満州事変収拾の気運

2016年09月19日 | 歴史を尋ねる
 満州事変の勃発は世界をおどかせたが、日本人をも驚かせた。日本はどうなるかと国民は心配し、政府は懸命にその善後策を講じたが、関東軍の幕僚は既定計画に従って突進した。国際連盟は、ついに日本を侵略国と判定するに至って、日本は断乎として連盟を脱退し、独自路線を選んで満州国の建設へと進んだ。主張を堅持し、世界を相手に屈せざるその姿は、節度がこれに伴ったならば、極めて雄々しきものであった、と重光葵は記す。満州事変は支那側の極端なる排日運動に端を発するもので、国際連盟も外国側も、日本の言い分に、多分の理を認めざるを得なかった。国際連盟が会議を繰り返している間に、立派な満州国の建設が出来上がった。日本が、その行動を満州だけに止めたならば、列国もこれを黙認する、という見込みはないではなかった、と。また、東亜や国際連盟を牛耳っていた英国は、当時なお、日英同盟時代の感情を持っている有力者が少なくなく、支那問題の破綻を防ぎたいと考えは、日本だけではなく英国側にも少なからずあった。英国はリットン委員会調査後、私的であるが、有力なるバーンビー使節団を日本に派遣したり、支那財政の救済のため英国はリースロスを派遣したが、その際にも日本をまず訪問して、日本の協力を取り付けようとした。

 支那は日本の毅然たる態度を見て、驚異の眼を見張った。日本の冒険は、直ちに国家の破産を招くであろうといった列国の予言に対して、日本は益々強大となる底力を示した。革命支那は、この威力ある日本を研究し、見習わなければならぬ、という気持ちになった、と重光氏。その気持ちは、日清戦争後の支那識者の心理に酷似した。このため、支那から多くの留学生や見学者が、続々と日本に渡来し、政治家、外交家の日本渡来も急に増加した。この機運を捉えれば、あるいは、日支の関係は禍を転じて福となし得るかも知れぬ、と重光には思われた。このためには、日本側に忍耐と寛大と統制とが無ければならぬ。特別に、大智の運用が必要であった、と。

外交当局たる外務省は、直ちにこの機運を活かして、満州問題の解決に向かおうとした。そのためには、その基礎を作らねばならない。1、日本は連盟脱退時の方針に則り、満州以外の支那本土に対して何ら野心のないことを示し、米国の重んずる門戸開放策に特別の注意を払う。2、列国が無責任に支那の排日を扇動し、武器または財政上の援助を与え、日支間の争闘を激化するようなことを無いようにする。3、日支両国は攪乱をも目的とする共産党の共同災禍に直面していることを自覚すべき、という方針であった。満州は元来支那にとっては辺境の植民地であって、常に半独立の状態にあり、未だ嘗て支那の完全なる部分ではなかった。この問題は、パリ会議でも、ワシントン会議でも、支那とは何かという形で提起された問題であった。しかし、満州国を支那が直ちに承認することは困難だから、日本側は、その建国の成り行きを見つつ、満州国の承認要請は他日に譲るが、満州国はもともと支那人を主体としたものであるから、この上支那と満州との関係を悪化するような政策は、支那側も差し控え、今後の自然の発展に任せ、時を以て解決するとの案であった。ふーむ、ちょっとムシのいい話か。
 しかし、当時(1933~34)列強は、日本を除外して支那に軍事的借款を与え、武器を供給し、軍事顧問または教官を派遣し、飛行場を建設するなど、反日抗日運動の気勢を煽るところがあったので、日支関係は害され、東亜の平和は攪乱される虞があった。そこで1934年4月、天羽外務省情報部長は日本人記者団との定期会見で、質問に応える形で方針を語ったのが所謂天羽声明と云われるものであった。当局の非公式談話として翌日の新聞に掲載されたが、海外には意識的または無意識的に拡大誤報され、悪意ある宣伝に利用された、と重光。内容は方針2に係るものであったが、支那に権益を持つ欧米列強には、支那に対する欧米の不干渉を要求したもの、モンロー主義の焼き直しだとして非常な反響、特に英米に強い反響を招いた。これによって国民政府内の対日協調派の汪兆銘外交部長などの立場が困難になったとの訴えもあった。外務省内でも、この時期に無用なこととの批判もあり、天羽は広田外相に叱責されたという。広田外相は、英米支には日本の真意を説明し、各国も一応それを諒として事態は収まった。

