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日本初の同時通訳

2017年06月09日 | 通訳研究

一般に日本における同時通訳は1950年に西山千さんと相馬雪香さんによって行われたということになっている。しかし、大谷敏治・五十嵐新次郎・藤本勝(1947)『通譯・ガイド手引きと心得』(語學出版社)には、すでに1946年に同時通訳が行われたという証言がある。著者の一人、大谷敏治は東京外事専門学校(東京外国語学校(現東京外国語大学)が1944年から一時改称されたもの)の教授であったが、大谷の執筆部分に次のような記述がある。(旧字、旧かなは現代表記に改めた。)



  「国際連盟以来、国際会議の多くなるにつれて、また用いられる公用語が英語とか仏蘭西語であるのに、通訳さるべき言葉は七十幾つの加盟国の言葉全部というのでは、通訳のためにおびただしい時間がかかることになる。そこで新しい通訳技術が発明利用されてきた。それはdictaphoneの応用である。日本でも昭和二十一年三月、米国教育視察団の来朝した時第何回かの総会の席で最初に使われた。そして筆者は、当日、当番の通訳者ではなかったのであるが、担当者の不参で、俄かにその仕事にあたって、大いにあわててそしてそこは心臓なんとかやってのけた―というとすさまじいが、まあお茶をにごした―その経験をお話ししよう。その後用いられたことも聞かないけれど、やがて、各国の代表列席の国際会議など、かならずやこの方法が日本でも採られようから。」(p.16)

この後使用した機器についての説明があり、それに続いて実際の通訳のやりかたを説明する。

  「話し手はやがて開口一番、どんどん話し出す。普通のように途中で切らない。それが標準英語であるところの、Middle-westのspeedyな、intonationの平板な調子で、どんどん語りつづける。通訳者は一方にこれを耳で、じかに聴きながら、その意味を直ちにとって、これを日本語に直して、自分の前のマイクを通じて聴衆にー英語の判らぬ人々へ―送ってゆく。丁度話し手の語り終る時、通訳者もまた通訳し終る。時間はこのために少しも余計にかからない。また語り手の終るたびに日本語の通訳をきかねばならぬという、語り手、通訳者の、間の悪さもなくてすむ。」(p.17)

同時通訳という言葉は使われていないが、これは同時通訳である。「通訳者は話し手の下に席を占め」とあるから、ブースはなかったようだ。「アメリカ教育使節団」は昭和21年3月(第一次)と昭和25年8月(第二次)に来日している。アメリカ側のメンバーは27名、これに協力するために作られた日本側の委員会メンバーは天野貞祐、小宮豊隆など29名であった。「総会」というのはおそらく米日のメンバーの会合であり、同時通訳用機器はアメリカ側がもちこんだのだろう。大谷の文章にはニュルンベルク裁判のことは出てこないが、極東軍事裁判については満州皇帝溥儀のリレー通訳について触れている箇所がある。(なお大谷が同時通訳をしたとされる1946年3月にはまだ極東軍事裁判は始まっていない。)大谷敏治は1939年に東京外国語学校の教授となり、1962年に東京外国語大学を退官している。主に経済英語や貿易論を教えたようだ。この本は国立国会図書館にも所蔵されておらず、CINiiでも出てこない。

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