お道と臨床と~心づくりの処方箋~

天理教と臨床心理学の視点を含めて,まおという人間が考える日々の通り方や考え方について綴っています.

己の無力さを知る

2006年09月29日 | 教会
今日は午後からリーフレット配りに行ってきました.支部で何人かが集まり,とある団地を回りました.

手にリーフレットを持ち,団地内を歩いてポストにそれを入れて回るわけですが,自分は何も悪いことはしていないのに,妙に居心地が悪いのです.よかれと思ってリーフレットを配っているのに,なんだかとても悪いことをしているような気分になるのです.人の気配がある階段近くのポストはとばして次のポストに歩いていく自分の足取りがそれを物語っていたでしょう.きっと迷惑がられるんだろうなぁとか,読まずに捨てられちゃうんだろうなぁとか悪い考えが頭をよぎりましたが,その考えを振り払い,たとえ1枚でも目を通してもらえればそれでいいじゃないかと思い続けました.ですがやはり勇むというよりはいずんでいたような気がします.

これが何かのチラシ配り―たとえば割引券や広告などを配るアルバイトであれば,何の抵抗感もなくこなせたことでしょう.なぜチラシ配りは大丈夫なのに,天理教のリーフレット配りには居心地の悪さを感じるのでしょうか?そこにはおそらく社会的認知度が大きく影響していると思います.宗教の認知度は低く敷居も高いです.このことが自分がマイノリティであるという認識を団地の中で強く実感させ,受け入れられにくいと私に思わせます.そして,天理教は私のアイデンティティ(※)の重要な要素ですので,そのような実感をひしひしと感じることに居心地の悪さを感じたのだと思います.結局は私の未熟さなんですが・・・.(アルバイトであればそのチラシの扱われ方によって自分自身に何の影響もないので居心地の悪さは感じないわけです.)

そんなわけで,私は自分自身がまったくの裸で無力であるように感じました.病院で仕事をしていれば,こちらから足を運ばなくとも患者さんの方からやってきてくれます.白衣を着ていれば,たいていの人が訊ねたことに答えてくれますし,こちらの話も聞いてくれます.信頼を得られれば悩みも打ち明けてくれます.しかし,今日その場にいた私は,人に対してまったくの影響力を持たず,そして自分のやっていることにむしろ心許なさや後ろめたささえ感じていたのです.これまでにもにをいがけをしたことはありますが,今日ほど深く感じたことはありません.

一般的に宗教が敬遠される時世の中で,私は信仰はむしろ必要だと思っていて,その良さを少しでも伝えたいと思い,こうしてブログまで書いていますが,それをいざ現実社会の中で広めるための実践となると自分はあまりにも無力であると思いました.そんな自分をとても小さく感じました.

リーフレット配りの真の意味は伝道にあらず,他者に対しての影響力以上に自分自身に対しての強烈な仕込みになる,と思いました.裸の自分を知り,心を低く通らせていただくのにもってこいかもしれません.その心は神様が受け取ってくださるでしょうし,にをいはあとからついてくるものなのかもしれません.今日のリーフレット配りで自分は多くの有形・無形の存在に支えられてこの社会で生かされているということを改めて実感できました.

今回私は自分自身の未熟さを痛感したわけですが,このようなことを感じることなく,勇んでにをいがけをされている方はすごいなぁと思います.にをいがけをされている方,正直どのようなことを感じながらされていますでしょうか?


※アイデンティティとは自分らしさのことで,「自分とは何か?」「自分はどんな人間なのか?」「自分は何のために生きているのか?」などの問いに対する答えに該当すると思うとわかりやすいかもしれません.

最新の画像もっと見る

7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (さな)
2006-09-29 22:17:51
正直なにおいがけの実際を知ってもらいたいと思い、

ホームページに日誌を書いています。

実際の具体的な動き、気持ちの動きなど、

赤裸々に書いています。

昔はにおいがけが嫌いで嫌いで、住み込み時代、

友達に迎えに来られても、布団をかぶって

イヤだと言っていた時もあるんですよ。

今は万単位でパンフを作り、

それを配りきることだけを考えてやってます。

3才の息子が一緒なので、機嫌の悪くならないうちに、

と思うと、余計なことを考えている暇がないのでそれも良いのかもしれません。

多かれ少なかれ、みんなだいたい同じような思いで

やっているのではないでしょうか。

そして、やりながらそれぞれの人が

それぞれの答えを心の中につかんでいくのではないかと思います。
返信する
Unknown (さな)
2006-09-29 22:26:11
ちなみに、千枚くらいパンフを配ると

1回くらい電話が来ます。

そうでないこともありますが、

その場合は、他でふとしたことで声がかかって

初参拝のご守護を頂いたりすることもあります。

ともかく、おおざっぱに言って

千人に一人電話してくると言うことは、

百人に一人は、電話しようかと思ったけどしなかった、

十人に一人くらいは、ちゃんと読んで

なるほどと思ってくれた、かもしれない、と。

勝手な明るい妄想をしています。

パンフを入れないと、助かりの糸を

垂らし忘れてきたようで、何とか一軒も

もらさないようにと配っています。

それもこれも、だんだん歩きながら

自分で編み出してきた、

自分なりの、自分への説得です。
返信する
こんばんは、まおさん (yoshi)
2006-09-29 23:08:11
私は特に言うことはないかな。



お疲れ様でした!!次があるので!!!
返信する
是非 (まお)
2006-09-30 08:28:46
今度日記読ませていただきます.昨日パラパラと読んでみましたが,すごいの一言でした.今の自分にはとても真似できません.長いにをいがけの道中で築き上げてきたものでしょうから,そう簡単に真似できるわけないですね.



>やりながらそれぞれの人がそれぞれの答えを心の中につかんでいくのではないかと思います.



結局は伝道と共に自分の心の成人にもなるということでしょうか.前向きな明るい気持ちを忘れないようにしたいですね.



>yoshiさん

今日は完敗です!次は今日よりもよい気持ちになれるといいな.繰り返す中にその心は培われていくものなのでしょうか.





返信する
ぼちぼちと… (はっぴー)
2006-09-30 12:31:29
お気持ちよくわかりますね…でも、にをいがけは教祖の『お供』だと思わせていただいて、頑張ってくださいね…あまり偉そうなことはいえませんが…(笑)聞いていただけないと思っていながらもとにかく続けることだと思います。街中で人と出会ったら気軽に『こんにちは』と挨拶して…ポストに投函する時は手を合わせています。すぐには答えはでませんが、実働はきっと受け取っていただけます。
返信する
訂正かな? (はっぴー)
2006-10-01 12:10:23
教祖の『お供』→漢字で書いていたので誤解がないように書いておきます。教祖のおともという意味でコメントいたしました。(^_^;)

常に教祖が先回りしてくださっている。
返信する
すいません (まお)
2006-10-01 20:27:02
私の勘違いで翌日のブログ書いてしまいました.でも書いてしまったので記事はそのままにさせていただきます.もし困るようならご指摘くださいね.
返信する