東京福祉専門学校が変わる〜学校運営者日記

東京福祉専門学校の最新情報をお伝えします。

Hello goodbye(最終回)

2011-12-26 07:00:00 | Weblog
限りなく悲嘆に暮れ、限りなく至福に浸った一年だった…
何かに対するものの見方が、ひとつの出来事を境に、たった一日でがらりと変わってしまうことがある。
それが3月11日14時46分に起こった大震災であることは言うまでもない。思い起こせば今シーズンは「震災に始まり、震災に終わった一年だった」…そう言っても過言でないほど、大震災は我々の記憶に、数多くの教訓を残していった。圧倒的な大地の怒りに触れ、積み上げた価値観がモロくも崩れ去ったあの日…
震災で亡くなった方々へ鎮魂の頭(こうべ)を垂れ、生きた者の証(あかし)として、生きることへ前向きに、そして、純粋にチームという結合体が一丸となっていく瞬間でもあった。結果的に今では仲間と心を通わせることで、光の輝きや、風の感触が、昨年とまるで違ったもののように感じられる…

学生たちの献身的な活躍を、影ながらサポートしていく仲間たち…
震災により泡となって消えた企画に涙する職員に、優しく手を差し伸べていく仲間たち…
思い悩んでいる学生たちや、職員たちを見兼ねて、倒れないように支えていった仲間たち…
初めての試みとなる企画に、必死になって喰らいつく職員や学生を、助けようとする仲間たち…
人間関係で苦しんでいる学生や職員に対し、必死に解決の糸口を見いだそうとする仲間たち…
シーズンという鋭い刃物によって切り取られた魂のひとかけらは、とてつもなく重く、せつなく、そして尊い。
そのひとかけらは、しばらくの間、スタッフの心を彷徨(さまよ)った末、時が経つに連れ、次第にその鮮やかさを失い、やがて圧倒的な時の流れの中に消えてしまうことだろう。
それでも、今年、我々の目の前を通り過ぎた、忘れることが出来ない「物語」というワンシーンは、どこか心の片隅に着かず離れず残っていく。皆の心の中で2011年シーズンという「物語」の財産が蓄積され、そのことが、今後の人生の中できっと役に立つ日が来ると信じたい。

学校責任者に就任して3年あまり…ブログのタイトルにも掲げた「学校が変わる」ということに関して、この東京福祉専門学校も大きな変貌(へんぼう)を遂げた。いや、遂げていると、言ったほうが正しいだろう。
どんな学校に変わったのか?(変わっていくのか?)と問われれば、この3年間、そして、この後も築き上げたい学校とは、こんな学校だとハッキリ言える。それは、人と人が想いを高め、想いを包み込むような学校である。
外は真っ暗で、木枯らしが鋭い唸(うな)り声をあげてる夜に、みんなで体温をわかち合えるような学校、どこまでが自分の温かみで、どこからが他の誰かの温かみなのか、区別できなくなってしまうような学校、どこからが自分の夢で、どこからが他人の夢なのか境目が失われてしまうような学校、そういう学校が、自分にとっての「変わるべき学校」の絶対的な基準になっていると信じている。

人を愛し、人を尊び、人を憂い、人を励まし、人を癒し、人を報い、人を認め、人を讃え、人を喜ばせる。
若くなって、激しい恋をしているみたいな感情の揺れ…そういう奇跡的な邂逅(かいこう)は、日々の中で、そうできるものではない。これからも、人と人が正直に魂をぶつけ合える学校になるべく、自分自身も真摯(しんし)に人に向き合っていきたい。

さて、最後にブログについても少し触れたい。3年あまり続けてきたこのブログも本日をもって終了する。
別に、このブログが終了したところで、社会の趨勢(すうせい)になんら影響が出ることはない。地球は単調な回転を続け、教職員はあくびをしながら学校に出かけ、学生たちはコツコツと勉強を続けていく。寄せては返す果てしない日常の中で、誰も過去のブログのことなど、いつまでも覚えているわけがない…

しかし、他の誰かがどんなに忘れ去ろうと、どんなに世界が変化しようと、この世界には「物語」というかたちでしか、伝えることができない「想い」や「情報」が変わることなくある。そして、活字になった「物語」でしか、表すことのできない「魂の動き」や「震え」もある。そのことを信じてこの3年間、ブログを書き続けてきた。書き続けるという事への大切さを、今では何よりも痛感している。
どれだけ枝葉が揺れようと、根幹の確かさを信じる気持ちが、この続けるということに繋がったと思う。
書くとは自己を見つめ直し、自己を研鑽し、自己の人格形成の一因になっていく壮大な旅路である。このブログを終える事になり、改めてその事に気づける機会をもらった3年間だった。

何回か前のブログにも書いたが…「物語」は風である。風は目には見えない。揺らされるものがあって、初めて風は目に見える。学校で行われる学生たちのかけがえのない「物語」も、卒業生たちが業界で躍動する「物語」も、教職員たちの真摯に学生たちに向き合う「物語」も…本来であれば埋もれてしまう「物語」であった。それが、このブログという媒体が風となり、「物語」として、目に見える形となっていった。
しかし、このブログの役目も今日で終わる…

時が経ったとき、機会があればまた、改めて風をつかまえていきたい。
きっと、その時は、今より風の音色が素敵な響きを奏でていることを願って止まない…

運命をデザインする

2011-12-23 07:00:00 | Weblog
「自分の人生に起こることを『運命だ』と受け身的に捉える人が多いようですが、私はいつも『あなたの運命をデザインしなさい』と言うのです」こう語るのは御年100歳、聖路加国際病院理事長の日野原重明先生である。

未曾有の大震災、大津波、原発事故…日本という国が大きな試練に見舞われた2011年。
そして来る2012年。私たちはこの現実から立ち上がり、新たに運命をデザインしていかなければならない。

ここで、このブログを愛読する皆さんにも宣言するが、2012年、学校も新たな道へ大きく舵をきる。
日野原先生の言葉を借りれば、学校の「運命をデザイン」するという事だろうか…

