山に越して

日々の生活の記録

鷺草(さぎそう) 16-6

2017-06-05 08:16:43 | 中編小説

  六

  裕二の内面は変容しつつあった。青春時代にとって自我の確立は必要不可欠のことである。自分と言うものを確立することで、人間として確かなものを見出して行く。受験に合格しても失敗しても、しっかりとした意識がなければ結果的に生きることの前提を失う。裕二は自分の中に何があるのか知りたかった。

「裕二」

 母親が階下から声を掛けた。

「何か用?」

「御飯だから下りていらっしゃい」

 今夜も二人だけの夕食だった。

「親父、毎晩遅いね」

「お付き合いがあるから」

「お母さん、俺が大学に行くことどう思っている?」

「行かなくてはならないでしょ。社会で生きて行くには、どうしたって大学ぐらい卒業していないと信用されない。でも、最終的には裕二が決めることだと思う」

 三者面談のことを考えていた。担任は国立のR大学なら大丈夫だと言っていた。裕二のことを信頼していた。

「そうだと思う。でも、行くだけじゃ仕方がない」

「入学して、四年の間に考えれば良いことでしょ?」

「そうかも知れない。でも・・・」

「この間電話をくれた子、裕二のガールフレンド?」

 母親には母親なりの心配があった。受験を前にした親の心配だった。

「何で」

「ちょっと気になったから」

「真面目な子だよ」

 裕二はそれ以上話す気はなかった。子供じゃないし余計な世話だと思っていた。

「そう、安心した」

 裕二は二階に引き上げた。これ以上詮索をされるのが嫌だった。ベッドに横になりこれからのことを考えていた。『・・・大学か・・・教育学部に入って、教師になって、その仕事に打ち込めるのか・・・現在の学校に生徒のことを真剣に受け止め、信頼出来る教師は、どう考えたって一人もいない。俺は信頼されない教師になろうとしている。学校の決まりや、社会的規範に教師も俺達も縛られている。そして、決まりさえ守っていれば互いに干渉することはない。所詮、通過するだけの高校生活だから余計な浪費はしたくないのだろう。生徒は教師を信頼せず、教師も生徒のことなど相手にしない。それが現実である・・・高校生であることの意味など何処にも有りはしない。高校生、高校生、一体高校生って何だろう。頽廃だ。高校時代など頽廃に過ぎない。教師は教科書の受け売りしか出来ない。それなのに何故、教育などと呼ぶのだろう。教え育てるところではなく、生徒の感性や人格を無視することが教育である・・・俺も同じような教育者になろうとしている。しかし一体何を教えられると言うのだ。何も無い俺が何も無いことを教えることは出来るが、生きることの意味を、厳しさを教えることは出来ない。生きる時間は長く続いて行く。これから五十年、六十年と生きて行くのだろう。しかし、その長い人生の中で、一つの思いを、失ってはならない思いを持続出来るのか分からない。生きることは、日常生活を規定する考え方、行動の支えとなるような思惟、思想を持つことなのかも知れない。今までの俺には何かが足りなかった。でも、それが何であるのか朧気ながら分かってきた・・・毎日毎日しゃがみ込んでは蟻を見つめている男がいた。何をしているのかと思い近くに行ってみると、男は蟻に話し掛けていた。話の内容はたわいのないもので、男の顔付きは穏やかで笑みを浮かべていた。蟻の言葉を聞き、動きに合わせて言葉を掛けていたのだろう。蟻と話せる。蝶と話せる。蜻蛉と話せる。そう、自然界の全ての生き物と話が出来るようになる。あの男を構成している思念とは・・・一つ一つのことに集中できるとき自分の内面が見えてくるのだろう。俺は俺のなかを一気に迸る流れを捉えなくてはならない。構成する細胞の一つ一つが確かな時を刻み、溢れるような青春を生きなくてはならない。そうすることで自我が確立される。山下裕二と言う一個の人間になる・・・』

 既に十二時を廻っていた。都道から脇道に入っていることで静かだった。裕二は窓ガラスに映る自分の姿を見ていた。『・・・静かにしていると海鳴りが聞こえてくる。遠く南太平洋から押し寄せる波間に海鳥が群れている。俺はその海に筏を出す。漕ぎ手も舵取りも俺一人で賄う。仮令意味を持つことが無くても、中途で挫折して海の藻屑と消えても良い。肝心なことは、俺は既に沖に出ていることである。そして、蟻や蝶と話すことが出来れば、その他に何も要らないように自分の道を進んで行こう・・・課題を持たなくてはならない。それは、自分自身を律する上で必要である。唯、柔軟な規範でなければ可能性は失われる。凝り固まった思惟思想は、自己を規制、拘束するのみであって何の発展も止揚も齎さない。そして、雁字搦めの生活は、唯、自分自身に干渉するのみで、何れ自家撞着の末、末路を迎える・・・何故、これまで何も考えず生きて来たのだろう。考えることをしなかったのではなく、記憶や暗記をすることだけに時間を費やしてきた。時間を自分のものにすること無く、時間に追われ受験勉強に追われていた。趣味や興味を持つこともなかった。内面が形成されなかったのは、一つのことに集中することのない生活を送って来たからに過ぎない。暇な時間があれば、テレビを見たりゲームを楽しんだりお喋りしていた。自分から物事に関わりを持つことはなかった。何も見える筈がない。物欲は満たされ小遣いは十分にあった。生活感もなければ不安もなく、何もせずエスカレーターに乗って高校生になっていた。俺の発する言葉は、単に右左を選択する意志表示であって意味はない・・・主体的に関わり、生きることによって物事の本質が見えてくるのだろうか。表面だけ見ていたのでは結果的に何も見えていないことと同じである。裏面に何が隠されているのか、感じ取ることが出来ない限り、物事はいつの間にか俺の側を擦り抜けて行くのだろう。しかし捉えることの出来る感性を、果たして、俺のなかに持つことが出来るのだろうか?・・・』

