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木村 幹   慰安婦問題 なぜ冷戦後に火が付いたのか 

2017-02-13 19:24:23 | 政治

3大論争に決着をつける
日韓で骨の刺さった状態を心ならずも、繰り返している。
今では、韓国の信用に大いに疑問が湧いている。
ムービングゴールポストと当ての無い方向性に日本人の大部分が呆れている。
韓国は先ず第一に、国家の信頼を醸成する事が重要であるし、
日韓基本条約を無視する姿勢が、最大の問題である。

当面は合意の履行が行動する第一条件である。

慰安婦問題 なぜ冷戦後に火が付いたのか
日韓最大の懸案を解決するには、一九九〇年代以降の両国関係の変質を理解しなければならない

文木村 幹 (神戸大学教授)
2015.09.09 07:00
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1390

 従軍慰安婦問題が日韓関係における「のどに刺さった骨」になって久しい。とりわけ朴槿恵(パククネ)政権成立以後の韓国政府はこの問題を重要視し、この問題の進展なしに、首脳会談を開催する事すら難しくなっている。
 とはいえ、その事はこの問題が一貫して日韓関係において重要な問題としての位置を占めてきた事を意味しない。一部ではよく知られているように、日韓両国間においてこの問題が大きな問題として取り上げられるようになったのは、一九九〇年代、とりわけ一九九一年八月一四日に、金学順(キムハクスン)が「韓国国内に居住する元慰安婦」として最初にカミングアウトを果たして以後の事である。
 それでは、何故に従軍慰安婦問題は九〇年代になって突如として脚光を浴びる事になったのだろうか。そしてその背景には何があったのか。
 この点を考える上で、最初に押さえておかなければならない事は、元慰安婦の存在そのものが、嘗(かつ)ての韓国において知られていなかった訳ではない、という事である。事実、当時の韓国の新聞や小説、さらには映画等においては、慰安婦と思しき女性たちが登場する事は希ではなかった。とはいえ、その事はこの頃までの韓国人が慰安婦問題に大きな関心を持っていた事を意味していなかった。なぜなら当時の彼らが書いた慰安婦に関わるものは、ほぼ例外なく第二次世界大戦に纏(まつ)わる何らかの事実を描写する際の一つの「背景」として、これに触れたものに過ぎなかったからである。
 このような韓国の慰安婦を巡る状況が変化した直接的なきっかけは、既に述べたように、元慰安婦等のカミングアウトであった。それが大きな影響を及ぼした第一の理由は、これにより人々がそれまで抽象的にしか知られていなかった元慰安婦達の境遇を具体的に知ったからである。当時カミングアウトを果たした元慰安婦達は、ほぼ例外なく、その時点で経済的に困難な状況に置かれており、半世紀近くを経ていまだに苦しみ続ける彼女等の姿は、当時の韓国の人々の深い同情を得た。
 第二に、これにより実際の訴訟が開始された事である。訴訟の被告となった日本政府もまた、この問題に対する公式見解を明らかにする事を余儀なくされ、日韓両国の間では日本政府の見解の妥当性を巡って激しい議論が戦わされる事になった。
 そして第三に、これを契機に、支援組織が急速に整備されていった事である。例えば、九〇年に結成された「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」は、当初はこの問題に関心を持つ女性運動団体の緩やかな連合体に過ぎなかったが、一九九〇年代半ば頃には、この問題に対して絶大な影響力を得るまでに成長する。基盤になったのは先立つ一九八〇年代に展開された民主化運動の中での韓国の市民運動団体、取り分け女性運動団体の成長だった。こうして「元慰安婦の存在を全面に押し出した支援団体が、日本政府に対して、裁判や街頭活動の場で積極的に圧力をかける」という、今日ではお馴染みの図式が成立する事になる。