東京福祉専門学校の学校責任者になって3年あまり。着任初年度は2005年から続いてきた入学者の減少を下げ止めることをミッションに、2009年度、2010年度と2期連続で入学者の増員をすることができた。今年度(※2011年度)も、3月までには、ほぼ全学科定員を満たす目処が見えている。また、6%近くあった退学率も、今では2%〜3%を行き交う率まで減少した。3期連続のV字回復。受験生や、在校生から選ばれる学校として、ひとつのブランドを確立した成果だと感じている。

しかし、これら確立した教育体系を踏まえ、2012年度には新しい学校になるべく新デザインを模索していく。
このブログを閲覧している皆さんも「えっ、上手くいっているのになぜ?」と思われるかもしれない。

学校の経営を成り立たせるためには、2つのマーケットを捉える必要がある。
ひとつに福祉・医療業界の環境変化、もうひとつは入学をしてもらう受験生の環境変化だ。
いくら業界が求める人材の養成をしても、受験生がそれを受け入れることができなければ、学校に学生は入ってくれない。また、受験生に受け入れてもらえる学科(※商品)をつくっても、業界がそれを受け入れてくれなければ、学生たちの就職も困難になる。この2つのバランスをとることが、学校を運営する上でも、最も難しいところである。

世の中というのは我々がそれと気づかぬうちに大胆な変化を遂げていく。そして、環境という風はやがて台風となり、さざ波が高波となるように、ひとつの競争要因は、やがて熾烈な競争を生む力へと変わっていく。世の中は自分たちが考えているほど甘くない。
学生が入学し、卒業し、就職するまで、早い学科で2年、遅い学科で4年かかる。特に4年制の学科に関しては注意する必要がある。なぜかと言えば、4年という環境の流れは尋常ではないほど早いからだ。同じように、高校1年生の皆さんが現存する学科を今は受け入れてくれても、3年後に希望していた学科を受け入れてくれるとは限らない。未来を予見するのは不確かな基盤の上に立つようなモロさがある。まるで淡い光に照らされた、困惑の荒野に置き去りにされるように…

従って、学校責任者は未来を予見して、学校の方向性を決断していく必要がある。
そこに答えは無い。あるのは過去のデーターと現実だけ。未来は現場のリーダーが「感性」を働かせ、組織をデザインしていかなければならない。しかし、学校責任者の感性を働かせて組織を変容しても、スタッフがその感性についていけなければチームは崩壊する。そこで要になるのは各セクションにいるマネージャーたちとなる。
学校責任者のノウハウを熟知した各部署のマネージャーたちが、受験生や、業界について同じような構図を描くことが、その組織を環境に適応させるための重要な原動力になる。つまり、感性を伝えていくのは並々ならぬ時間と能力を要する。動きに隠されたバイオリンの音色を聴き取り、虹の微妙な色合いの配色を見いだし、どんな天才も言葉に出来なかった哲学を読み取る…そのような事と同じように、感性を伝えていくのは実に難解なことだ。その感覚てきなズレを各部署のマネージャーたちと、何回も、何十回も、何百回も同じことを言って、伝え、激論を交わし、意見を聞きながら、互いの感性を統合していく…

この年末、教職員たちは週明けの26日(月)に、大掃除をもって冬休みに入る。
その翌日、マネージャーたちとは2日間の合宿を行なう。丸2日、合宿所に缶詰になって学校責任者の考え、各セクションのマネージャーたちの考え、じっくり、ゆっくり、耳を貸し、意見を言い合い、新しい学校のデザインを考えていく…年明けからどんな学校に変わっていくのか?皆さんも期待していてほしい。

さて、この合宿に参加するマネージャーたちにはお願いがある。
互いの感性を刷り合わせしていくのは、幾分、不明な部分が多い。しかし、「わからない」からといって議論に対し引き下がることを正当化してはいけない。そういう時は誰だって「わからない」のだ。当然、ディベートでは全員が勝者になるわけではない。しかし、正しい答えを導き出す過程では、すべての意見に価値がある。
この合宿に選ばれたことに意義を感じ、ぜひ活発な意見の交流を図っていただきたい…

緊張度が増すと笑みがでる

2011-12-21 07:00:00 | Weblog
皆さんは、緊張度が増して、思わず笑みが“こぼれる”ことはないだろうか?
いやー、学校という職場にいると、厳粛な空気の場が数多くあるため、こんな感慨に及ぶことが多い。
(もちろん真剣に職務をまっとうしているため、実際に笑みがこぼれるわけではないが…)

それにしても、あの緊張度が増してくると、思わず笑みがこぼれてしまうのは、いったいなんなのだろうか?
別にその場を茶化(ちゃか)しているとか、悪ふざけをして笑みがこぼれるているわけではない。また、大笑いとか、高笑いとか、せせら笑いとか、そんな安い笑いでもない。形容すると「なんとなく笑みがこぼれてしまう」、この言い方が一番ふさわしい。風船の空気が膨張して、ある一定程度のところで破裂してしまうように、緊張度が増して、臨界点越えると思わず「ニヤッ」と笑みが出てしまう。(正確には出そうになる…)

このような傾向は子どものころからあった。小学校の全校集会の場で、先生が急に怒りだしたりすると「ニヤッ」と笑みがこぼれたし、運動会のリレーの代表に選抜され、走る順番を待っている時も、顔面蒼白の顔で「ニヤッ」と笑みがこぼれた。もちろん入学式や、卒業式の厳粛な場面でも「ニヤッ」と笑みがこぼれたし、就職活動の緊張する場面でも「ニヤッ」と笑みがこぼれた。きっと緊張度が増した時、「笑みが出る=平静を保つ」ということなのだろう。こんなことは、心理学的な側面でユング博士やフロイト博士が解析していると思うのだが…まぁ、そこまで勉強はしているわけではないのでよくわからない。

