つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

瑩山紹瑾禅師と『宿曜経』

2017-01-03 13:21:22 | 仏教・禅宗・曹洞宗
曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師(1264~1325)には、ご自身が開かれた洞谷山永光寺開山の記録(日誌)と言うべき『洞谷記』が存在しているが、その中には幾つか気になる記述がある。おそらくは、この辺が瑩山禅師の「密教化」と呼ばれる事柄ではあると思うのだが、密教化と安易に断じる風潮を色々と考えてみたい。

元亨四年甲子三月三日、法座鉞立す、己丑の日、予の六合日なり。仏、鹿野苑に在して、初めて法輪を転ずるの日なり。仏の往因は、善友太子と為る時、竜宮に往きて如意宝珠を求む、成和三年五月己丑日なり。宿曜経に出づ。未だ三月の節に入らず、二月の内の万吉日なり。合山群集して、楞厳呪一遍を諷経す、始め打磬し、大工善真大夫鉞立す。
    古写本『洞谷記』訓読は拙僧


この一節だが、全体的によく分からない。ただし、元亨4年(1324)3月3日に、法座を立て始めたという。この、旧暦の元亨4年3月3日は、最近の暦日計算サイトなどで確認すると、確かに「己丑の日」である。これは、日付を十干十二支で区別する方法だが、瑩山禅師は、この「己丑の日」は、自分にとっての「六合日」であるという。この「六合日」とは、様々な解釈がされるが、瑩山禅師ご自身にとって、この「己丑の日」がご自身の佳き日であったといえる。

なお、瑩山禅師はこの(己丑の)日は仏陀が鹿野園におられて、初転法輪を行った日であるという。更に、釈尊が前世で善友太子(この龍宮に行った話は『報恩経』巻4「悪友品」に出てくることで有名)であった時、龍宮に行って如意宝珠を求めたというが、それは成和三年五月の己丑日であったという。問題は、この成和三年だが、詳細は不明である。何かの記述の間違いかとも思うのだが、中国の元号とも日本の元号とも合わない。

また、先行研究では、後述される『宿曜経』との関わりが指摘されるが、善友太子の一件は『報恩経』が出典であり『宿曜経』ではない。よって、『宿曜経』云々は、「未だ三月の節に入らず、二月の内の万吉日なり」が関わると思われるが、同経を読んでもよく分からない。ただし、「万吉日」というのは、かなりの幸いをもたらす日であるとされ、要は瑩山禅師はそのような日に、山内の修行僧を集め、『楞厳呪』を諷経し、大工の善真大夫が建て始めたことになる。それから、この「万吉日」については、次の一節を見てみたい。

同二月九日、鬼宿布灑星合日を以て、予の六合日、乙丑なり。二月万吉日、犯土造作等の吉日、法堂の地、方に始むべし、一衆普請して、消災呪一遍を諷誦す。先師大乗和尚、造営祈祷の佳例なり。人夫三百人地引するなり、普請の僧数の定を知らざるなり、仮廊は僧堂より方丈に至って加えて定むなり。
    古写本『洞谷記』訓読は拙僧


実は、この一節は本来、先の一節よりも前にあるべき内容なのだが、「古写本」ではこの記事で紹介した順番になっている。その辺、江戸時代の大乗寺・智灯照玄が重編した「流布本」では本来あるべき順序に改められている。よって、この順番に従うと、瑩山禅師の意図するところが少し分かると思うのだが、この元亨4年2月9日は、確かに「乙丑の日」である。そして、この日も瑩山禅師は「予の六合日」であるとしていることから、肝心なのは「丑の日」であることになろうか。

また、「鬼宿布灑星合日」というのは、この日付が「宿曜」に従えば「鬼宿日」であることをいう。『宿曜経』下巻「二十七宿所為吉凶暦」によれば、「鬼宿」とは「作す所、皆な吉なり」であり「求めと為す所有れば、並びに皆な吉祥福徳増長す」とある。そして、天台宗の『渓嵐拾葉集』の説に拠れば、「鬼宿は漢語なり。梵に云く布灑星合なり。尤も吉祥に相応する宿なり」とあって、同じ意味の言葉を梵漢重ねたものであるとされている。同書の成立年代からすれば、おそらく瑩山禅師の認識も同じであった可能性がある。

それから、この二月九日に「犯土造作」を行うのが良いとされ、それは、本師である徹通義介禅師が造営した佳き例があるという。これは、何のことを指しているのだろうか?永平寺でのことか、大乗寺でのことか?よく分からない。だが、義介禅師は日を選んで土地の造営を行い、それに倣って瑩山禅師も法堂を建てる土地を調えたといえる。

それで、この一節を読んだ率直な感想だが、瑩山禅師は『宿曜経』を体系的に学んだということは無いと思われる。むしろ、この程度の暦の知識は、当時は当たり前、それこそ、現代でいうところの「六曜」程度の知識であったように思う。それは、「万吉日」のことを考えるとそう思えてくるのだが、管見の限り、万吉日は『宿曜経』に出ていない。また、六合日についても出ていない。

おそらく同経から得られた知見として大切なのは、「二月の早い時期(15日以前か?)に、土木工事を始めること」ということくらいである。そして、その日に、『楞厳呪』『消災呪』を読むというのも、日本の密教の影響のみだとはすることが出来ず、中国の禅宗(瑩山禅師に直接の影響を与えたのは、日本に伝わった臨済宗の中でも心地覚心の法灯派か?)の影響も考えられる。

そして、真実かどうかは分からないが、吉日を選んだのは道元禅師も同じ可能性があり、15世紀頃成立の伝記史料である『建撕記』に従う限り、永平寺(当初は大仏寺)建立の際には、陰陽師の見解を受けて(法堂建立時に「陰陽の少允安倍晴宗勘ゑ申す申之時、種々之儀式有之」とある)、吉日や吉例を考えたとされる。

よって、吉辰を選ぶ際に、『宿曜経』を典拠にはするものの、瑩山禅師は総合的な「文証」として出したのみで、その思想的意義の詳細を受けているとはいえず、現代でいうところの六曜程度の認識であったのではないか?と申し上げておきたい。勿論、ここだけを引いて「密教化」と声高に言うことは出来ないのではないか、ということである。

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