日本政府の稚拙な対処

 とはいえ、元慰安婦のカミングアウトと同時に、突然、現在と全く同じ状況が作り上げられたのか、と言えばそれもそうではなかった。何故なら、一九九一年に金学順がカミングアウトした時点での韓国政府は、現在とは異なり、日韓両国に横たわる一九四五年以前の過去の出来事に関わる「請求権」――つまり植民地支配下における賠償等を含む金銭的なやりとりに関わる問題――は、一九六五年に締結された日韓基本条約及びその付属協定にて「完全かつ最終的に解決済み」、という立場を取っていたからである。言うまでもなく、この立場は一九六五年以降今日まで、日本政府が取っている立場と同じであるから、この当時の日韓両国政府は、少なくとも法的な賠償に関しては、慰安婦問題に対して同じ立場を取っていたことになる。
 だからこそ、この問題が勃発した当時の韓国政府は、日本政府に対して、事実関係の究明を求める一方で、法的賠償は要求しなかった。
 しかしながら、韓国政府の姿勢もこの後、大きく変わっていった。その切っ掛けの一つは、当時の日本政府の稚拙な対処に求められる。即ち九〇年頃より当時の日本政府は、一貫して日本政府による慰安婦問題への「関与」は存在しない、と繰り返し表明し、結果としてこれが後に誤りである事が明らかになった事により自らの立場をずるずると後退させる事になったからである。
 重要なのは、これにより日本政府が自ら、本来なら日韓基本条約によって全ての賠償問題は解決済みである、と単純に議論できた筈の問題について、新たな論点、即ち慰安婦の動員等の実態、という異なる論点を開いた事、しかもこの論点を慰安婦の「動員」や慰安所の「経営」等の具体的な形ではなく、「関与」という漠然とした形で開いた事だった。
 そして、少なくとも現在の観点から見れば、慰安婦に関わる政府の関与は全く存在しない、という日本政府の主張には無理があった。慰安所制度の設立や募集、更には慰安婦の移送や慰安所の設置、慰安婦の衛生管理から軍事郵便貯金を用いた送金等の多面において、日本政府が慰安婦問題に様々なレベルで「関与」していた事は当時既に知られていた資料からも明らかだったからである。
 そして今日ではよく知られているように、このような日本政府の主張が破綻する大きな切っ掛けとなったのは、一九九二年一月一一日、「朝日新聞」一面での「慰安所 軍関与示す資料」と題するスクープ記事だった。不思議な事に日本政府はこの記事が出る前から、同じ資料の存在を知っていたが、当時の宮沢政権はこれを放置した。その事は当時の彼等が自らの誤りの大きさを認識していなかった事を意味していた。結局、このスクープにより宮沢政権は直ちにこれまでの認識の訂正と、謝罪に追い込まれた。
 加えて決定的であったのは、このスクープとそれによる日本政府の混乱の僅か五日後に日韓首脳会談が予定されていた事であった。当然の事ながら、このスクープを受けて謝罪に追い込まれた日本政府の姿を見て、韓国の慰安婦支援団体の活動は、例を見ないレベルにまで活発化し、マスメディアも首脳会談において韓国政府がこの問題で日本政府を強く追及する事を要求する。
