■3月1日のエントリーで取りあげた前田尚作(2006)『日本文学英訳分析セミナー:なぜこのように訳したのか』(昭和堂)の「まえがき」に吉本ばなな『キッチン』のMegan Backus訳の誤訳が指摘されている。冒頭近くの以下のような箇所だ。
「じゃ、よろしく。みかげさんが来てくれるのをぼくも母も楽しみにしているから。」
彼は笑った。あんまり晴れやかに笑うので見慣れた玄関に立つその人の、ひとみがぐんと近く見えて、目が離せなかった。ふいに名を呼ばれたせいもあると思う。
問題の箇所は最後のところで、これが"I couldn't take my eyes off. I think I heard a spirit call my name."になっている。前田は「せい」を「聖霊」spiritと誤って解釈したためだと言っている。ここは修論指導のために原文と訳を対比させて読んだのだが、気がつかなかった。「ふいに呼ばれる」ことを英語ではイディオムで"spirit ... call"というのかと、多少いぶかった記憶はある。しかし原文ではその直前に「みかげさん」と名前を言っているのだからspiritが出てくる余地はなかったわけだ。それにしても訳者は「ふいに名を呼ばれたせいもあると思う」を"I think I heard a spirit call my name."と訳して、おかしいとは思わなかったのだろうか。そこのところがどうも腑に落ちない。










逆にforeignizingな翻訳であれば、つまり欧文脈の翻訳調であれば、翻訳者はあまり悩まなくていいから影が薄くて、誰が訳しても同じだから、invisibleな感じがします。Venutiとなんか反対になるんですが、勉強不足ですみません。教えてください。
「で、そういうあんたは?」
「ベイカー=ベイツ。ギルバート・ベイカー=ベイツ」
「ハイフンでつなげた名か」
「そうだ」とベイカー=ベイツはいって、左手を上着のポケットにつっこんだ。
これは川村湊が「ライ麦畑の子供たち―翻訳小説の文体を測定する」という文章の中で引用している翻訳ですが、川村はこの「ハイフンでつなげた名か」の部分が、「これが英語で話されているやりとりであるということを否がおうでも読者に意識させざるをえないのだ」と言っています。
英語への翻訳時のdomesticating傾向について書かれたものも(研究でないものも含め)いくつか読みましたが、解釈エージェント(という言い方しますか?)としての読者の受容の扱いがあまりないと感じたのでした。