亡き父母へ感謝伝えて敬老日・嫁入りの列に写したわらの屋根

2017-09-15 | 日記

 9月15日(金)5011歩 雨で往復バスで温泉へ

藁ぶき屋根のある風景・・そしてお嫁入りの日に花嫁さんは神社にお参りに行きます。

今から60年前の写真です。子どもたちが数人一緒に歩いてくれます。

私の2番目の姉、現在84歳?かな 隣にいるおばちゃんは従妹のお嫁さん。95歳くらいでしょう。

まだ施設で過ごしていると聞いています。

 姉は今は一人暮らし、去年は鹿児島まで来てくれました。

てんがらもんラジオ4周年の記念パーティに次兄夫妻ときてくれました。

  

父のことなど

 父は7人兄弟の末っ子で留七郎の名前が付いており、これで最後の子どもという親の思いが

あったそうです。 小学校を卒業すると下男として奉公に出されそこから中学に通ったと

姉たちに聞きました。

 

大変しつけの厳しい家で奉公したそうです。私たちにも厳しい父でした。

特に食事のマナーや家の手伝いなどが厳しかったと思います。

5歳上の兄はよく柱に荒縄で縛り付けられていました。(10歳上の兄はあまり印象にない

高学年になって家にいる時間が違ったり)雑巾がけが一番印象に残っています。

なぐったりなどの暴力はありませんでした。

 

 百姓で現金収入もなく高校にも出せない貧しい暮らしでした。

一番下の兄は中学の先生が「高校だけは」と(私も同じ経緯で理容師になるつもりが

高校に行かせてもらいました)真ん中の兄は、色々苦学をして高校も大学も自分の力で

行ったようです。貧しいと言ってもお百姓だから食べるものは何とかなりました。

 

 厳しい父ですが親の考えを押し付けたりは私には記憶がありません。

 姉は頭がよくて女学校の先生が何とか高等学校までと家にまで足を運んだけれど

 後に続く弟や妹を考えて自分で行かないでいいと決めたと今になって何度か聞か

 されました。なんだか申し訳ない気がします。

 image  姉の嫁ぎ先は平尾台の真下です。

 

 父は寡黙で威厳があり、末っ子の私は何も言えませんでした。何でも頼み事は母に。

「父ちゃんに聞いてみないと」欲しいものがあっても買ってもらえることはありません。

ある時学校で鉄琴と木琴の販売があり、私も欲しくてたまりませんでした。

どうしても父に出してもらえないとき母が卸したむしろのお金を母はこっそり

回してくれました。それは冬に別府の鉄輪に湯治に行くためにためているお金です。

母に頼み込んで50円安い木琴をやっと手に入れました。(当時350円)

でもこれが私の音楽への入り口です。

 

半音のない木琴手探りで知っている歌を次々叩いてみました。

うれしかったのは美空ひばりの「越後獅子」が半音がなくて弾けることでした。

自信を得た私は先生にオルガンをひかせてもらい 知っているうたで

あれば右手は簡単に弾けました、左も適当につけて・・

その時代ピアノを習っている人はいません。学校にピアノもない時代です。

(中学校に入ってやっと学校に1台だけピアノがありました。)

 

以後運動会では私が校歌を伴奏したりしました。中学でも竹の

棒を持ってやる体操を私のオルガン伴奏でやりました。今でもその曲を

覚えています。

 小学校3年生のころ鉄棒から落ちて 長いこと遠くの外科病院に通いました。

父の自転車で学校は休んで1日がかりでした。

途中川沿いにきれいな花が咲いているのですがそれを取りたいとも言えなくて、あと

で月見草の花だったと知りました。

私の両親から「女の子だから」という言葉は聞いた覚えがありません。

それに気が付いたのは長女が「おかあさん、よそは 女の子だから何をしては

いけないというらしいのだけど、家では言わないよね」

そういえば自分がそういわれてないので気が付きませんでした。

親の考えを押し付けない事と合わせてこれは私の両親が身につけさせてくれた

有難い人間らしい生き方です。

 夫は薩摩隼人。封建性が強いと言われていますが、やはり一定の民主主義を

学んで男尊女卑の思想はありません、だから子供に押し付けることもありません。

ただ長女が音楽の道にと希望した時「今の時代クラッシックでは生きていけない」

とかなり反対されました。でも演奏家ではなく、教育者としての音楽に落ち着いて

しぶしぶ納得してくれました。

 

 父は長女が生まれて6ケ月のころ、家で庭師の手伝いをしていて大きな木の

下敷きになりなくなりました。まだ孫の顔見世に帰ってなかったのが悔やまれます。

福岡と鹿児島では今のように新幹線もなく12時間の旅は簡単には帰れません。

 突然の訃報。私25歳、父は70歳でした。

母は寝たきりで、父が母の食事の世話をしていました。

2年後 母も他界して、私は両親から子供たちにお年玉をもらうこともなく、親

孝行もできず 遠くに来てしまったことで両親の晩年に往来ができなかったこと

がとても悔やまれます。

敬老の日に何も送れなかった心の痛みをふとここに記してみたくなりました。

  父母と長男の兄が眠る墓です。

  敬老の日、せめて両親をしのび、姉と兄(長女と長男)へも心を寄せて

 冥福を祈りましょう。

 

10日間の入院を終えて夫が退院できました。

ペースメーカーの電池入れ替えのための手術、10年ぐらい前に

入れてから取り換えは2度目です。 

高齢なので心配もありましたが 40分ほどの手術で経過もよかった

ので報告が今日となりました。

手術日が7日のてんがらもん放送の日の 

午後で時間が重ならなくてよかったです。

  