 とはいえ、この段階ではまだ、日本政府とその関係者は事態をそれ程深刻には考えていなかった。何故なら、日本政府同様、韓国政府が、慰安婦問題を含むあらゆる問題は、日韓基本条約及びその付属協定で「完全かつ最終的に解決済み」という姿勢を維持している限り、少なくとも外交的には日本政府が韓国政府等に対する賠償等の支払いに追い込まれる可能性はない筈だったからである。
 だからこそこの一九九二年一月の日韓首脳会談に際し日本側は「ざっくりと謝っておきましょう」という方針で臨む事になった。そして実際、宮沢はこの首脳会談で徹底的に謝った。その回数は当時の毎日新聞に現われているだけでも、一月一四日から一八日までの五日間に合計一三回、一七日の第二次会談では、僅か二三分のうちに八回にも及んでいる。
 だが、このような日本政府の姿勢を、当時の韓国政府は巧みに利用した。朝日新聞のスクープ以前、日韓間の最大の懸案は韓国側の対日赤字拡大問題であり、この問題で日本側の協力を得る事のできなかった韓国政府は、首脳会談を前にして、問題の解決を強く求める韓国世論の圧力に直面していた。このような中、韓国政府は突如として浮上した慰安婦問題を急遽(きゅうきょ)、首脳会談の中心的議題に据え、議論のすり替えを図った。
 そしてこの会談を受けて一九九二年一月二一日、韓国の盧泰愚(ノテウ)政権は遂に日本政府に慰安婦問題の「法的賠償」を求めた。この時こそ、韓国政府がはじめて、一九六五年に締結された日韓基本条約及びその付属協定に定められた「完全かつ最終的に解決済み」という規定には、例外がありうる、という、今日に繋がる新見解を示した瞬間であり、日韓両国政府の日韓基本条約に関わる理解が大きく分かれていった。
 こうして見ると、日韓関係において何故に慰安婦問題が大きな重要性を有しているかも理解できる。即ち慰安婦問題は単にこの問題が戦時或いは植民地支配期における女性の人権に関わる重要な問題であるだけでなく、植民地支配の清算に関わる基本的な法的な枠組みである、日韓基本条約とその付属協定の解釈に対する、日韓両国政府の見解を分ける「最前線」になっているのである。
 周知のように、今日の日韓両国の歴史認識問題、即ち慰安婦問題や世界遺産登録問題を巡って注目を浴びている徴用工問題等の多くは、日韓基本条約と一連の付属協定についての解釈と深く関わっている。
 これら全ての問題について日本政府は、日韓両国間に存在するあらゆる「請求権」に関わる問題は、これらの条約により「完全かつ最終的に解決済み」と解釈しているのに対し、韓国の政府や世論、さらに裁判所はこの「完全かつ最終的に解決済み」に「例外」を認め、更にはその「例外」の範囲を慰安婦のみならず他にも拡大して、現在に至っている。
 但しその事は、韓国政府の従軍慰安婦問題に関わる姿勢がその後も一貫していた事を意味しなかったし、また、それゆえにこそ慰安婦問題は更に複雑なものとなっていった。
 重要だったのは、先の日韓首脳会談が開かれたのと同じ一九九二年、一二月の大統領選挙に勝利した金泳三(キムヨンサム)が、翌九三年に慰安婦問題に対して「物理的補償を要求しない」事を明確にした事だった。つまり、この段階で韓国政府は一旦、九二年一月以前の状態、即ち、日本政府と日韓基本条約とその付属協定に関する理解を共有する立場に戻った。