しかし、それもこれも、子どもの頃に起こった“トラウマ”が影響していると思う。

…小学校に入る前だろうか?母親の父親、つまり自分にとっては、おじいちゃんが亡くなった。
このおじいちゃん、晩年は痩せこけて、目も悪く、頭も薄かったが、90歳以上も生きた大往生である。
一応、本家の主人が亡くなったということで、お葬式には多くの参列者が故人に別れを告げに来た。
幼心に何の“儀式”かわからなかった初めてのお葬式では、自身もとにかく厳粛な空気を醸し出すよう心掛けていたと思う。父親も、母親も、兄も、おばあちゃんも、叔父も、叔母も、従兄弟も、みんな神妙な顔をしている。さすがに大往生だけあって、列席者に涙を流す人は少なかったが、それでも、皆、眉間にシワを寄せ、難しい顔をしていた。(これは幼い自分も難しい顔をしていなければ…)
しかし、このようなお葬式の緊迫感があるシチュエーションの中で、ある事件が起きた。

ポクポクポクポク、お坊さんの木魚(もくぎょ)を叩く音がこだまする。
ポクポクポクポク、葬式会場に軽快に響き渡る木魚(もくぎょ)の音色。なんとなく心地よい。
(※葬式会場は葬儀場ではなくお祖父ちゃんの家でやりました)

いよいよお経が始まる。「南無妙法蓮華経〜」
「うるせー」       ん?      お坊さんの木魚のリズムが狂う。

首を傾げながら再び…ポクポクポクポク。
「あ〜南無妙法蓮華経〜」           再び「うるせー!」

すごい顔してお坊さんも参列者のほうを振り向く。

幼心に(あーっ。じーちゃんの声だ)という事はわかった。
大人たちは皆、小刻みに震えている。母親を見ると、笑いをこらえているではないか?

「うるせー」、「タケオー(※母親の弟)」、「うるせー」、「タケオー」

実は、当時、お祖父ちゃんの家では九官鳥を飼っていた。
生前、祖父はこの九官鳥に向かって、毎日「うるせー」と言っていたらしい。
それが、この緊迫感ある葬式会場で九官鳥が鳴き狂ったのである。しかも、坊さんがお経を唱えると、それに反応して九官鳥が鳴く。笑いたくても笑えない、状況を飲み込んでいる大人たち。どうしても、その状況に耐えられなくなったのが幼少の自分である。

ハハハハハ。屈託なく葬式会場で自分の高笑いが響き渡る…
その時から、「緊張感ある場=笑い」が脳内にインプットされた。

ところが最近では緊張感が高まって、あまり「ニヤッ」と笑うこともなくなってきている。
もちろん、大人になっているのだがら当然だが、それ以上に緊張感に慣れている自分がいるのだろう。
年明けには大きな教育イベントや、卒業式、入学式もある。やはり、緊張度が増して「ニヤッ」と笑いがこぼれるぐらい、もう一度、初心に戻って物事に取り組んで行きたいと思う…

もし学校責任者がドラッカーを読んだら…

2011-12-19 07:00:00 | Weblog
このブログは東京から遠く離れた北の地、札幌のビジネスホテルで書いている。
明日は打合せを兼ねた姉妹校への訪問で、札幌市と恵庭市を渡り歩く。金曜日の夜から寒冷前線が日本へ南下し、北日本の各地は厳しい冬の寒さに覆われた。そんな北海道は東京からきた人間からすると、ちょうど塩加減がよく効いた冗談のような寒さである。なんと言っても気温差−14℃。腰は痛くなるし、足のつま先も痛いし、目も痛いし、寒風には知覚過敏になった前歯が痛いほどしみる…

さて、そんな出張間際の空港で、時間を持て余して本屋に立ち寄ると「ドラッカー」の本がずらりと並んでいた。
2009年7月に発売された「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら(岩崎夏海著:出版ダイヤモンド社)」という書籍が、推定270万部を突破し、出版不況と呼ばれている書籍販売部門で大ベストセラーとなっている。その影響もあってなのか?最近では猫も杓子(しゃくし)もビジネス本と言えば、ドラッカーの威光を受けた書物も多い。ご多聞に漏れず自身もドラッカーのマネジメント本は愛読している一人であり、仕事においても考え方は十二分(じゅうにぶん)に活用させていただいている。

そんなマネメントの父、哲人ピーター・F・ドラッカーがこんなことを言っている。
「マネージャーとは資源を生産性や、収益性の低いところから、高いところへと動かす人」と定義している。
まぁ、要約するとマネジメントを司る人間とは「結果」を出す人ということだ。そのためのマネジメントスキル(※技術)を指南(しなん)してくれるのがドラッカーの考え方である。

しいて言うならば、学校責任者であれ、担任であれ、就職担当者であれ、入学事務局の人間であれ、学校のどんな仕事にもマネジメントはついて回る。結果を出せず、顧客に迷惑をかけてしまうことや、チームメンバーとの歯車がかみ合わない場合は、1000ピースもあるジグソーパズルの、最後のワンピースが無くなってしまった不具合パズルように、それ相当の何かが欠けているはずだ。結果が出せず、困っているスタッフの皆さん。今一度、ドラッカーのマネジメントスキルを確かめてみようではないか…

まず最初にドラッカーのこんな「問い」を、あなたに投げかけたい。
あなたのミッション(※使命)は何?なぜ、なんのために、あなたは今の自分の仕事をしているの?
そして、あなたの客さんは誰?そのお客さんは、あなたが請け負う仕事に、どんな価値を置いているの?
逃げようがない働く上での根幹となる「問い」と、徹底した顧客思考の考えを促進する「問い」である。

この2つの問いを把握できれば、次にくるのは現行の業務と、2つの問いに対して差異を埋めていく作業だ。
つまり「マーケティング」と「イノベーション」の実行である。マーケティングとは何が問題の本質なのか?その本質をつかむためには、頭と足をつかう=調査・分析。そして、イノベーションとは、その問題を改善すべく自分自身や、チームを変化させていく=変革・革新。