 1933年9月、内田康哉は老齢を理由に外相を辞職し、後任に広田弘毅が就任した。広田の外交は、前任の「焦土外交」に対して「和協外交」と呼ばれた。広田は二つの原則を斉藤実首相の確認を得てから就任した。一つは外交を外務省主導とすること、、もう一つは、連盟脱退の詔書「いよいよ信を篤くし、大義を宇内に顕揚する」に即して外交をする事であった。軍の独走を排し、国際的信義に基づく外交をするということであった。タイミングが良かったと岡崎氏はいう。その年の5月に塘沽停戦協定が出来て、極東の緊張は緩和した。外務省も白鳥敏夫など革新勢力が生まれて、有田八郎次官などに盾ついて省内に分裂があったのを、白鳥の海外転出、有田の辞職という形で修復したばかりであった、と。広田は次官に重光葵、欧米局長に東郷茂徳を擁した。駐米大使には名大使として米国の信用を得て、病没に際して米国は軍艦でその遺体を日本に護送する異例の措置を取った斉藤博を任命した。
 和協外交は、満州建国と連盟脱退を既成事実としたうえで、その前提で米英支ソとの関係を調整しようということであった。広田入閣後、首相、外相、陸海相、蔵相をメンバーとする五相会議が開かれた。事務方の東郷の記述によれば、満州事変後、対外強硬派が急速に台頭してきて、予算の編成にも困難を来してきたので、国策の円満な調整のためにこの会議が開かれた。そして大筋、蔵相、外相の穏和論が勝ち、軍部の強硬意見はついに成立しなかった、と。

 東郷は、広田の外相就任前から欧米局長であったが、国際連盟脱退時の4月、今後の対米英ソ外交について長文の意見書を草している。その中で、日米関係が悪くなっているのは、未だかつてない。日米戦争の可能性まで言及し、これを解決する策としては、満州国については経済面で機会均等、門戸開放政策を守り、満州国以外の地には何ら領土的政治的野心を持たないことを明らかにすべき、と説いた。その後の日米関係は、ほぼ東郷の考え方に沿って調整された。当時、世界の最大の課題は、大不況後の世界経済をいかに立て直すかであり、米国は世界経済会議の予備会議をワシントンで開くよう主要国に呼びかけた。日本にも、連盟脱退後わずか二週間で招請が来た。やはり日本は無視しえない大国であり、極東の安定勢力であった。政府はこの機会を捉えて石井菊次郎を全権として米国との意思の疎通を図った。就任したばかりのF・ローズベルト大統領は石井との会談において、「満州の事件は時の解決を待つほかなく、自ずから打開の道があるであろう、満州問題はその正しい範囲を越えなければ障碍にならないと述べた。時を待つとは、今すぐ米国の態度をひっこめようもないが、既成事実はすぐに変えようもないことを認めた意味であり、早くも満州事変は日米間で実質的に落着した、と岡崎氏は語る。塘沽協定も成立し、それまで日本の行動を激昂していたグルー米駐日大使も「最近日本の態度には顕著な改善がみられる」と報告していた。
 広田は就任早々、新任の斎藤大使にハル国務長官宛てに個人的メッセージを託し、ハルもそれに応えて、その中で互いに、両国間には友好的解決が根本的に困難な問題はないという点で合意した。その後、斉藤大使がピットマン上院議長とあった時、ピットマンは日本が満州と支那の門戸を開放し、長城以南に進出しなければ米国は満足し、その他の問題にはもはやかれこれ言わないだろうといったという。
 しかし日本はその後の支那事変によって、時間が自ずから問題を解決するとした機会を自ら封じてしまった、と。
 
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