山に越して

日々の生活の記録

鷺草(さぎそう) 16-5

2017-05-15 08:45:16 | 中編小説

  五

  裕二は正美と別れてから近くの店でパンを買い、公園で食べ終わると再び図書館に戻った。焦燥感を感じていた。今やらなければならないことが沢山あるように思った。背表紙を見つめ、其処に自分自身を置いてみた。何故生きているのか、何故高校生なのか、これから何をするのか、何を求めているのか知りたかった。その日、裕二は夕方まで図書館にいた。何冊かの本を手に取り、ぱらぱらと捲っては文字を追っていた。

  家に帰って風呂に入ると直ぐ二階に上がった。裕二は一人になりたかった。一人でいることで自分自身を見つめようとした。『・・・正美はどんな生き方をしてきたのだろう。確かに自分の考え方を持っている。感じることの出来る感性を持っている。俺に無かったものを既に持っている・・・俺はこれまで真剣に物事を考えたことがなかった。そして、そのことを良いとも悪いとも思わなかった。此処に山下裕二がいる。塵のようなちっぽけな存在が地球の上に乗っている。日本という国の上に乗っている、取るに足りない塵だろう。東京タワーに行ったことがあった。下を見ると自動車がミニカーを走らせているように見えた。人間が、あのちっぽけな箱の中に居ることが信じられなかった・・・何時も近視眼的にしか見ていない。しかし、視点を変えることで別なものが見えてくる筈だ。それに、これまでの俺は相手のことなど考えなかった。相手が何を言いたいのか、何故そう言うのか考えなかった。そんな生き方しかして来なかった・・・俺の価値は一体何だったのだろう。自分にとって、自分の価値など無いものが、人にとって価値などある筈がない。しかし正美は、俺のなかの何かを感じた。一体そんなものが俺の中にあるのか・・・俺は正美を感じることが出来た。でもそれが一体何なのか未だ分からない・・・』

 裕二は図書館で見つけた長編小説を借りてきた。これまで長編小説など読んだことがなかった。十七歳の今まで読書とは無縁の生活を送っていた。題名に惹かれて読み始めることで良いのだろう。一冊、一冊と読破することで、血となり肉となって体内に蓄えられていく。そして、日々の生活と競合しながら逞しくなる。精神生活との出会いがなければ青春の始まりと言える筈がない。裕二にとって新しい日々が始まっていた。

 

 裕二は確実なものとして日々を捉えようとしていた。『・・・正美と会って六日が過ぎていった。俺はこの六日間一歩も外に出ることはなかった。午前中は受験勉強をして、午後からは本を読んでいた。朝が来て、いつの間にか夕方になっているのではなく、時間を捉えることが出来るようになったのかも知れない・・・明日になれば正美に会える。正美との時間を確かなものとして捉えることが出来る。充足している時間、無為な時間、それぞれの中に自分の姿を見なくてはならない。どんな時にも、何故そうしているのか、いられるのか知らなくてはならない・・・主体的に関わることが自分自身を常に捉えていることになる。そして、自分が正しいと思ったことを純粋に感じなくてはならない。そうすることで、山下裕二という自己が見つかるのかも知れない・・・これまでの俺は何処にも存在しなかった・・・何が山下裕二の証明なのだろう・・・十七歳、男、付属谷川高校三年生、山下家四人家族の一人、鏡に映る自分・・・でも、違うのだろう。一体どんな条件がイコール山下裕二なるのか、学校に行っても、家に居ても、俺が山下裕二であることに間違いない。しかしそれは、俺の姿、形を見て皆がそう思うのであって、仮装することで違う人間になる。しかし生きている俺が、俺の日常と、内的な生活が統一されて行くとき俺自身になるのかも知れない。どんなことも一つ一つ思念するように、そして継続的に鍛えなくてはならない・・・明日になれば正美に会える。これまで、こんな時間の過ごし方を知らなかった。充足した一週間だったのかも知れない・・・』

 裕二は一週間の間本を読み続けていた。午後から夜中を過ぎるまで活字を追うことで安らぎを覚えるようになっていた。集中力を高めることで人はまた成長して行く。そして、人間的にも社会的にも変容を見せて行くことだろう。

 