河野談話で決着しなかった理由


 そしてこのような状況を前提として、一九九三年八月の河野談話が作られる事になる。このような金泳三政権の意思表明を受けた当時の宮沢政権は再び韓国政府が今後も日本政府と日韓基本条約及びその付属協定に関する理解を共有するという前提の下、賠償問題は放置して、歴史的事実のみを確定する事で事態の収拾を図ろうとする事になった。つまり、彼らは先の盧泰愚政権の慰安婦問題で日本側に法的賠償を要求するという方針転換は、政権末期の状況が作り上げた一時的状況に過ぎなかった、と見做(みな)した事になる。
 とはいえ、金泳三政権による再度の路線変更の重要性は当時の日本政府もよく理解していた。そして“だからこそ”彼らはこの千載一遇の機会を生かすべく、大きな「ギャンブル」を打つ事になる。即ち、当時の日本政府は「物理的補償を要求しない」事の見返りとして、慰安婦の強制連行に関わる日本政府の責任を認める事を求める韓国政府の要望に応える為に、それまでの「証言は証拠にならない」という自らの見解を覆してまで、ソウル市内で元慰安婦への聞き取り調査を実施し、それを一つの根拠として慰安婦の強制連行を実質的に認めてゆく事になるのである。
 周知のように、今日議論の対象となっている河野談話はこのような当時の日本政府の「ギャンブル」の結果として作られた。言い換えるなら、九二年一月の日韓首脳会談にて盧泰愚政府の協力を当てにして「ざっくり謝る」事を選択した宮沢政権は、九三年八月には新しく成立した金泳三政権の共助を前提にして、再び「謝罪により事態を収拾する」事を目指した訳である。
 だからこそ、慰安婦問題は本来なら、この河野談話により、少なくとも日韓両国政府の間では一つの決着を見る筈だった。にも拘(かかわ)らず、この問題がこの後も混乱を極める事となったのには、二つの理由が存在した。
 一つはこの後、細川・羽田政権を挟んで九四年に成立した村山政権が、「女性のためのアジア平和国民基金」(通称「アジア女性基金」)により、元慰安婦への実質的補償を目指した事であった。ここで注意しなければならないのは、この基金が韓国側からの要請で作られたものでなかった事である。結論から言うなら、このような日本政府からの追加的な「解決」への取り組みは、既に「解決」していたかも知れないこの問題に「寝た子を起こす」効果を齎(もたら)した。
 二つ目は時を同じくして勃発した、村山政権内部の歴史認識問題を巡る混乱であった。重要だったのは、当時の村山政権が自民党・社会党・さきがけの三党連立政権であり、その中での村山が自民党に次ぐ第二党である社会党の党首に過ぎなかった事である。にも拘らず、アジア諸国との歴史認識問題の解決こそ自らの首相としての最大の責務であると信じる村山は、自らの政権内部における脆弱な政治的基盤を顧みず、この問題に積極的に取り組んでいった。結果として、自らの意向を無視された形となった自民党内部では大きな不満が生まれる事になった。そのため、同政権下では、村山のそれとは異なる自民党内有力者の歴史認識問題に関する発言が相次いだ。そして、このような状況に止めを刺す形になったのが、村山自身による国会での「韓国併合は合法である」旨の発言だった。発言を切っ掛けに韓国内では、「妄言」相次ぐ日本政府への不満が爆発し、金泳三政権もまたこれまでの合意を反故にして、慰安婦問題に関する日本政府への協力を拒否していく事になる。
 その後、慰安婦問題は、二〇〇三年に成立した盧武鉉(ノムヒョン)政権が、朝鮮人原爆被害者問題と、サハリン残留韓国人問題と並ぶ形で、慰安婦問題を日韓基本条約及びその付属協定の「解決」の枠外にあるものとして公式に定めて現在に至っている。このような慰安婦問題を日韓基本条約及びその付属協定の枠外に置く見方は、盧泰愚政権の最初の方針転換から二三年を経た今日においては、最早韓国内では常識化するに至っており、韓国の裁判所もこの理解を前提として多くの判決を出している。
 こうして見ると、結局、慰安婦問題を巡る今日までの展開に大きな影響を与えているのは二つの要素、つまり、日本国内における慰安婦問題をはじめとする歴史認識問題に関わる論争と混乱した対応、そして、それを切っ掛けとする韓国側、とりわけ韓国政府の日韓基本条約及びその付属協定に関わる解釈の変化である、という事がわかる。
 即ち、ここまで繰り広げられて来たのは次のような状況である。まず、日本側において慰安婦問題を巡って議論が行われ、それに対して韓国側の世論が大きく反応する。次いで自らの世論に突き動かされる形で韓国政府が動き出し、問題は日韓二国間の外交問題に発展する。韓国政府は日本政府にこの問題の解決を求め、両国関係は紛糾する。
 このような中、要求を突き付けられた日本政府は率先して解決案の作成に動き出し、一旦は水面下で韓国政府の「協調」の約束を取り付ける。しかしながら、韓国政府はこの約束を維持できず、結果として両国の合意は反故にされる。一九八七年の民主化以後の韓国大統領の任期は一期五年と限られており、政権末期のレイムダック化が運命づけられている事、そして何よりも民族主義的な世論が強い韓国においては、慰安婦問題をはじめとする歴史認識問題において、世論の反対に抗して日本への融和姿勢を維持するのが困難な事がその理由である。
 そしてこの結果、この慰安婦問題を突破口とする形で、両国の日韓基本条約及びその付属協定に関する解釈の溝は拡大し、その影響が他の同様の歴史認識問題へと波及していく事になる。