変革を成し遂げていくには、長期的なビジョンで物事を考え、組織の存在意義を構築していく必要がある=組織目的の明確化。創りあがった組織目的をベースにチームの方向性を決め=運営方針、自分たちが何を成し遂げたいのか=目標設定、具体的な役割分担を決定し=組織役割の設定、使える資源の活用をするための綿密な計画を創り上げる=実行計画。
マネジメントはこの黄金律を確立していけば、絶対にうまく行くはずである。うまく行かないのは、一連の考え方を把握していないのか?同じチームのメンバーや、顧客に、大切な何かが伝えきれていない可能性がある。

チームに表れるマネジメントが必要な現象には、業種や業界の違いには関係なく、普遍的な事柄が多い。
学校の運営であれ、担任のクラス運営であれ、コンビニの運営であれ、居酒屋の運営であれ、みんな同じだ。
その普遍的な部分をマネジメントを司る人間が論理化すれば、その論理はどんなチームにも当てはまる。
ただし、その論理を「自分のチームのことだ」と現場のスタッフが論理を解凍できるか?どうかは、そのマネジメントを司る人間の、マネジメントの把握度合いや、把握した上での伝え方による。
チームが機能しないひとつの要因は往々にして、運営者がそのことを理解していない場合が多い。

今年度も年が開ければ残すところ3ヶ月。結果が出ていない人や、チームの士気が高まらないで右往左往しているあなた。今一度、冬休みに少しでも時間を割いて、ドラッカー先生の古典的な名著を読んでみてはいかがだろうか?高校野球の女子マネージャーでさえ、チームが機能しない状況を見兼ねて本屋でドラッカーの本を手にしたのだ。あなたに読めないわけが無い。もしくは、ブームにあやかって「高校野球の女子マネージャーが〜」を読んで見るのもいいかもしれない…

チャレンジ - 私の生きている実感

2011-12-16 07:00:00 | Weblog
12月14日、舞浜にあるホテルサンルート・プラザにて、学園グループの「教育学会」が行われた。
全国に50以上のグループ校を展開している滋慶学園グループは、教職員の育成を目的に、日々の教育成果を「教育研究」という形で発表し、その成果内容を聴くことで気付きの機会を提供している。

この「教育学会」の場で、介護実践科2年生Sさんの「英語スピーチコンテスト(※11月30日ブログ)」表彰が行われた。コンテストは海外提携校オーストラリア・クィーンズランド大学が「開校100周年」を記念して、コンテストの上位入賞者に5週間の同大学への留学費用と、旅費代、ホームスティ代を負担するという豪華な企画だ。ちなみに、このコンテストは今年で2回目の開催となる。
あえて「教育学会」の場でスピーチコンテストの表彰をするのは「国際教育」を大切にしている学園グループの取り組みを、全教職員が認識していく意味合いもある。

さて、今年度のスピーチコンテストは「チャレンジ」というテーマをもとに、各校から選抜された学生たちが、英語によるスピーチをVTRにおさめコンテストに出展した。そのVTRをもとに、学園理事長はじめ厳選なる審査のもと上位入賞者の決定がされる。その中でSさんは見事、総長賞(※5週間の留学)の栄誉を手にすることができた。
表彰の場では、今回、Sさんが受賞内容と同じスピーチ(※もちろん英語で)を披露する場もあり、スピーチ終了時には会場内から割れんばかりの拍手、喝采が巻き起った。自校の学生が姉妹校含めた多くの教職員の前で賞賛を受けるのは、実に感動的で、思わずこちらも目頭が熱くなってくる。

今日のブログでは、総長賞を受賞したSさんの発表原文(※全文)を、日本語で皆さんに読んでいただきたい…

チャレンジ − 私の生きている実感

チャレンジ。これは無限の可能性を感じられる言葉です。

私はチャレンジをしていることが2つあります。
ひとつは現在、目指している「介護福祉士」になることです。
昨年、4月に東京福祉専門学校に入学し、2年間で介護福祉士資格取得の勉強に取り組んでいます。
介護福祉士とは一人で日常生活を送るのが、困難な方への自立支援を基本とする仕事です。この仕事は身体面のサポートのみならず、心理面の支えが重要であることを勉強している中で学びました。
人として相手に尊厳(そんげん)を置き、一人ひとりを心から大切にし、利用者の方々と心で通じ合える介護福祉士になること…それが、私が目指している介護福祉士像です。そのため、現在、学んでいる知識、技術を十分に活かし、利用者の皆さんを全力で支え、また、今までの人生で培(つちか)ってきた、自分なりの「人間力」をフルに発揮できるよう、資格取得に向けて勉強に取り組んでいます。
将来は介護福祉士の経験を十分に積んで、直接ケアのみならずケアマネージャーの試験にも挑戦したいと考えています。その中で、利用者の皆さんに、快適で心地よい生活を提案できるようなプランを練れる支援者を目指したいとも思っています。

さて、ふたつ目のチャレンジは母ひとりで、三人の子ども達を育てている事です。
わたしは、数年前に一人で子ども達を育てていくという厳しい現実にぶち当たりました。
それは、比較的順調と思われる自分の人生において、最大の逆境だったかもしれません。
あたり前にあった、平凡で、平和な日常の幸せが消えていくという恐怖、不安から、すべてに対して無気力になり、辛く苦しい数ヶ月を過ごしました。それでも「何かを始めなければならない!」と思い始める自分の力を少しずつ感じるられるようになっていきました。
そんな生活を送っている際、ふと自分はどのような状況の中でも「人が好きだ」ということに気付きました。また、自分を救ってくれたのは、多くの人達の助けがあったのだと言うことも徐々に理解していったのです。
だからこそ、今度は何らかの形で「誰かの力になりたい」という思いが徐々に募っていきました。そこで選んだのが「介護の道」です。今はこの選択に対し、情熱を注いでいきたいという前向きな確信を信じて、日々邁進(まいしん)しています。