 朝から快晴だった。午前中部屋の片付けをして裕二は出掛けた。「何だかとっても久し振り」

 と、正美から話し出した。

「やっと会えたね」

「受験勉強していた?」

「少しだけ」

「少しだけ?」

「この間図書館で借りた本を読んでいた」

「勉強しないと駄目よ」

「正美、来週映画に行かない?観たいのがある」

「映画の題名分かっているから言わなくても良いよ」

 正美も観たい映画があった。多分、その映画のことを言っていると思った。

「その後、街の方に行こう。正美と書店を歩きたい」

「そして喫茶店に行かない?」

 女の子たちだけで入ったことはあっても、好きな人と入ったことはなかった。

「裕二、お昼まだでしょ?一緒に食べようと思って、おにぎり作ってきた」

「ふうん、正美がね、おにぎりを作ってきたとは・・・」

「あ、馬鹿にしている。上げないから」

「じゃあ公園に行こう」

「上げないから」

  二人は図書館を出て木陰に入った。暑い日だったけれど街中より少しだけ小高いことで木々の間を風が渡っていた。

「本当は昼御飯食べて来たでしょ?」

「少しだけ。暑くて、俺だって食欲は落ちるよ。でも本当に正美が作ったの?」

「裕二と一緒に食べたかった」

 二人は冷たいお茶を飲みながらすっかり食べてしまった。若いと言うことだろう、幾ら食べても足りない年齢だった。

 芝生の上に寝ころんで中空を見ていた。

「吸い込まれてしまいそう。あの遠い空の向こうに何があるのだろう。蒼穹の空間、あの空間の向こうに行ってみたい。真空の宇宙、近くに見える星も本当は永遠の彼方にある。果てしない旅立ち、虚空への旅立ち、裕二連れていって!」

「永遠へ?」

「そう、心のなかも同じなのかも知れない。何時まで経っても行き着くことのない模索の日々、自分の内面への旅を続けて行く。何処に行くのだろう。行き着かないまま壊れてしまうのかも知れない。苦しくて、辛いことが待ち構えているのだと思う。でも、必死で求めて行きたい。生きていくことは喜怒哀楽を越えて内面を直視して行くことだと思う。裕二、私の側にいて叱咤激励して欲しい」

 夏の暑さは二人を避けて通り過ぎていた。

「裕二!お願いがあるの、聞いてくれる?」

「うん」

「裕二に出会うことが出来た七月二十一日、これから先、二人が離れ離れになっても、その日の午後一時、この場所で会うって約束してくれる?」

「うん」

「何時どんなことがあるのか、どんな風になってしまうのか分からない。でも、一つだけ約束があれば耐えることが出来る」

 正美は裕二の目を見ていた。裕二のなかに人として生きることの出来る感性を感じていた。光は陰を作り、陰は光がなければ決して生じることがない。切り離すことの出来ない絆を感じていたのだろう。そして、ひとつの約束は悲しみを遠くに押し遣り、明日を待つことが出来るようになる。

「裕二、何処の大学を受けるの?」

「R大の教育学部」

「そう、私も大学に行きたいな!」

「大学に行く積もりでいたけれど、今はよく分からない」

「何故?」

「目的意識のないまま行っても仕方がないように思う」

「大学は色んな人達が集まってくる。そんな人達の間に入って、始めて自分が見えて来るのじゃないかな?」

「自分の存在や意識が確立していれば良いのかも知れない。でも、大学に行く目的が見えてこない」

「崖の上で色々考えているよりも、飛び込んでから考えても良いと思う」

「崖から飛び降りていることを忘れなければね」

 と、裕二は笑った。

「裕二が大学生で私が高校生か、子供扱いしたら許さないから」

「正美は?」

「多分行けない。経済的にも無理だと思う。でも、機会があったら行ってみたい」

「うん」

「通信もあるし夜学もあるから考えてみる。行こう、裕二」

 二人は書店に寄り喫茶店で時間を過ごした。既に夕暮れだった。「送って行こうか?」

「大丈夫」

「来週、同じところで」

 初々らしさがあった。初々らしさは正美のなかで天性のものだった。歳を取ってからも失われることのない初々しさは、その感性のなかにしかない。若い時から歳を取った姿が想像される人がいる。しかし正美のなかにはその欠片さえ微塵も感じられなかった。

 人を思い、感じることを知った若い二人の精神は依り深い絆へと進化して行く。しかし何れ人を思う試練が試されるときが待っているのだろう。

『小説』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 鷺草(さぎそう) 16-4 | トップ | 鷺草(さぎそう) 16-6 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL