山に越して

日々の生活の記録

鷺草(さぎそう) 16-3

2017-04-18 08:40:10 | 中編小説

  三

  その日、裕二は九時近くになって帰宅した。そして、「ただいま」と言うなり母や父にも会わず玄関から二階に上った。顔や腹を殴られ痛みは残っていたが出血はなかった。ワイシャツは破れていたがズボンは大丈夫だった。二階から、「お母さん、飯は友達と食ってきたから風呂だけ入る。空いたら呼んで」と言って、部屋の戸を閉めた。

『・・・自転車で突っ込んだから相手は怪我をしたのかも知れない。しかし上手く逃げることが出来た。彼奴ら何処の高校だろう、暗かったから俺の顔は見られなかったが、暫くあの道は通らない方が良いかも知れない・・・』

 風呂から出るとそのまま二階に上がった。そして、濡らした手拭いでズボンを丁寧に拭き部屋の中に干した。『・・・上半身も下半身にも痣があるが服を着れば分からないだろう。顎のところが赤く腫れているが下を向いていれば分からない。それにしてもよく逃げることが出来た。どの道を通ったのかさえ覚えていないが、兎に角怪我をしなくて良かった・・・』

 興奮していたのだろう、その夜はなかなか寝付けなかった。寝入ってからも、後を追い掛けられる夢を何度も見た。翌朝起きると身体のあちこちが痛かった。顔が気になり鏡を覗いたがそれ程腫れていなかった。翌日、学校の帰りに橋の方に回ってみた。裕二の自転車は逆さまに川底に沈んでいた。

 

 一週間経ち学校も夏休みに入っていた。

「裕二、電話よ」と、二階から下りてきた裕二に、「田中さんて言う女の子」と言って、母は受話器を渡した。

「私、正美、電話を掛けなければと思っていたけれど、出来なかった・・・」

 正美はそう言ったきり黙ってしまった。

「怪我しなかった?」

 電話の向こうで正美は泣いていた。

「会いたい」

 と、正美はやっと声を発した。裕二は泣いている正美のことを思った。

「俺も・・・」

 裕二は何と言葉を繋いで良いのか分からなかった。それに、何処で会えば良いのか思い付かなかった。受話器を握り締めたまま時間が過ぎていた。

「明日の十時、市立図書館で」

 と、やっとの思いでそれだけ言えた。

「はい」

 と言って、正美は受話器を置いた。

 裕二は電話を待っていた。待ってはいたけれど、茫洋と浮かぶ春先の船倉のような思いのまま正美のことを考えていた。しかし日が経つに連れ忘れようとした。裕二は自分のことだけ考えていて、何故電話を掛けられなかったのか、その理由を慮ることが出来なかった。電話が切れた後やっと分かった。何故正美が泣いていたのか、何故こんなに切ないのか自分の心が分かった。

 

 正美は前日髪型を変えていた。前髪を短く刈り揃え、後ろ髪は肩のところで内側にカールして、ストレートであった頃の少女らしさから少し大人びた感じになっていた。一週間の間考えなくてはならないことが沢山あった。しかし、裕二と同じように何を考えて良いのか分からなかった。電話を掛けなければと思い、受話器を持ち上げ何度かダイヤルを回した。しかし途中で回し切ることが出来なく、不安と動揺と遣る瀬無さが混沌とした一週間が過ぎていった。

 

