アパッチ蹴球団-高校サッカー篇:project“N”- 

しばらく自分のサッカー観や指導を見つめなおしていきたいと思っています。

誰が意味を付けるのか

2017年07月23日 12時33分05秒 | コーチングの謎
サッカーの指導をしていたころ、いつも意識していたのは、「選手自らが意味をつけるべし」ということだった。

このような指導をすると、選手からはもちろん、他の指導者の方からも批判しれることは少なくない。その中でも多いのが「そんなの無理だよ」「子供たちにできる訳ない」「日本人はまず言われないと動かない」「もしかしたら極稀にそんな選手がいるかもしれないけど」「理想を追い求め過ぎ」「それができたら監督いらない」こういった批判や反論だった。もちろん、このような反論や批判があるのは理解できるし、実際、20年以上にわたる自分の指導のうち、半分くらいはむしろこのような批判や反論をする側にあった。「選手は強制しないと動かない」「選手は怒らないとやらない」「選手が自分たちで意味付けしたり、絵を描くなんてできるはずがない(だから監督である自分が絵を書いてそれを選手にやらせる)」「それが日本人だから」「現実見たら」自分が理想とするのと近い指導をされているチームがなかなか勝てないのを真横で見ながら、陰でそんな批判を繰り返していた。

今、振り返ると、陰でそう考えていること自体、そもそも人として違っているような気がするし、実際、本当にダメな指導者だったと思う。強制力を使いながら、選手を枠の中に閉じ込め、その通りに動かして悦にいる。勝てないときは「選手の頑張りが足りなかったからだ」と自分ではなく、選手にダメ出しをする。選手が自らの判断で動き、自分が想定していない動きをしようものなら、むしろ、「勝手にに動くんじゃねぇ」と選手の自主的な判断を勝手にわがままだと決めつけ、選手が意図通りに動いてくれない苛立ちを「チームのことを考えているのか」という言葉で正当化しようとする。当時を振り返って思うのは、その頃の自分は「とにかく勝てばいい」「勝つ為なら何でもいい」「勝つ為にはむしろ選手の自主的な判断なんていらない」「選手が考えるよりも、自分が絵を書いた方が勝てる」「勝つことで自分が評価されたい」そんなことばかりだった。当時の自分は、選手の反抗をわがままだと決めつけ、どんな手を使ってでも、それは出させないようにしなければならない・・そう考えていた。今の自分からその当時の指導を振り返ると、指導者として恥ずかしいし、当時の選手たちに謝りたいとも思う。おそらく当時の選手たちの心の中に残っているものは「監督が怖かった」以外、何もないはず。そんな指導が当時の自分だった。

それでも、「何か違うんではないか」という感じが少しずつ生まれていたのも、また事実だった。それを感じたのは、皮肉にも、都大会に出場して勝ったときだった。勝ったにもかかわらず、ふとした瞬間になんだかチームがすごくバラバラだったのを感じた瞬間があった。ひどく温度差がある、という表現の方が正しいかもしれない。何か得体の知れない違和感のようなものを感じた瞬間があった。もちろん、それまでの自分も、もしかしたら、そういった違和感を感じながらも、ただ気づかないようのしていただけなのかもしれない。ようやく、その頃から戦術書ではなく、そもそも指導とは何なのか、コーチングとは何なのか、高校生を指導するというのはどういう意味を持つのか・・・こういった根本的な疑問を解決する為に、ジャンルに関わらず、様々な本を読むようになった。

その中で、少しずつ、自分の中で生まれたのは「選手の中に何を残すべきなのか」ということだった。高校サッカーを卒業した後に彼らの人生において何か大切なものが残れば、結果として仮に勝てなかったとしても、それは十分正解といえるのではないか。一日一日、少しずつではあるが、その考えが自分の指導の中の軸となっていった。戦術を考える場合、「勝つ」ということを基準にしてそこから逆算する。勝つということをピラミッドの頂点に置き、そこから少しずつ必要なものを落とし込んでいくが、この作業もなかなか苦しいが、今、思うと、答えが見えなくなることはなかった気がする。でも、「選手に何が残るのか」「何を残せるのか」ということを考えていくと、本当に底が見えない苦しさを味わう。「何を残すべきか」の「何」の部分がそもそも確定していないのであれから当然といえば当然なのかもしれないが。もちろん、勝つことを放棄していた訳ではないので、さらに苦しみや悩みは増すことになる。パターンを欲しがる選手からしたら監督から答のない禅問答を問われ続けているように感じたかもしれないが、指導者として、自分自身もまた手探りで、その「何」を探し続けていたと思う。