今後、高校、中学、小学生の子どもを持つ私が、仕事をしながら子育てしていくのは大きな「挑戦」です。
そんな中、子ども達も思い通りにならないのが、私の頭を悩ませるところです。しかし、それは「一人で三人の人間を一人前に育て上げなければならない」という気負いから来る悩みなのかもしれません。介護の勉強は子育てにも通じることも多く、少しずつ子どもに対し柔軟になっていく自分に気が付きました。その気付きは「子どもには一人ひとりの思いがある、一人ひとりの人生がある…三人の子どもだって一人の人間だ。母親の思いを押し付けてはならない!」ということです。
子ども達を信じ、一番のよき理解者となり、いずれ「自分らしさ」を見つけていくであろう子ども達の道を、今は応援して行くこと!これもまた母親としての目標です。子ども達は、子ども達なりに、私が目指す介護の仕事について理解し、応援してくれています。チャレンジしている私を見て、子ども達も何かに「挑戦」したいという気持ちを強く持てる、大人になってくれたら幸いです。

私は3月11日に起きた大震災で、大切な家族や、すべてが無になった悲しみ、苦しみ、そして、心が打ちひしがれ、生きる気力を失いつつある人々が大勢いることに胸が痛みます。しかし、そんな中でも、これからの苦しみに立ち向かう人々もいることでしょう…でも、もしかしたら、心を痛めている人々を救えるのは、その心を痛めている人々の心の中にあるのかもしれません。少しずつ自分自身の心の中から「何かを始めなければ!」と感じられるようになった力を、チャレンジへのパワーに変えてもらいたい…今ではそのように願っています。

被災された人々の過酷な状況に比べると、私の「壁」など実に小さなものかもしれません。
それでも、私も今後の仕事と、子育ての両立という自分なりの大きな挑戦に向かってベストを尽くして行きます。
そして、今、日本中で頑張っている人がいることを常に心に留め、自分もさらに頑張っていけると信じています。

私は人生の限りにおいて、挑戦し続けていける人生にしたいと考えています。
なぜなら、何かにチャレンジしている時に「自分のための人生」を生きていると実感できるからです。
そこには、自分の力を信じ、一歩一歩、着実に、目標に近づいている喜びがあります。もしかしたら、時には苦しさを伴うことがあるかもしれません。それでも私には「希望」が苦しみを超えられると信じています。

チャレンジ。それは無限の可能性が広がる、飽くなき「道」へのスタート地点です。 以上

この文面を英語でスピーチした訳だが…語学力もさることながらグイグイと力強い文章に圧倒される。

まぁ、今日はこれ以上、余計なことを書くことはやめよう。
なぜなら、皆さんにも、この力強い文章の余韻に浸っていただきたいと思うからだ。本当に素晴らしい…

ものが無くなる…

2011-12-14 07:00:00 | Weblog
そう言えば、今年の年明けに携帯電話を無くした。早いものであれから一年が経とうとしている。
新年会の席で疑いもなく忽然(こつぜん)と自分の前から携帯電話がなくなった。まぁ、正確に言うと新年会が終わって電車に乗っている時に、携帯電話が無いことに気がついたと言った方が相応(ふさわ)しいのだが…
慌ててお店に電話したが、店員もそっけなく「携帯電話は見あたりません」と言う。しかし、一杯やっていた時に、携帯電話をいじくりまわしていたのは覚えている。記憶を無くすほど、飲んでいるわけでもないし、携帯電話をどこかに落としたという感覚もない。物体がこの世から消え去ることなど信じられないが、あの携帯電話は一体どこにいってしまったのだろうか…
(※ちなみに携帯電話はいまだ出てこない。補償で同じ機種は戻ってきたのだが…)

世の中には、ひどく“もの”を無くしてしまう人がいる。
自身もその一人だ。仕事だとそうでもないが、プライベートではひどいものだ。
その分、“もの”を無くす人に関しては幾分、寛容(かんよう)だし、温かく同情的な面もある。
仮に西部劇の決闘のようなシチュエーションに遭遇したとする。もし、相手が実弾を忘れてきても、たぶん見つかるまで撃つのを待ってあげるかもしれない。ひょっとしたら一緒に実弾を探してあげるかもしれない。それぐらい親切に丁寧にものを無くした人に同情的である。
今の職場でも部下から「書類をどこに置いたのか忘れました」と言われれば、「いいよ、明日で」と言うようにしている。だいたい、このような案件は、一日寝かせれば見つからなかった書類も出てくる可能性は高い。ただし、物怖じして“もの”を無くしたフリをしたり、“もの”が無くなったのに、無くなったことを内緒にしたり、嘘をついている人がいたら厳しく突っ込みを入れる。純粋に、素直に、積極的に“もの”を無くす人には寛容だと言うことだ。

この寛容さは前職が与えてくれた数少ない生きた教訓のひとつである。
学校の教員をする前の出版社時代は、多い時で最大で15本ぐらいの雑誌を手がけていたこともあった。
15本のラインの編集が同時に動くのは容易ではなく、脳みそを縦割りに15本割ったように整理しながら仕事を進めなければならない。だから同時進行で何から何まで覚えていなければならないのは苦痛でしょうがなかった。今から思うと、よく不安神経症にならなかったものだと感心する。

あたりまえの事だが、こんなドタバタ劇を毎日のように繰り返していれば、自ずとミスも発生しやすい。
ある時、この出版社で全国的に有名な団体の機関紙を作成したことがあった。ところが制作時に、この団体の代表の顔写真を無くしてしまう。ハッキリ言って、どこに写真を置いたのかまったく記憶にない。(この当時は写真データなど無く、ポジフィルムでのやり取りだった)
当時、この団体の代表は新聞やニュースでも話題になっている著名人で、顔写真を無くそうものなら、自分の身にどんな処分が下されるのかわからない。夜な夜な眠れない日が続き、2日経ち、3日経ち、一週間経ち、そろそろ印刷屋に写真原稿を入稿しなければならない日が迫ってくる。この団体に「代表の顔写真を無くしました」と連絡することを想像するだけで、胃がキリキリ痛むし、吐き気もする。焦りが高まり嫌な汗もかく。同僚からも「あちゃー、相当な処分が待っているわ」と、まったく責任感がないこと言われる始末。
とうとう写真の入稿日が来てしまい、世紀末の予言よろしく天罰(※処分)が下ることも覚悟して、この団体に電話をいれた。トルルルルル。ガチャ。「あっ、もしもし…ん?」…あれっ、えーつ、目の前に写真があるじゃん。

