ちょっと道草 当時の世論と報道

2017年08月05日 | 歴史を尋ねる
 当時の報道・世論がどうであったか、岡崎久彦著「重光・東郷とその時代」で触れているので、ちょっと見ておきたい。戦時中に報道規制が入るのはやむを得ないことであるし、戦後もGHQが報道検閲をしたことは、これもやむを得ないことだろう。しかし、盧溝橋事件当時の報道・世論はどうであったか。

 昭和前期史を通じて、統帥権をふりかざす軍の独走が日本を破滅に導いた、という戦後史観の一つがあるが、それよりもむしろ世論、マスコミの愛国主義的熱狂の方が日本を動かしたほんとうの力だったかも知れない。戦後は反戦を叫んでいた人々も、当時は軍国少年少女だったし、それはたんに軍国主義教育の故でもないだろう。自国の国威高揚に興奮し、支持するのは人間の本性だから、この国民世論の大勢に、統帥権といえども抗し得なかった、と岡崎氏は解説する。そして、統帥権の独立を抑えた例を紹介する。昭和12年暮の段階で、トラウトマン仲介による和平交渉は、日本政府内での強硬派の意見が勝ち、折角進行中の和平の条件を蒋介石がとても呑めない内容まで釣り上げて、さらに回答期限を切った。杉山元陸相以下の陸軍省の考え方の根底にあるのは、占領地に現地政権を樹立して第二の満州国をつくろうということであった。日本軍は中国の諸都市を次々に占領するが、その地方行政は現地の人に委ねざるを得ず、各地に陸軍の庇護の下の政権が生まれていた。そして、早く「蒋介石を相手にせず」を表明してその既成事実の確認が欲しかった。これに対して石原莞爾以来の参謀本部にとって、いちばんの関心事は着々と進んでいるソ連の極東軍事力の増強であり、少しでも早く中国の戦線のほうにけりをつけて対ソ防衛に集中したかった。
 参謀本部の主流は強硬論をよく抑えて、交渉の継続を主張した。結局、統帥権を持つ陸軍の参謀本部と海軍の軍令部の主張を、近衛文麿、広田弘毅が陸軍省側の主張の肩をもって、抑えた。中国側からはディルクセン大使を通じて「もう少し詳しい条件を聞きたい」といってきたが、広田はこれを遷延策で誠意なしと断じ、政府は「爾後国民政府を相手にせず」と声明した。

 事変勃発後、マスコミ、世論は、政府の強硬態度支持、軍部礼賛の一色となった。戦後の史観では、これを言論統制のゆえに帰するものが多い。確かに、明白な軍部批判は許されない状況になっていた。しかし検閲制度は好ましくない記事を禁止することは出来ても、新聞社に対して、軍部のお先棒をかついで国民を扇動することを強制したわけではない。やはり、マスコミの内から自発的に出て来たナショナリズム、拡張主義の国民的熱狂があったことを認めざるを得ない、と。それに加えて近衛の人気は圧倒的であった。ラジオの普及もあり、演説によって大衆に訴えるのは世界的な時流で、近衛は修辞に巧みで、その演説は国民を魅了した。事変勃発後の日比谷公会堂における国民精神総動員大会において、近衛は「正義人道のため、さらに東洋百年の大計のため、彼に一大鉄槌を加うるの必要に迫られるに至った」と演説したが、鉄槌という表現は国民の喝采を受け、のちのちまで繰り返し使われた、と。
 近衛の発想は、軍部さえ云うのを躊躇している時に、景気のいい姿勢を打ち出して政策の主導権を握ろうとする発想だった。国内政治に目を奪われて、世界の動向に目をやる余裕もない、近衛の姿であり、日本の姿だったのだろう。ナショナリズムに燃える日本の民衆の心情に訴えたこともあって、こうして醸成された世論の支持により、閣議の場をはじめあらゆる場で強硬論ばかりが優勢を占める結果になった、と岡崎氏は分析する。先に見た、ハル長官から米国案とオーラルステートメントを受け取った時の日本側のおどろきを見る時、ほんの数年しか経ずに奈落の底に落ちるさまは、誰をも信じがたい思いにとらわれると思う。これが歴史の審判だということか。

 石橋湛山は、昭和11年10月の『東洋経済新報』に「残念ながら今日の新聞は、毎日毎日国交破壊に努力こそして、国際関係を平和に導こうなどという気持ちは寸毫ももたない機関であるかの如く見える。・・・新聞があまりにナショナリステックになりすぎた結果だ。あまりに官僚的外交の機関紙化するに至った。そしてそれが真に国の外交を援けることだと誤解した結果であろう」と論じているし、事変発生後(昭和12年7月24日)の見方も、事変の直接の原因は中国側にあると判断しつつも、その遠因は日本側にあるという指摘を忘れていない。「事態が今日のごとく悪化し、ついに戦争の危機まで生むに至ったのはもちろん支那に大いに責任がある。自己の国力と日本の要求するところを冷静に判断せず、いたずらに抗日侮日に狂奔したことである。しかし、そのように支那国民を抗日侮日に狂わしめた原因の中にわが国が蒔いた種子も存することを反省しなければならない」と。
 石橋の言は、誠に中正なる意見だと岡崎氏。当時の情報からだと、その通りだと思うが、直前にあった蒋介石の“最後の関頭”演説への言及、または引用があってもいい。蒋介石はこの演説は事変解決のための日本に対する最後の忠告でもあった、と秘録には記している。蒋介石はこのように幾度となく日本政府にメッセージを発信しているが、日本政府の反応は歴史書にはほとんど触れられていない。外務省は当然翻訳して、議論はしたと考えられるが、日本政府として無反応で、それほど中国のトップの言を無視していたということだし、報道機関も同様だったのだろう。

 昭和13年2月からの議会の最大課題は国家総動員法であった。事変が拡大につれて、資源、資金の貧弱な日本は、国力を挙げて戦争に振り向ける必要が生じた。国防のために人的物的資源をすべて動員しようというのが国家総動員法であった。問題点はその実施を勅令に由ろうとしたことであった。審議は難航したが、結局は、集会、新聞に対する統制などの条項を削除する修正のうえ法案が通された。そして近衛はこの法律は戦時だけに適用される。ナチスの平時でも適用される授権法と違うと説明した。戦時に指導者に独裁的権力を与える制度は古代ローマの共和制ころからあった。どんな民主主義国でも戦時にはある程度、中央集権、統制経済、戦時機密保護の態勢を執らざるを得ない。要はそれが一時的だという原則さえ守られれば民主主義とさして相反するものではないと岡崎氏は解説する。英国の戦時ドラマも確かにそうであった。戦時と平時を区別する考え方は重要だろう。盧溝橋事件が発生した時は、国家総動員法もなく、戦時、平時と区別するならば、当時はまだ平時に該当する。「明白な軍部批判は許されない状況になっていた。しかし検閲制度は好ましくない記事を禁止することは出来ても、新聞社に対して、軍部のお先棒をかついで国民を扇動することを強制したわけではない」という岡崎氏の解説は首肯できる。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 支那事変(盧溝橋事件)勃発... | トップ | 支那事変 戦況の悪化と和平... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

歴史を尋ねる」カテゴリの最新記事