 裕二は明け方まで起きていた。疲れも眠気もなく、階下に下りると外に出て行った。都会を少し離れていることで、玲瓏たる空間に小鳥が囀り空気は新鮮に感じられた。『・・・黎明・・・俺の知らないところで時は移り行く。生きることは瞬きをしている間に終わってしまうのかも知れない。閉ざされた入り口の向こうに何があるのか、何れにしても突き進んで行かなくてはならない。何も為さず、牛馬が生きる為に食むような為体な日常を越えなくてはならない。そうでなければ不平不満ばかりを蓄積して行くのだろう。そんな生き方だけはしたくない・・・存在を規定するもの?・・・・現実の過程の総和が俺である。変わることのない意識の継続こそ求められる・・・俯き加減に冷笑する近藤、がなり立てながら廊下を彷徨く飯島、暑い日も寒い日もトラックを直走る野崎、しかし、彼らの行動は自己を直視するところから始まっている。俺は、彼奴らに嫉妬と羨望を感じていた。俺に無かった情熱を持っていたからだろう。自己の限界に挑み、越えることを目的として、対象とする現実を眼前に置くことで青春を謳歌する。一日一日が確かなものになり燃焼できる日常を持っている。野崎が言っていた。俺に出来ることは何もない。しかし為体な日常を越えることが青春なら、走っている現実のなかに俺がいると・・・確かに、辛くて、苦しくて、踠きながら走り終える。そして、一時の安らぎを得る。走ることに喜びは無く何時でも緊張感を持っている。緊張感を持たなければ走る意味は失われる・・・自分にはこれが出来ると、確固としたものが欲しいのかも知れない。それがなければ自分を依拠出来ない。脆弱かも知れないがそれが俺である・・・野崎は自分の道を走りながら考えているのだろう。確かなものがあるとは思わないが、自分と対峙することを知っている。近藤は何も喋らない。しかし、怜悧な笑みの先に自分の方向を模索している。恐らく受験に失敗することはなく、卒業後は世間を視野の片隅に置きながら正鵠な仕事をして行く。しかし内面では激しい情念が渦巻いている。それは、何れひとつの明確な形となって表出する。彼奴にとって社会など取るに足りないものでしかない・・・飯島・・・個の限界も、人間の器も、周囲が育てるものだと知っている彼奴は満艦飾を誇示する。対象とするのは個でも小集団でもない。右に転ぶか左に転ぶか分からないが、対経済か、政治を視野に納めるような人間になるのだろう・・・俺が知らないところでそれぞれの個性が輝いている。一定期間、一緒に過ごしながら二度と会うことがない奴、半年後には違った人生を歩むことになる・・・車の両輪に乗せられ此処まで来たが、そのまま乗って行く奴、また、新しい出会いを待つ奴、しかし俺は、俺の道を切り開いて行かなくてはならない・・・俺には信頼できる友人がいない。しかし信頼するとは?俺に理解を示すのではなく、俺が相手を理解したいと思うことだろう。何時の日か、ひたむきに生きる人間の価値が認め合えるような奴に出会いたいと思う・・・』

 裕二はゆっくりと丘を登っていった。小さな公園に着くと、街並みを見下ろしながら正美のことを考えていた。

 内的なひとつの思いに気付いたとき視野に映る世界は一変する。今まで何気なく見過ごしていたものに価値を感じるようになる。考えること、感じること、行動することが次から次へと押し寄せてくる。結論を出すことなど出来ないが、問題意識を持つことは、地層が歴史を重ね、積み重なるように堆積して行くことと同じである。感性などと言っても裕二には分からなかった。悲しみも苦しみも寂しさも知ってはいない。叩かれ鍛えられていかない限り感性など生まれて来る筈がない。裕二にとって、一生懸命生きること、そして考えることが求められた。

 未だ十七歳で、青春の始まりは混沌としていた。そして、裕二の青春を一変させる出来事が間近に迫っていることなど思いも依らなかった。

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