最終的に辿り着いたのは、「サッカーは人間がプレーするもの」「必要なのはAIではない」「人間としての本質的な部分ではないか」ということだった。監督としては選手達よりも経験があるのでデータも含めてAIみたいなものは提供できるが、それは高校生たちに提供するものの中で一番最初に来るものではない。人間としてどう生きるか、どう生きるべきか、ということをもし選手たちが自分で決めることができれば、彼らの人生の中で高校サッカー部の経験は大きな糧となり、ときには支えとなり、彼らの人生を後押しできるのではないか。そしてそのプロセスを仲間と共有することが出来れば、人生の友としてお互いの存在が残り続けるのではないか。そんな想いは指導の現場を去る最後の日まで自分の中で太い軸であり続けた。

自分の人生の意味なんて誰にもわからない。結局は自分で意味付けをしていくしかない。だとしたら、「意味をつける」という行為を日常的にやっていかなければ永遠にできるようにはならない。ただ、言われたことだけをやることにどれほどの意味があるのか。むしろ、悩みながらでも、自分なりに「意味付け」し続けることの方がよっぽど本質的であり、人間的なのではないか。人間には考える力がある。どんな人にだって、少なくとも、自分で意味付けするだけの能力はある。あとは、それを自分の意思でやるかやらないか。確かに、自分の意思で「意味付け」をすることでなく、自分で物事を解釈すること自体簡単ではないし、責任も伴うこと。でもやっぱり人間にはそれだけの能力がある。それは国籍とか民族なんか関係ない。自分で考え、解釈し、その責任を負う。自分の経験に自分なりに意味付けをする。もちろん、解釈や意味付けは、後から変わったっていい。大切なのは、自分で主体的に、能動的に、自ら動き、自らの意思で解釈し、意味付けをしていくこと。最終的に「これでよかったんだ」と自分なりに納得していくこと。

このことは選手が試合に出ていようが、出ていなかろうが関係ない。自分が監督である以上は全選手に同じように働きかける。自分で意味を付けることを働きかけ続ける。練習でも試合でも。むしろ、常日頃から意味付けを働きかけ続けることによって、大切なときに、自分で納得できる意味付けができる。それはグランドの中であっても外であっても。むしろ、それこそが一番大切なこと。確かに、自分で意味付けせず、誰かの絵に乗っかる方がある意味楽なのかもしれない。誰かに何かに依存することである種の苦しさからは解放されるのかもしれない。ただ、それは同時に大切なことを失う、ということでもある。自分も含めて、人間は本質的な部分から逃げてはいけない。楽な方に逃げたくなるときももちろんあるが、落ち着いたら、敢えて厳しい道を進むべきだと思う。その方が絶対に納得できる。深く納得できるはず。誰かのいう通りに動き続けたら、仮に上手くいっても、心の底から自信を持てるようにはならない。人間は自己中心的だから、反対に失敗すれば、その人のせいにしてしまう。やはり、自分で決めること、自分で意味付けすることか逃げてはいけない。指導でかかわった選手たちは誰かに用意された人生を生きる訳ではない。彼らは彼らの人生を生きる。彼らなりに日々意味付けをしながらこれからも生きていく。

サッカーの指導は卒業したが、指導でかかわった選手達には今までと同じように、これからも自らの意思で自らの人生を意味付けしていってほしい。また同じように、自分自身の人生についても意味付けし続けたい。自分の人生に対して「これでよかったのだ」と納得できるように、日々意味付けし続けたい。
ジャンル:
サッカー
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