なんと机上ラックの上に光輝く代表のお顔がみえた。
仕事に余裕がなくなると、目の前にある写真さえ見えなくなることもある。
実は無くしたと思った顔写真もずぅーと、ずぅーと目の前に置いてあったのだ。この時、大げさに言えば少しの悟りを得た。「こういうことは必ず起こることなのだ!」と…かたちある“もの”は、どれだけ努力したところで、いつかふっと消えてなくなってしまう。ところが、ある日、ひょっこりと出てきたりする。だから、他の人が“もの”を無くす行為に対して、いちいち目くじらを立てて怒ったり、イライラしたり、不安に思ってもしょうがない。“もの”が無くなるのは宇宙の真理なのだ。(しかし、すごい言い分だ)

今では、それが“もの”であれ、人であれ、ある時、ふっと無くなってしまっても動じないように心掛けている…

職員からの手紙(6)

2011-12-12 07:00:00 | Weblog
本来なら、ひとくちに職場の同僚と言っても、そのあいだに横たわる溝は暗く深いものがある。
ところが東京福祉専門学校の職員が働くその職場は、実に家庭的であり、牧歌的であり、友好的だ。
そうかと言って職場が放漫(ほうまん)な雰囲気で、緊張感が無いのか?と問われればそんなこともない。
時には上長から厳しい「問い」を発せられることもあるし、仕事を積みあげて行く過程の中で同僚同士の激しいやりとりもある。また、マネジメントを司(つかさど)る各部署の責任者がいい加減なことをしていれば、部下たちから烈火のごとく叱責をされる。まぁ、自分らしさを発揮しつつ、多少なりとも緊張感がある。
働く上では、とても健康的な職場ではなかろうか…

そのような中で、組織として積み上げていく心の交流は、素敵な恋愛と同じで、歳をとってからでも、おりに触れて思い出したくなるようだ。そんな感慨をもって働くと、この職場はとても愛おしく見える。ひとつひとつの教室、ひとつひとつの実習室、学生たちが行き交う廊下や階段が、見慣れない古い街並みの、しかも意味を持った街路を歩くようなものと同じで、行きつ戻りつ、何度、往復しても興趣(きょうしゅ)が尽きることはない。

それもこれも仕事を通して、この職場に認められ、報いられ、讃えられ、求められていくからだと実感する。
この組織に身を置き、働けることは、とても幸せなことであり、自分の人生においても貴重な意味を持つと思う。
そんなセンチメンタルな想いに浸っていると、このブログのことでスタッフのひとりからメールをもらった。

…お疲れ様です。
やはり、ブログ「学校運営者日記」が終わってしまうのは寂しいです。

これまで、どれだけこのブログから得ることがあったのか…メールでは語り尽くせないほどです。
ある時は手帳に名言をメモして、ある時は分校舎にいても学校運営者の想いに触れられる大切さを実感し、ある時は内容では笑いあり、ある時は自問自答ありと、自分にとっても毎回、掲載されることが楽しみのひとつになっていました。

今回も「社会科見学(※12月9日ブログ)」なんて懐かしい話題から、学校教育の影響力、そして、自分たちができることは何か?という事を考える“おち”まで、個人エピソードから学校責任者自身を知る楽しさ、自分の体験に重ねる楽しさ、最後に考えさせられる奥深さ、毎回なんとも惹きつける文章内容で、まだまだ続けてほしいと願う限りです。

この前、講師のF先生に声をかけられて何かと思ったら、「先生、英語スピーチコンテストよかったね、おめでとう」という言葉をかけてもらいました。このブログは講師の先生も愛読していて、密かな?情報共有、共感を生む舞台を作ってくれていたんだなと感激してします。

あと数回でブログが終了し、とても寂しくなります。それでも残りのブログを楽しみにしております。

Tより

このようなメールをもらうと、ふむ〜ん、ブログを終了するのもどうしたものかと頭を悩ませる。
言葉と言葉を文字にしてコミュニケーションをとって行くことは、時に刃物より鋭角的に心を切り刻むこともあれば、時に春の昼下がりの公園のようなポカポカした暖かさで心を包んでいくこともある。
もちろん、今回、頂いたこのメールは後者のような感慨が浮かぶものであり、スタッフからこのようなメールや、手紙をもらった時は、まるで光の粒のようなものが、一斉にこちらに向かって飛んでくるような感動があるものだ。

先週の土曜日にはこのブログの閲覧数が一日で623件(※過去最高は500件)と過去最高の閲覧数を超えた。
職員に見てもらうこともさることながら、見知らぬ場所の、見知らぬ誰かと、このブログを通して心の交流を図ることは、なんとも言い難い思いに駆られる。しいて言うならば、心の中を一陣の爽風が駆け抜けて行くようである。
本当にありがたいことだと感謝の念が絶えない…

工場があった頃の風景

2011-12-09 07:00:00 | Weblog
たまに、小学校の「社会科見学」時に行った「工場」の様子を思い出すことはないだろうか…
今、在学している学生さんたちが「社会科見学」というプログラムで、どんな場所に行ったのかは知らないが(そもそも社会科見学というプログラムはあるのか?)、少なくとも昭和30年代から50年代の東京在住の子どもたちは、この「社会科見学」で必ずと言っていいほど「工場」の見学に行っていた。

小学校5年生だったか?6年生だったか?自身は飲料水のコカコーラ工場の見学に行ったのを覚えている。
当時はペットボトルと言うような高尚(こうしょう)なものも無く、河の流れよりも速いオートメーション化されたベルトコンベアの上を、白い横文字の筆記体で「COCA-COLA」と書かれたぶ厚いビンが流れ渡り、そのビンの中に黒い液体が注入されれいく有り様は、小学校の子どもからすればファンタスティックと言うより他がなかった。
また、当時、菓子メーカーのロッテから指輪の形をしたアメ(なんと言う品名か?忘れたが…)が発売されていたのだが、赤、紫、緑の3色のアメが高速でベルトコンベヤーに流れている中、少しでも欠けているアメがあったらボタンを押し、生産ラインを一時止めてアメを取り外すという単純作業をしている現場に立ち入った事もあった。
何百という数のアメがラップでパッケージングされて、坂道になったローラーの上を転げていく様子は爽快で、驚愕の出来事として鮮明に頭に焼き付いている。