 市立図書館は朝九時から開館していた。閑静な住宅地の外れにあり、周囲は公園になっていて、緑も多く、朝夕は地域の人達の憩いの場所になっていた。

 正美は一番始めに図書室に入り、窓側の場所に座り、窓外遠く目を遣っていた。何か見ていたのではなく、その向こうにある自分の姿を探していた。『・・・私は電話を掛けながら泣いていた。受話器の向こうに彼が居ると思っただけで涙が零れてきた。これまでの私は、こんな風に心の痛みや高ぶりを感じたことは無かった。毎日、平々凡々として異性に思いを寄せることなどなかった。屹度、これが初恋なのかも知れない・・・私の心は揺れ動いていたのではなく震えていた。しかし、意識は掠れていたのではなく依り鮮明としていた。あの日、彼は必死に私の手を掴み逃げてくれた。あの、強い手の力に触れたその瞬間に私は変わったのかも知れない。ベッドに入ってからも襲われたことは何も考えなかった。私の手を握り締めていた強い手のことだけ考えていた。あの力が、心の中深く入り込み、根を下ろし、そして一週間が過ぎた。もうすぐ来てくれるのだろう、会えることを願っていた・・・これまでの私は男の子に好意を持つことはなかった。どちらかと言えば嫌悪感の方が強かったように思う。家に帰ってくるまで酒を飲み、家に居るときも自分のことしか考えない身勝手な父親。時々会う従兄弟たちとも真剣に話をしたことはなかった。学校にいる男の子たちは、日々の些末なことに明け暮れみんな自分を見失っている。私の目には、屹度異質な存在に映っていたのだろう。でも、本当は知りたかったのかも知れない・・・私自身も自分の殻の中から出ることは無かった。成る可く人と交わらないようにしていた。しかし好んでそうしていた訳ではなく、何処か入り込めないことを感じていた。臆病だったのかも知れない。独りで居ることに慣れ、閉鎖的な生き方しか出来なかった。でも、私は十六歳になった・・・そう青春の始まり・・・その時、彼に出会うことが出来た』

 正美にとっても、始めて自分の生に向かい合う時を迎えていた。これから先、内在化する思いを創り出すことで新しい自分を発見して行くのだろう。何が正しくて、何が間違いなのか、確固とした考えを持つことで、進むべき方向が分かって来るのだろう。

 

 裕二は図書室に入るなり正美の姿が分かった。でも、直ぐ近くに行くことも出来なくて暫くその場に立っていた。しかしひと呼吸置くとゆっくりと歩き始め正美の正面に立った。そして、やっとの思いで声を発した。

「元気だった?」

 裕二の声は震えていた。

 正美は目で頷いただけで何を言って良いのか分からなかった。目を机に落としていたが、やがて裕二の目をしっかりと見つめた。その目から涙が落ち始めていた。裕二もその涙に応えるかのように正美を見つめ返した。裕二は涙が流れてくるのを必死で堪えていた。十六歳の少女と、十七歳の少年が互いの思いを知った瞬間だった。一つの思いが互いの心のなか深く入り込んで行く感覚だった。正美の内面には裕二が、裕二の思いの中には正美が隙間なく瞬時の内に埋め尽くされていた。

 愛すること、人を思うことに年齢は関係ないだろう。しかしその瞬間、精神的にも感性的にも純粋でなくてはならない。純粋であることに依って、全ての年齢を、これまでの過去や生き方を覆い尽くすことが出来る。震撼する心があるからこそ、純粋さがあり、愛する思いを知ることが出来る。誰も彼もが経験することのない思いである。

「電話を待っていた」

 と、外の芝生に座って裕二は言った。

「掛けようと思っていた。でも、出来なかった」

「夏休みになった?」

「うん」

「クラブ、何をしているの?」

「卓球」

「強いんだよね」

「うん」

 お喋りする必要はなく一緒に居るだけで良かった。同じ場所で同じものを見、同じことを考えていた。一つの思いを共有するとき、感性は伝わり確かな強さになる。

「もう直ぐお昼、帰って食事の支度をしなければ・・・中学二年の弟と小学生の妹がいるの・・・三人兄弟の一番上」

「俺、兄貴と二人」

「帰らなくては!」

「来週の今日また会える?・・・午後一時に」

「屹度」

「正美って呼んで良い?」

「裕二って呼んで良い?」

 互いに頷き合っていた。

「行こう正美」

「行こう裕二」

 夏の日差しが照り付けていた。溢れるほどに感情が一杯になっていた。生きることの苦しみも辛さも知らない二人だったが、互いのことを思いやり、厳しさに耐えられることを既に感じていた。正美と裕二にとって、互いの内的世界に、いとも簡単に入り込むことが出来たのは、問うことを己の命題としたからだろう。

 意識的に行動して、内的に自己を形成できるとき青春が始まる。しかし、青春を謳歌して青春と共に滅びる人達がいる。それは自己形成の場とするのではなく、正に自己破綻の場として青春を送る。日常を対象化して考えることを止め、況して、類や個、社会を考えることはない。また、感情や感覚を磨くことは無く今日一日を終える。それで良いと思えばそれで良いのだろう。しかし青春と呼ぶことの出来る時間はほんの一瞬にしかない。その一瞬の間に、濁流が迸るように考え生きなくてはならない。一ヶ月を数年の感覚として生きることも、また、一年を瞬く間に終わったと感じることも出来る。対象を常に眼前に置くことで、そして、問うことで、裕二や正美の人間としての青春も始まることだろう。

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