三国軍事同盟の締結 4 日ソ国交調整の失敗

2017年06月13日 | 歴史を尋ねる
 日ソ国交調整は、三国同盟を効果あらしめる最大の条件で、その成否が同盟の効果を左右する重要問題であった。しかし事志と違い、仲介をドイツから断られ、日本は止むなく『日ソ中立条約』なる不徹底な取り決めでお茶を濁さざるを得なくなり、同盟は松岡の希望したもので無くなった。

 1940年(昭和15)9月の四相会議で決定した「日独伊枢軸強化に関する件」別紙第一号は、「日本及び独伊両国はソ連との平和を維持し且つソ連の政策を両者共通の立場に副うよう利導することに協力する」と書かれていた。これはドイツ特使スターマーが着京する前に決めたもので、スターマーは外相リッペントロップの伝言として「ドイツは日ソ親善につき正直なる仲介者たる用意がある」という趣旨を松岡に申入れた。
 日ソ国交調整の方法については、三国同盟締結の際に、なにも的確には決めなかったが、それがアメリカの参戦を防止するための調整である以上、単に日ソ両国の親交関係を樹立するだけに止まるべきでないことは自明であった。最善の策はソ連を三国同盟に加盟させることだが、それには障害があった。それはバルカンにおける独ソ両国の利害の衝突と、中国における共産主義運動と日本の対中国利益との矛盾であった。そこでソ連が同盟加入を承諾しない場合、事前の策として、ソ連が三国同盟の外にあって、アメリカの英独戦争参戦防止について三国と同調することで止む無しとした。スターマーが松岡に約したのは、こういう意味合いであったのだと暗黙の裡に了解された。
 このドイツの申し出が三国同盟締結の導線にはなったが、ドイツは如何なる方法でこれを実現するかとの松岡の問いに対して、スターマーは何ら的確な返答を与えず、ただドイツを信頼してもらいたい、流布されている独ソ不和の風説は、英国の宣伝に過ぎない、ドイツはソ連に日ソ国交調整に同意させる自信を持っているなどを告げた。バルカン問題についても、両国の利害が衝突するようなことはない、と答えた。

 しかしドイツがこんな約束をしたのは、必ずしもペテンではなかった。1940年11月、モロトフ(ソ連外交人民委員)のベルリン訪問の時、ドイツがソ連を三国同盟の外に立った政治的同調者たらんことを呼びかけた試案を提出した。ソ連の同盟参加をリッペントロップがソ連を訪問した際瀬踏みしたが、ソ連にその意思がないことを確かめた結果であった。リッペントロップはこの試案提出と同時に、世界再分割案といわれる勢力圏画策の秘密協定案をモロトフに提示した。モロトフはその場では反対しなかったが、帰国後の正式回答では、難しいいくつかの条件受諾を求めるものであった。一方ドイツは、その時バルカン工作を進め、ソ連の南下に先立ち、バルカン半島に地歩を固めるものであったから、ソ連から回答を得ても、既にこれを容れようとしなかった。ソ連に回答を送る代わりに、ソ連が狙っていたルーマニアに独立保障を与え、ギリシャからイギリスを駆逐する足場を作って、ブルガリアへの進出を図っていた。これ以来、独ソの間は際立って悪化し、日ソ国交調整の斡旋など思いもよらぬこととなった。ドイツがはじめから予期していたかどうか的確な証拠はないが、バルカンに対する積極政策は、三国同盟締結以前から着手されていたことは事実であった。振り返って、日本は同盟成立早々から、ドイツが日ソ国交調整の手を打つのを、いまかいまかと待っていたが、進展する様子が見えないので、ドイツの大島大使に報告を求めたが、もう少し待ってもらいたいとの返事を打電してきただけで要領を得なかった。そこで松岡は現状を打開するため、自ら渡欧して実情を掴み、幾分でも望みがあれば、直接ヒトラーやスターリンと話し合って、問題解決に当たることとした。

 松岡はまずモスクワでスターリン、モロトフと会見し、日ソ不可侵条約案を直接スターリンに手交した。松岡の感触では、ソ連はすぐにでも交渉に入りたい気配だったが、ベルリンからの帰途、スターリンと二人きりで政治的に問題を解決しようではないかと告げて、ベルリンへ出発した。松岡はベルリンに着くや日ソ国交調整についてただすと、ヒトラーからモロトフに一応は話したものの、ソ連からバルカン問題についての困難な条件を提出されて、話は頓挫していた。ドイツは既にソ連侵攻の決定までしていたが、松岡がこの訪問時、極秘の含みで、独ソ戦の可能性をほんのりと打ち明けたに過ぎなかった。松岡はその時の感想を次のように語った。「独ソ関係が同盟締結時のスターマーの誇示と違っている事は、当時ほぼ想像はしていたが、スターリン、モロトフ、ヒトラー、リッペントロップ等と会談して見ると、案の定良くないことを知った。ことにリッペントロップからドイツがソ連に一撃を加えるかも知れないと告げられ、他方、ドイツ外務省が西ヨーロッパ諸国に、反共産主義連盟の結成を呼び掛けていることを知り、独ソ戦が早晩避けられぬと察した。もしそうなったら、同盟は機能不全、日本にとって有害になる。そこで三国同盟を考え直す時機に直面したことを確認した」と。
 かくて松岡はドイツに絶望してモスクワに帰り、スターリンとの政治的交渉で、短時間で中立条約を締結した。『日ソ中立条約』はその条文の示す通り「締結国の一方が、第三国より軍事行動の対象となる場合には、他方締結国は該紛争の全期間中立を守るべし」というだけのもので、ソ連を三国同盟から隔在させ、ソ連にはドイツの西ヨーロッパ・ブロックや日本の東亜共栄ブロックの建設を援助する義務もなければ、妨害してはならないという定めもない。また、この条約でアメリカの参戦を防止する訳にはいかないし、ソ連に赤化宣伝を足踏みさせることも出来ない。この意味で、三国同盟に対する松岡の期待は、ドイツが日ソ国交調整仲介を断ってから、まったく裏切られた。しかし問題はきわめて重大である。松岡は帰朝後間もなく閣議及び政府、統帥部連絡会議の決議に従って、リッペントロップに対しソ連との武力衝突を避けるよう希望するとメッセージを送った。ドイツはもとよりこれに応じない。「もはや独ソ戦は不可避となった。しかし戦争となれば、2,3か月の作戦で終結するから、自分を信用されたい。また今度の戦争で日本の力を借りる必要はない。戦争の結果は必ず日本にも有利になるだろう」と回答があった。それから間もなく、独ソの戦争の火ぶたは切って落とされ、英、米は時を移さずソ連援助を声明し、三国同盟の前提である日独伊ソの連携は、もはや絶望になった。
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