昭和30年代前半、日本は朝鮮戦争が終って経済復興の槌音(つちおと)が高らかに鳴り響いている時代であった。当時の工場は「俺ら頑張っています!」というようなポジティブシンキングな姿勢があったし、CO2排出問題の声など微塵もあがらなかった。まさか、国民も公害や騒音、それによる訴訟、そして「ゴジラVSへドラ」なんて言うヘドロの怪獣がゴジラと対決するなど夢にも思っていなかった時代である。モクモクと黒煙を吹き上げる煙突は経済復興の力強いシンボルとして、国民からコンセンサスを得ていた。だからこそ、社会科見学にいった小学生たちは、オートメーション化された生産ラインを目にすると「わぁ、すげー」と単純に感心しちゃったわけである。

ところが、時は移りバブルで湧く国民を尻目に、円の上昇は昇り龍のごとく高騰する。自ずと工場の生産ラインはより安価な第三国へシフトしていく。その後、日本のバブルがハジけても負けず劣らずドルの凋落(ちょうらく)ぶりも激しく、挙げ句の果てにユーロまで力を失っていくと、天井知らずの円高は、毎日のように最高値を更新し、知らぬ間に大工場が日本から無くなり、中小の工場までその姿を消し去って行った。円の高騰は町工場のおやっさんたちの仕事まで奪い取っていったのだ。

やがて日本の経済を支える産業の構造はサービス業に転換する。切れ目が無いサービス業の仕事は業務系体を複雑にし、コミュニケーションも怪奇にしていった。そうなると単純作業で得られた日々の達成感や、個々の自己肯定感も弱まっていく。当時からいたであろうコミュニケーションに難儀し、社会に適応できない若者たちは社会から溢れ、約200万人のニート・フリーターを産み出していく。つまり、日本からの工場の失脚は、おやっさんたちの仕事を奪い取ったと同時に、コミュニケーションで悩む若者たちの仕事まで奪い取って行ったのだ。
誰にもジャマされず、ひたすら作業に打ち込み収入が得られるその場所を…

映画館で見る安っぽいアクション映画の予告編のような速度で、時代の変化は急激に進む。
その中で、学生たちも学校を卒業すれば、コミュニケーションを主流としたサービス業に就いていく。
例えサービス業が複雑怪奇な仕事になって行こうと、人間関係やコミュニケーションで躓(つまず)く事なく、その仕事で活躍いていける職業人を育てるのが我々の役目。
年も明ければ、卒業学年の卒業式も残すところ後わずかだが、我々が学生たちに仕掛けた教育の成果は卒業後に現れる。そう考えるとまだまだやるべきことは多いと思う…

学校という物語

2011-12-07 07:00:00 | Weblog
ブログを「やめる!」と宣言をしてから数日が経つ。少なからずとも反響はあるものだ。
東京福祉専門学校のスタッフからはもちろん、学生や、講師、姉妹校の職員まで、はたまた外部でサポートしてくれる企業の皆さんにまで「やめるのは勿体(もったい)ないですね」と言われる。
後ろ髪をひかれる思いだが、実にありがたい限りである。

それにしても、筆をとるのも残りわずかだと思うと、どうしても肩に力が入る。
ついついカッコいい文章を書こうとして、何を書いて良いのかわからなくなってしまう。
だから感じたことを書くことにしたら、このブログについての内容になってしまった。
このブログは生活の一部になっていただけに、やはり想いが強いのだろうか…?

さて、ある職員から「こんな文字だらけのブログは珍しいですね」と言われた。
写真もなければ、イラストもないし、可愛い絵文字もなければ、どこかにリンクしているわけでもない。
確かに、このブログの内容は文字だらけである。これが実に考え深いもので、文字という記号の組み合わせで400本以上の「物語」が出来上がってきたのだから面白い。
世の中では、この記号の配列で、何千、何万、いやいや、それこそ無限大の「物語」を紡(つむ)ぎ出している。音符の羅列でひとつの楽曲が出来上がるのと同じように、その紡ぎ出すメロディーはまったく衰えることなく、世に「物語」を送り出してきた。しかも、世界中の隅々でドラマチックな「物語」は絶えることなく紡(つむ)ぎ出されている。そんなことを考え出すと夜な夜な眠れなくなってしまう…

人類がまだ湿っぽい洞窟に住んで、肩を寄せ合いながら細々と生活を営み、堅い木の根をかじったり、やせた野ネズミの肉を火で炙(あぶ)って食べたり、木の幹に静かに潜りこんでいる虫を見つけては、貴重なタンパク源として食(しょく)していた太古の時代から、人々は飽きることなく「物語」を語り続けてきた。たき火のそばで震える身を寄せ合い、長く暗い夜を過ごすとき「物語」の交換は彼らにとって欠かすことの出来ない極上の娯楽であったと思う。

そう考えると、我々は二千年以上も昔から、世界のあらゆる場所で「物語」という炎を絶やすことなく守り続けてきた。その炎の輝きは、いつの時代にあっても、どのような状況にあっても、その光にしか照らし出せない固有の「時代」や、「場所」がある。
燃えたぎる炎を見ると、その「時代」や、その「場所」に抱いていた、水の流れのような哀しみや、息の詰まるような喜びや、痛みを憶える愛情や、あるいは果たされなかった想いのようなものが、どこか深い場所に沈殿し、そして成熟し、ひとつの「物語」として露(あら)わになり、時の流れとともに儚(はかな)く消えていくようである。
その「物語」はまるで「風」のように優しく我々を包み込み、そして、音もなく目の前を通り過ぎていく。

