開戦前夜 松岡外相更迭

2017年07月27日 | 歴史を尋ねる
 松岡外相が米国案に関する見解をひろうしたのは、7月10日の大本営政府連絡懇談会であったが、外務省顧問斉藤良衛に検討結果を報告させたあと、外相はきっぱりと明言した。「要するに、アメリカは日本の東亜の指導権を抹殺しようと考えている・・・自分はハル案を受け入れることは出来ない。何とかして話合いをつけたいと思うが、到底成功の見込みなし」と。とくに松岡外相が重視したのは、米国案に付属していたハル国務長官の「オーラルステートメント」であった。その中身は、日米国交の調整に努力する野村大使及びその同僚(アソシエイト)たちの熱意を評価していたが、文中松岡外相を指していることが明らかな日本政府の指導者がいる限り、交渉の成功を期待することは出来ないと記していた。アソシエイトとは、誰のことか、同僚というからには大使館員ではない、多分、岩畔豪雄大佐と井川忠雄理事のことだろうが、二人とも、外相から大使の同僚となるよう委嘱した事実はない。「自分も長い間外交官生活をしたが、これほど奇怪な文書を見たことがない。外相の退陣、言い換えれば内閣改造を要求しているわけで、外交交渉で内政干渉をするなどは重大侮辱である」と斉藤良衛は連絡懇談会で指摘したが、松岡外相も、このような非礼な国際的事例は歴史上にも珍しいことだ、と憤慨した。
 7月12日の連絡懇談会で、松岡外相は「米人は、弱者には横暴の性質あり、このステートメントは、帝国を弱国、属国扱いしている。我輩は、ステートメントを拒否することと、対米交渉はこれ以上継続できないことを提議する」と。しかし、海軍は交渉継続を要望したが、松岡外相は、米国側が今回のような態度を示したからには、日本が如何なる態度をとっても米の態度は変わらないと思う、例えば南に兵力を使用せずというような譲歩でもすればともかく、そうでなければ交渉は困難だ、と指摘した。松岡外相としては、もはや交渉すること自体が日本にとって危険だと見做していた。交渉とは、妥協の別義語だが、相手に妥協の気持ちがない場合は、交渉は戦いの口実と機会を提供する手続きにしか、ならないはずである、と児島襄。
 松岡外相が交渉中止を提案した背景には、交渉の特性に対する考察も含まれ、また米国の外交政策の原則主義に対する理解も内蔵されていた、と。この松岡の冷静な判断は、その後の日米交渉の歩みと照合するとき、的確な洞察であったが、この日の会議は、なおも「既定方針による交渉継続」が議決された。

 近衛首相は15日、天皇に拝謁して、松岡外相との意見相違が解消できないので閣内不統一のために総辞職すると内奏した。16日、松岡外相に辞表提出を求め、さらに閣僚一同の辞表も纏めて、天皇に奉呈した。翌17日、宮中に召集された重臣会議で、全員一致で近衛首相の再出馬を推薦した。大命降下、商工相豊田貞次郎を外相に移したほか、内相、厚相を代え、実質的には松岡外相を放出しただけの第三次近衛内閣が成立したのは、18日だった。

 新外相に海軍大将豊田貞次郎が就任したことは、野村大使にとって、心強さを感ずる事態だった。さっそく意見具申した。独ソ戦は、はじめのころの予想と違って長期戦となる気配が濃厚となった。日本は同盟国とはいえ遠く離れて相互援助は困難であり、しかも支那とは戦い続けている。もし、同盟に誘われてソ連を攻撃すれば、米英両国はすでにソ連を援助する方針を明らかにしている以上、日本は米英ソとも敵対関係になる恐れがある。そうなれば、日本の周囲は皆敵となるわけで、日本の将来は暗澹たるものがある。日独伊三国同盟にしばられず、そして北進も南進もひかえて、米英と妥協して支那事変の解決と自立の道を求めるべきだ、23日野村大使は意見具申電を送った。しかし日本政府はフランス政府との間に、日本軍の南部仏印進駐の交渉が進み、7月21日にはフランス側は日本軍進駐に同意した。日仏両政府ともに、交渉についてはなお発表しなかったが、情報は漏れて、米国各紙は日本の南進を批判し、経済制裁を加えよとの論評を掲げるものが多かった。野村大使は、その日の朝、国務次官サムナー・ウェルズと会見していた。次官は「ハルは交渉継続の基礎がなくなったと考えている」と、言明した。大使は新聞が対日経済制裁を叫んでいることと思い合わせて、おそらく米国は日本資産凍結または重要物資の対日禁輸を考えていると判断した。ふむ、新聞記者の後追いでは大使館の役割を果たしていないか。知人を通して、至急ローズベルト大統領と会見したい、と斡旋を依頼、24日ホワイトハウスでローズベルト大統領と会見した。

 南部仏印進駐は、日本に必要な米や資源を入手するためと、第三国の勢力範囲となって日本の安全が脅かされるのを防ぐためであり、いわば経済および軍事的自衛措置である。日本側に領土獲得の野心は、まったくない。「就いては、米国政府においても、これを諒とせられ、余り極端なる態度に出ざることこそ望ましい」 大統領は野村大使が発音するたびに、うなずいてみせた。大使はさらに日米交渉にも触れ、「大乗的に考えれば自ら解決の途あらん」と、述べた。ローズベルト大統領は、微笑しながら野村大使の言葉を聞き終わったが、しかし、アドミラル(提督)と話しかけ、「日本が南進を続ける以上、太平洋の平和維持は困難になる。わが国が太平洋地域から、錫、ゴムなどの物資を入手することは困難になり、フィリピンをはじめ他の太平洋地域の安全も危険となってくる」 日本が物資不足状態にあることに対しては同情する、といい、まだ国務省とは相談していないがひとつの提案をしたい。「もし日本が仏印より兵を引き、各国にてスイスの如く中立を保証し、各国が公平に自由に物資を入手できるならば、自分は尽力を惜しまず」 つまり仏印を中立化しようという提案だった。この提案では日本の南進は止められないと大使は感じたし、事態は着々と進んでいた。大使は会談要旨を東京に打電してニューヨークに向かった。岩畔豪雄大佐との意見交換であった。
 
 岩畔大佐は、「仏印中立化ねぇ・・・要するに、日本はインドシナ半島から手を引けという訳でしょ、アメリカにも譲歩の気持ちがなければ問題外です、もう、おしまいでしょう」と。大佐の情勢判断によれば、米国はすでに日米交渉を断絶する意思を表明したと見做すべきである。理由は、大統領が国務省当局と相談せずに提案するとことわっているのは、これまで頻りに正式の外交ルートでの交渉を主張してきた経緯に矛盾している。だから、大統領の提案は、一方で外交ルートでの交渉打ち切りを宣言し、他方で太平洋の平和のために努力しているとのジェスチゥアを示すためだ、と解釈すべきだ。それにしても米国は身勝手だと岩畔大佐。
 資源の必要度から云えば、自給自足が出来る米国とそれが不可能な日本とでは、格段の差異がある。日本にとって、米、石油、ゴム、錫など、軍需だけでなく生活必需品の殆どを輸入せねばならず、その対象は米国と東南アジアだ。米国は、日本の南方進出を侵略だといい、支那事変も侵略だといい、満州国も侵略の成果だといい、すべての対外進出を中止して日本列島だけで生活せよというが、それでは日本はどうやって生活の向上をはかれるのか。「これまでの交渉の過程で、米国側にはステーツマンシップはうかがえなかった。支那問題にしても、日本軍が支那から撤退すれば問題が片付くことは、誰にでもわかる。しかし、とにかく四年間も続いた事変である以上、いきなり全面撤退というわけにもいかない。血を流してきた国民に対する説得も必要だし、今後の日本の生存のために必要な経済的発展の可能性も確保しなければならない。その辺の事情については、さっぱり同情が見えない」
 今となっては、岩畔大佐も、日米諒解案が希望的観測にすがった先走り案であったことは納得している。日米諒解案は、日米妥協案あるいは日米譲歩案であるが、結局は日本が生存を求めて米国に接近しようとするものであった。その譲歩案はハル長官と松岡外相に代表される日米両国の政治原則論に挟撃されて委縮したが、どちらかといえば、米国側に日本に対する同情が欠損している。「持てる国・米国には、持たざる国・日本の切羽詰まった事情は理解できなかった」 いかに国力と国際的発言力に差異がある国家関係でも、一方が他方に経済的に依存しているのを承知で、相手の糧道を絶って折衝するのであれば、それは交渉ではなく、降伏要求になる、と嘆息した。

 日本側は南部仏印進駐が米国の対日経済圧迫を招くことは予想していた。豊田外相は7月24日、重要物資の輸出禁止や資産凍結で二億五千万円の損失と報告したが、実際はそれどころではなかった。日本の物資輸入ルートは、ヨーロッパをはじめ、米国、中南米、アジアなど広範囲な地域にわたってはいるが、ほとんどは米英両国の勢力圏に含まれた。ヨーロッパ戦争によってヨーロッパとの貿易は閉止され、中南米からの輸入が途絶状態、米英両国の大規模な買い占めで日本の機会は失われた。米国が資産を凍結すると、直ちに英国、カナダが同調、蘭印も資産凍結のほかに石油協定の停止、まさに糧道の断絶であった。企画院総裁鈴木貞一は、7月29日、大本営政府連絡会議に要望書を提出、民間の重要物資の野ストックは文字通り枯渇状態、現状をもって推移すれば、帝国はとうからず痩衰する、「即ち、帝国はまさに遅疑することなく最後の決心をなすべき竿頭に立てり」と。
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