韓国はなぜ約束を反故にするのか

 とはいえ、このような状況は日本から見れば極めて理不尽に思える。何故なら、状況の変化に応じて約束を反故にする韓国政府の姿勢は不誠実に見えるし、何よりも韓国の世論や政府が、問題解決の為の「ゴールを動かし続ける」状況においては、問題の最終的な解決そのものが不可能に見えるからである。考えてみれば、日韓基本条約とその付属協定の条文そのものこそが日韓両国間の最重要な「約束」であった筈であり、その解釈が韓国側の事情により変わること自体が不可解にも思える。
 ともあれ明らかなのは、このような状況を続けていても、慰安婦問題の解決は容易ではない、という事である。韓国側が「ゴールを動かし続ける」状況は、日本国内における問題解決に向けての熱意を失わせる原因であるのみならず、「韓国はアンフェアな国家である」とする嫌韓感情の基盤の一つにさえなっている。
 それでは慰安婦問題、そしてそれを取り巻く日韓関係は、どうしてこのような状況になってしまったのだろうか。明らかなのはそれが所謂「嫌韓本」が指摘するような「韓国人の特殊な民族性」によるものではない、と言う事だ。既に述べたように、一九六五年から現在までの五〇年間のうち、九〇年代初頭までの最初の二五年間、韓国は日韓基本条約及びその付属協定に関する解釈を維持していたからである。「韓国人の民族性」が九〇年代初頭に突如として変化した、と言う事が不可能である以上、「民族性」による説明が誤りである事は明白である。
 この点を考える上で重要なポイントは二つある。
 一つ目は、条約締結に際して軍事政権期であったにも拘らず巨大な学生デモが行われた事からも明らかなように、一九六五年の締結当初から、韓国の人々が日韓基本条約及びその付属協定に対して強い不満を有していた事である。
 二つ目は、にも拘らず、彼らがこれを甘受せざるを得なかった背景には、当時アジア唯一の経済大国であった日本と、冷戦下の東西対立の最前線に置かれた貧しい分断国家に過ぎなかった韓国の間の越え難い国力差が存在したからである。当時の韓国は経済的にも政治的にも日本の支援を必要としており、だからこそ当時の韓国の人々は、植民地期に関わる「請求権」の問題に対して、「賠償」と言う語の代わりに「経済協力金」と言う言葉を用い、その金額も当初の韓国側の要求額から大きく後退したこの条約を涙を呑んで受け入れざるを得なかった。
 しかしながら、九〇年代に入るとこのような日韓両国の関係は大きく変化した。冷戦の終焉により安全保障上の脅威が大きく減少し、「漢江の奇跡」により急激な経済発展を果たした韓国は九〇年代後半には「先進国クラブ」であるOECD入りも果たしている。そしてその後もアジア通貨危機やリーマンショック等の荒波を経ながらも韓国の経済水準は向上し、来年にはPPPベースで日本の一人当たり国民所得を上回る事さえ予測されている。
 だからこそ韓国の人々は、九〇年代以降、それまで抑えて来た日韓基本条約体制への不満を解放し、その実質的な見直しを求めている。
 そして見落としてはならないのはこのような動きは必ずしも、韓国のみの孤立したものではない事である。第二次世界大戦後、独立を果たした植民地諸国はその後も嘗ての宗主国をはじめとする先進国の力に抑え込まれ、自国内の天然資源さえ自由に使えない状況が続いてきた。しかしながら、九〇年代以降のグローバル化の中で、先進国と途上国の国力差は、経済的のみならず軍事的にさえ縮小する事となっている。
 そしてだからこそ今、世界では嘗ての途上国による、古い先進国中心の世界秩序を変革しようとする試みが相次いでいる。その意味においては、一九世紀末に遅れて植民地獲得競争に参入した最後の帝国主義列強である日本と、嘗てのNIESのフロントランナーであった韓国との関係は、古い先進国と嘗ての途上国との間の最前線であり、慰安婦問題は更にその中の最前線になっている。
 とはいえその事は、この時代変化に応じて、日本が韓国にずるずると妥協すれば良い、という事を意味しない。一九六五年の日韓基本条約が、その締結に至るまでに実に一四年もの月日を費やした事を考えれば、一旦この日韓基本条約とその付属協定に支えられた体制が全面的に崩壊した時、これに代わる体制を直ちに打ち立てる事が困難な事は明らかだ。

日韓基本条約に立ち戻れ

 だからこそ重要なのは、このような状況を如何にして大きな破綻なく、スムーズに乗り切る事ができるのかだろう。戦後処理に関わる問題は日韓の間にのみ存在する訳ではなく、その後には中国をはじめとする多くのアジア諸国が控えている。韓国から始まった慰安婦問題が、その後「親日的」な台湾を含むアジア諸国から更に、オランダを含む西洋諸国まで拡大していった事に代表されるように、一旦問題の処理を誤れば、その影響は甚大である。
 問題は古い条約体制を破棄し、拙速に新しい体制を模索する事では解決しない。韓国側のみならず日本側の日韓関係に関わる認識も流動性を増す今日において、徒(いたずら)に事を急いでも再び外交的約束の崩壊とさらなる失望がもたらされるだけだからだ。
 逆説的に見えるかもしれないが、だからこそ今、大事なのは、現在の日韓基本条約に支えられた体制をもう一度捉え直し、その意味を日韓以外の国際社会をも「交えて」議論していく事である。
 とはいえ、それは現在の日韓両国が行っているように、自らの見解を徒に他国にぶつけ、宣伝戦を展開する事ではない。稚拙な宣伝戦は、結果として、国際社会をうんざりさせ、彼らをして日韓両国間の懸案から距離を取らせる効果しか持たない。
 重要なのは、問題の重要性と大きさを国際社会に訴え、彼らを議論へと誘って行く事である。その為には例えば世界の影響力ある国際法学者――彼らは潜在的な国際裁判の裁判官候補者でもある――を集めて議論する場を提供するのも一案だろう。変化する国際情勢の中、嘗ての宗主国と旧植民地の間で結ばれた条約は、変化する国際社会と同じく変化する人権意識の中で、どのように解釈され、運用されていくべきなのか。
 そして、その中で日本は自らの見解を冷静に述べて行けば良い。慰安婦問題が古い先進国と途上国の関係の最前線である以上、その重要性を理解させる事は簡単な筈、だからである。冷戦下、七〇年代に作られたG7体制が今や中国やインド、そして韓国をも包むG20体制に取って代わられたような大きな国際的秩序の変化の中で、慰安婦問題もまた動いているのである。

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