「物語」は風である。風は目には見えない。揺らされるものがあって、初めて風は目に見える。
このブログに書かれている固有の「時代」とは、自身が学校責任者になってから現在までのことであり、固有の「場所」とは東京福祉専門学校そのものである。そして、「風」は躍動する学生たちの姿であり、学生たちの姿に胸を熱くする教員たちの姿である。ささやかな微風も、熾烈な突風も、爽やかな涼風も、心を熱くする熱風も、そこにいる「人」が揺らしている「物語」なのである。

長きに渡り、この「物語」を書けたことに感無量だ。あと8回…何を書こうか今から頭を悩ます…

先生と呼ばれる仕事

2011-12-05 07:00:00 | Weblog
先週末、日本列島を挟むように北上した双子の低気圧は、各地に冷たい雨と季節風を吹き荒らした。
震災があった東北地方では、街路樹が倒れ、河の水が巻き上がり、軒先に置いてある看板を乱暴に揺らした。
学校がある東京は、そこまでひどい季節風に煽(あお)られることは無かったが、低気圧が北上してからは、静寂と塵(ちり)ひとつない青空が街を包み込む。そして、本物の冬が到来した。決して後戻りができない、容赦のない冬が今週から始まる…

さて、本題に入ろう。今日は「先生」という仕事の職業観についての話だ…
世の中には「先生と呼ばれる仕事ほど馬鹿(ばか)はなし」という言葉もあって、「先生」、「先生」と適当に呼んでおけば、それで色々な面倒なことを棚上げしてしまうケースも見受けられる。
確かに職員同士でも、年齢の上の職員や、専門職の職員、職制が上の職員には、ついつい「○○先生」と呼びがちである。なんとなく「先生」と言っていれば、言われたほうも納得するし、言ったほうも納まりが良い。

そもそも、若いうちから「先生」などと呼ばれているとロクな人間にはなれない。
「先生」、「先生」などと呼ばれているうちに、謙虚さを忘れ、ついつい驕(おご)り、高ぶった態度を見せるようになってしまう。そういった態度が他の職種の人から見れば「先生」という仕事は「=常識知らず」と見られやすいのだろう。つまり「常識知らず」の先生の態度が、冒頭の「馬鹿はなし」に繋がっていると思う。
ご近所の旦那さんに「ご職業は何ですか?」と聞かれて、素直に「学校の教員です」と言うと、大抵は「あぁ〜、学校の先生ですか」と、その場がシラッとした空気に包まれる。そのように思われるのもわからないでも無い。

学生時代、引越しのアルバイトをしていた時、その引越し屋の従業員の皆さんがトラックに乗り込む前に書類を見ながら「あちゃーバイト君。今日は学校の先生の引越しだよ」と言ってきたのを思い出す。出発前には意味がよくわからなかったが、現地に赴(おもむ)くと、この従業員さんの言っている意味がよくわかった…

専門のプロに「引越し」を頼むのであれば、それ相当の“暗黙のルール”がある。
例えば引越しが始まる前に本棚の本をダンボールに積めておくとか、茶碗を新聞紙で包んで割れないようにしておくとか、引越し屋さんの休憩時間はお茶とお茶菓子を準備しておくとか、まぁ、そう言う些細なことだ。
裏話になるが、このような事をしておかないと、引越し屋も「運ぶ物」を乱雑に扱う(※20年も昔の話なので、今は違うと思うが…?)。それから、当時のことなので、そんな風習は今は無いのかもしれないのだが、1,000円でも、2,000円でも良いから「志(こころざし)」を用意しておくと、引越し屋も気持ちよく働く。逆にそのような事をしておかないと、タンスに壁が当たってキズがついても「黙っとけ!」みたいな事を従業員の皆さんに言われる。ちなみに一日のバイト代より高い「志」をもらった事もあった。その時はフランス王朝の荷物を扱うより丁重に引越しをしたと思う。

予断はさておき…先生を生業(なりわい)にしている人の家にいくと、案の定と言うのか、やっぱりと言うのか、なるほどと言うのか、荷造りの「に」の字も無いぐらい、まったく何もしていない。
「お願いします」と言う訳でもなく、「ありがとうございます」と言う訳でもない。そうかと言って何か指示をする訳でもないし、その家のご主人さんはムスッとしながら立っているだけ。奥様も「先生」を職業にしているようだったが、この人も「お願いします」でもなければ、「ありがとうございます」でもない。表情を無くして呆然と立ち尽くし、自分の眼鏡を拭くばかり…結局、引越しの時間も、いつもの倍近い時間が掛かって終了した。
夜の帳(とばり)が下りた帰り道のトラックの中で、引越し屋の従業員さん曰(いわ)く「先生家業は常識しらねぇからなぁ〜」と呟いていたのを思い出す…

当時、高校3年生の私からすれば、教室内ではヒエラルキー頂点に君臨していた「先生像」が、この時にモロくも崩れ去り、先生とはまったく「常識を知らない人種」と考えを新たにした。そして、月日が流れ、いざ自分の身に振り返ってみると、いつの間にか「先生」と呼ばれる立場になっている。学生たちから「先生」、「先生」と呼ばれることになると、この時の思いが強いからか?何か鼻につく。

東京福祉専門学校の職員室の中は先生然とした空気は無い。
これは学園の文化なのか?学校責任者の強い意思なのか?よくわからないが昔からそのような風土がある。
さすがに外部から来ていただいている講師や、学校長や副学校長のように、年齢も去ることながら、尊敬に値するキャリアを持っている上司には「先生」と呼ぶ。しかし、担任を含めた常勤職は「先生」とは呼び合わない。職員室内では「先生」と呼ばず、「○○さん」と呼ぶ。また、自分自身のことを「先生はね〜」なんて先生業を振りかざす教員も少ない。理由は簡単で「先生」と呼び合うことや、先生業を振りかざすことで、社会人としてあるべき姿に対し、勘違いをしないためだ。

職業人教育の学校なのだから、社会人として「常識」を知り得るのは、我々の仕事の一部なのかもしれない…