今から始めまーす。 

1時間後無事手術室から出てきたので

「あっ無事生還できたのですね」に大笑い。

本人も苦笑していました。

1年前のブログはこちら (てんがらもんの報告・ゲストは日赤から)

http://blog.goo.ne.jp/chidori-t/e/6e89409dee13ed24bc858697b82a7357

 

 

 

 

 

コメント (18)    この記事についてブログを書く
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18 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんんばんは (kao)
2017-09-15 21:11:07
あっ、ご無事でほんとに
なによりでした!!
そんな大変な日に
私の詩をはりつけるのにまで
奔走してくださりほんとに
申し訳なく。・・。!!ありがとうございます1
どうか残りの人生ご夫婦ご無事ですごせますように。。、「」
こんばんは (延岡の山歩人K)
2017-09-15 21:16:53
>今から60年前の写真です
>藁ぶき屋根のある風景・・そしてお嫁入りの日に花嫁さん

素敵な写真ですね
 素晴らしい写真と文章拝見して 感動しました
 むかしは、 スマホやパソコン・・等 文明はなく
 貧しかったけど 心は貧しくなかった と思います
 人間同士のつながりも温かったですね
 自分も遠い日を思い出しました。


 
昔の人は・・・ (屋根裏人のワイコマです)
2017-09-15 21:17:48
昔は家業を家族皆で手伝いながら・・
家庭の状況を知りつつ その中で自立
して行きました。 その家族の愛や絆は
生きている限り・・変わりません。
今の時代の家族とは 大違いでした。
そんな時代はもう二度とやってきません
過去を振り返るより・・明日の夢を・・
多くの皆さんが chidori様に期待して
待ち焦がれている・・耳を澄ますと・・
その声が聞こえる。
元気出して 頑張ってください。
ひとまず台風を回避してくださいね
こんばんは (mappee)
2017-09-15 23:02:01
60年前の懐かしい写真
私は9歳でした
子供の髪の形想い出します
みんなおかっぱ頭でしたね^
茅葺の屋根も本当に懐かしいです
ほのぼのとした、花嫁さんの写真です
昔は家から出て行ったんですよね・・
昔に戻れる写真です・・・
懐かしい懐かしい
いい写真です
chidoriさんへ (まりも)
2017-09-15 23:13:44
何処のお宅も 昔はお「父さんに聞いてから」とよく言われましたね
我が家も 父の承諾なしには 母は動いてくれませんでした
chidoriさんのご両親は 人としてとても素敵な方達だったのですね
きっと 今でも chidoriさんの事見守っていますよ
そして ご主人様の手術 無事終わり退院され 良かったですね
我が父も 心臓の手術をして18年
身体を労わりながら 上手に付き合い
いつまでも お二人で仲良く!
今のchidoriさんが感じている気持ちと同じことを 娘さんはご両親に思っていると思いますよ
あっ そろそろ葡萄が届きますね
台風心配ですが 無事通り過ぎてくれると良いですね
運動会 (kaeru)
2017-09-15 23:46:09
運動会での校歌伴奏、川柳にどう詠まれるか、楽し
みにしてます。
kaoさん (chidori)
2017-09-16 07:46:31
家族のことを書いて不快感を与えることがありますので、

報告しなくてもよかったのですが、生還できたので触れました。

心配いただいてありがとう。本人は気持ち的にもとても元気ですのでご安心ください。
延岡山歩人k様 (chidori)
2017-09-16 07:53:27
うれしいなぁ。私の忘れかけた60年前のぼやけた写真

そのように価値を見出してもらえて。

私は高校生でした。

本当は自分史的に、少し自分まとめをしておきたい気持ちがあります。

親は子供に自分史的な話はしてないことが多いです。

物はなくても豊かだったあの時代を語ることも決して

後向きではないと思います。

kさんのコメントで、それに気が付きました。

ありがとうございました。
屋根裏人ワイコマサンへ (chidori)
2017-09-16 08:05:22
そうですね。

「あなたの過去など知りたくないの」ですね。

でも私にとっては日々薄れていく77年を、兄が書いたよう

にとは思いませんが、節目節目を思いだし、私すら忘れて

しまう、その時代時代の大切なことを記すことは、わた

しにとって意味がある。読んでくださる方にどうかはそ

の方が思うことだからわかりません。その場合はス

ルーされるだろうと思います。

明日の夢を待っている?…この年齢でできることは限

りもあり、健康であることだけを頼りに長い見通しの夢

は語れないし 常に自分の体と相談しながら 日々を

過ごしている現在です。

後10年したらわかって頂けるかな?

ワイコマさんはもっと先でしょうね。現役ですから。

何時もドキッとするコメントありがとうございます。

私は私らしくこれからも続けていくしかできません。


mappeeさん (chidori)
2017-09-16 08:14:36
そうか9歳ですね。あのおかっぱ頭のマッピーさん、

今でも想像できますよ。きっとおてんばチーちゃんだった

のでは?私は年上の近所のお姉ちゃんたちにいじめら

れた・・きっと生意気だったのでしょうね。従妹だったので

大きくなってそんな話がしたいと思ったのに結核でなく

なりました。

結婚式もみな自宅でしたね。障子に唾をつけて中の様

子を覗いたりしたような思い出があります。

3丁目の夕日よりもまだ10年以上前の話でした。

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