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英訳『キッチン』の誤訳

2007年03月05日 | 翻訳研究

3月1日のエントリーで取りあげた前田尚作(2006)『日本文学英訳分析セミナー:なぜこのように訳したのか』(昭和堂)の「まえがき」に吉本ばなな『キッチン』のMegan Backus訳の誤訳が指摘されている。冒頭近くの以下のような箇所だ。

「じゃ、よろしく。みかげさんが来てくれるのをぼくも母も楽しみにしているから。」
彼は笑った。あんまり晴れやかに笑うので見慣れた玄関に立つその人の、ひとみがぐんと近く見えて、目が離せなかった。ふいに名を呼ばれたせいもあると思う。

問題の箇所は最後のところで、これが"I couldn't take my eyes off. I think I heard a spirit call my name."になっている。前田は「せい」を「聖霊」spiritと誤って解釈したためだと言っている。ここは修論指導のために原文と訳を対比させて読んだのだが、気がつかなかった。「ふいに呼ばれる」ことを英語ではイディオムで"spirit ... call"というのかと、多少いぶかった記憶はある。しかし原文ではその直前に「みかげさん」と名前を言っているのだからspiritが出てくる余地はなかったわけだ。それにしても訳者は「ふいに名を呼ばれたせいもあると思う」を"I think I heard a spirit call my name."と訳して、おかしいとは思わなかったのだろうか。そこのところがどうも腑に落ちない。

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7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (フリーたまご)
2007-03-07 17:59:58
 日本文学英訳の日本人による分析・批評本は一般読者向けも含め幾つかあるようですが、そこでの「誤訳指摘」を含む批評の焦点は、あくまで日本人が読むオリジナルテクスト、つまり日本語テクストが「正しくは」何を意味しているか、そして、これに対していかに訳されているかという点にしぼられているものが大部分の気がします。翻訳テクストの(英語母語話者であろう)想定読者の視点、想定読者による受容を考慮した編集プロセスなども分析に含む研究はまだ目にしていません・・・勉強不足もあって。あればぜひ紹介してください。よろしく。
日本文学の英訳 (Mizuno)
2007-03-08 21:42:36
そうですね。典型的なのは塩濱久雄『村上春樹はどう誤訳されているか』(若草書房)あたりでしょうか。しかしこの本にも「アメリカでは、面白ければ良いという観点からか、この「超訳」のようなことが程度の差はあれ行われるのが普通である」という指摘はあります。青山南も同様な傾向を批判的に論じていたと思います。Jay Rubin(2004)Haruki Murakami and the Music of Words (Vintage)には、原作を大幅に短縮した理由が書かれていて、それによると最大の要因は出版社(Knopf)がこんなに長くては売れないとして短縮を要求したことであるということです。しかしRubin自身もたとえば2部の終わりの部分はirrelevantなので削った、そのほうがずっとすっきりしたと思う、と書いています。この英訳には作者の村上春樹自身も関与しています。ここには翻訳の様々なエージェント(出版社、編集者、翻訳者、作者、(想定された)読者)が関わっています。こういう翻訳態度、というか翻訳とはどんなものであるべきかという規範はかなり強力なようです。Lawrence Venutiはこれを「翻訳者のinvisibility」と言いました。翻訳とは翻訳であることを読者に意識させないような流暢な英語であるべきだという規範意識です。この根底には抜きがたい英語中心主義があります。Venutiはこのようなdomesticatingな翻訳に対し、foreignizingな翻訳の倫理を対置します。Megan Backus訳の「キッチン」は、日本語の語順や擬声語をある程度保存する、一種のforeignizingな翻訳でありながら好評でした。しかしこうした「戦略的翻訳」が今後どうなるかは未知数です。VenutiやAntoine Bermanなどを理論的な枠組みにして、誰かがこの問題に取り組んでくれることを期待しています。
domesticationと翻訳者 (Naganuma)
2007-03-09 23:07:10
以前から疑問に思っていたのですが、domesticatingな翻訳をした場合、たとえばSLが英語で「翻訳であることを読者に意識させないような流暢な日本語」にした場合に、「翻訳者のinvisibility」と言われますよね。でも、これってエージェントとして翻訳者はすごく関与しているわけです。苦労して「日本語の論理」に訳出しているのですから、翻訳者のpresenceという点では、visibleだと思うのですが。
逆にforeignizingな翻訳であれば、つまり欧文脈の翻訳調であれば、翻訳者はあまり悩まなくていいから影が薄くて、誰が訳しても同じだから、invisibleな感じがします。Venutiとなんか反対になるんですが、勉強不足ですみません。教えてください。
invisible vs. visible (Mizuno)
2007-03-10 00:41:10
翻訳であると「読者に」感じさせないような文章、いいかえれば、たんに流暢であるだけでなく、日本語として「有標」でないことはもちろん、語順、語彙の選択と頻度、妥当なコロケーションなど、要するに「普通」だと感じられるような訳文であれば、翻訳者は「読者にとって」invisibleになるのでしょう。詳しく言うともっといろいろな要因がありそうですが、こういう条件を満たしていないと、読者は不自然な感じや読みにくい感じによってそれが翻訳であることを意識させられてしまいます。必ずしもいわゆる「直訳」でなくともそういうことは起こりそうです。そのことを「翻訳者がvisibleである」と言っているのだと思います。いずれにしても読者にとってvisibleかinvisibleかということではないでしょうか。

「で、そういうあんたは?」
「ベイカー=ベイツ。ギルバート・ベイカー=ベイツ」
「ハイフンでつなげた名か」
「そうだ」とベイカー=ベイツはいって、左手を上着のポケットにつっこんだ。

これは川村湊が「ライ麦畑の子供たち―翻訳小説の文体を測定する」という文章の中で引用している翻訳ですが、川村はこの「ハイフンでつなげた名か」の部分が、「これが英語で話されているやりとりであるということを否がおうでも読者に意識させざるをえないのだ」と言っています。
翻訳 vs. 翻訳者 (Naganuma)
2007-03-10 02:12:44
「翻訳者」のvisibilityと「ある文章が翻訳であること」のvisibilityは区別したらいいのに…。だって、翻訳者がvisibleなforeignization(上手な直訳)は読者に受け入れられるかもしれないけど、翻訳そのものがvisibleな(下手な直訳)foeignizationとは別にしたい気がするから。それにしても、「じょうず」とか「ヘタ」とか恐ろしくあいまいな表現で、すみません。
Unknown (フリーたまご)
2007-03-10 18:36:14
 コメントへのお返事ありがとうございました。
 英語への翻訳時のdomesticating傾向について書かれたものも(研究でないものも含め)いくつか読みましたが、解釈エージェント(という言い方しますか?)としての読者の受容の扱いがあまりないと感じたのでした。
読者の受容 (Mizuno)
2007-03-10 20:27:13
受容receptionについては実験的なものは多少あるかもしれませんが、あまりないでしょうね。とりあえずはノーム(翻訳規範)を読者の選好や価値観が体現されている代理指標と考えてもいいと思うのですが。

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