになりそうですからね。今と違って、安易に往復できるような距離にもなかったでしょうし・・・
更に母親についてですが、こちらは更に不明。一応、通説では藤原基房の娘で、伊子だとされております。しかし、通親が父親という説が曖昧になった以上、伊子であるはずがないわけです。よって、母親は不明のようです。道元禅師伝の御研究で知られる中世古祥道老師のご発表を曹洞宗総合研究センターの学術大会にて毎年拝聴していますが、老師も母親については、その家系(特に良顕との関係で)などを御指摘されつつ、特定はされていません。他の新史料でもない限り分からないようです。まぁ、まだまだ男尊女卑の時代ですから、一女性についての記録の詳細は残されていないのでしょう。
なお、末尾に挙げるのは恐縮ですが、拙記事で採り上げた内容については、中世古老師の『道元禅師伝研究(正・続)』(国書刊行会)をご覧いただければ一目瞭然であります。拙僧は、あくまで分かりやすさを求めて、老師の著作を掻い摘んでまとめ、記事にしただけでございます。なんの目新しさもないですが、一応、今日の記事には相応しいかと思って投稿した次第です。また、吉川弘文館人物叢書の『道元』(竹内道雄師)ですと、まだ伝統的な見解にも見るべきことがあるというお立場であり、この問題の解明の難しさをご指摘しておられます。
などなど、拙僧ゴチャゴチャ申し上げましたが、今朝は道元禅師降誕の辰に因んで、坐禅をしてご供養いたしたく存じます。合掌
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これまでの読み切りモノ〈曹洞宗4〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。













花祭りさえ何のことか分からないですよね。
クリスマスはあんなに馬鹿騒ぎするのに。
六月に高野山へ行った事が有るのですが、町をあげて青葉祭(弘法大師生誕祭)一色でした。
永平寺町はどうなのかな。
家からは日帰り圏内だけどなかなか行けませんが。
> 今日はお誕生日でしたね。菩提寺でも法要があるわけではなく、失念するところでした。気付かせてくださった和尚さんに御礼申し上げます。
法要の歴史としては、新しい方に入るので、なかなか定着しないようですね。
> 観音寺和尚 さん
> 危うく忘れるところでした。どうしても總持寺系が強い地域ですからやってないですね。いや、両祖忌はともかく、太祖のもやってないですな。
無門さんへのご回答にも書きましたが、どうしても大正時代以降に作られた法要ですので、歴史が浅く、定着に時間がかかっているのかもしれませんね。
> 開眼寺壇信徒 さん
> 大抵の日本人は最後は仏教で送られるのですが、自分のお寺の宗派の開祖の生誕を祝う事は少ないですね。
確かにそうですね。もとから、誕生日よりも、忌日を尊んだのかもしれませんね。
> 花祭りさえ何のことか分からないですよね。クリスマスはあんなに馬鹿騒ぎするのに。
これは、御指摘の通り、本当に不思議なことです。まぁ、クリスマスが何の意味があるのかも分かっていないのかもしれませんね。ただ、騒いでいるだけで・・・
> 六月に高野山へ行った事が有るのですが、町をあげて青葉祭(弘法大師生誕祭)一色でした。永平寺町はどうなのかな。
どうなんでしょうかね?今度、知り合いに聴いてみます。