日支事変 大東亜への野望

2017年08月10日 | 歴史を尋ねる
 1939年2月10日、日本軍の台湾混成旅団と海軍陸戦隊は、第三艦隊と航空機の支援のもとに、突如、海南島の海口付近に上陸した。海南島上陸作戦は、中国侵略の一コマを加えた程度の考えた人が多かったが、本当は日本の南進政策のスタートであり、日本のいう東亜新秩序、ひいては大東亜共栄圏への野望を表すもので、その意味では、太平洋の満州事変といわなくてはならない、これは開戦以来、英、仏、米に対する最大の脅威だ。今後の戦局は必ず急転しよう。狂妄な日本は、民主世界に向けて開戦を決心したのだ、と蒋介石は日記に書く。日本の海南島などアジア・太平洋地域への膨張の合言葉は、武漢占領直後の1938年11月に発表された東亜新秩序声明(第二次近衛声明)であった。当時の日本の世界戦略は、北方を固めて、南進をはかるという図式であらわされる。
 日本とソ連とは中国という獲物を中間において、互いに仮想敵国の間柄にあった。日本が満州を手に入れると、ソ連もすかさず外蒙古に勢力を張り、シベリア開発に力を入れて、日本を圧迫しようとした。日本がナチ・ドイツと防共協定を結んでヨーロッパ側からソ連を牽制すれば、ソ連は中国と不可侵条約を結んで、アジアにおける立場の強化をはかった。ソ連は満州国の境界に対峙する日ソ両軍の国境警備隊の間では、小規模な紛争や張鼓峯事件・ノモンハン事件という本格的な軍事衝突が起こった。しかしソ連は譲歩して共存をはかろうとした。南進に備えてソ連との間を固めておきたかったのが日本なら、ソ連はヨーロッパに備えて、極東のトラブルをひかえておきたかった。
 1939年3月、ヒトラーはチェコを占領、併合した。「ドイツが一発の弾丸を使わず、一滴の血も流さずモノにしたのは、歴史上前例がない。その原因を突き詰めると、昨年ズデーデンを割譲したことが禍患となった。中国が満州を割譲するか、あるいはニセ満州国を承認すれば戦禍を免れることが出来る、と考えた者があったが、この事実を見て目覚めるだろう。私(蒋介石)は、中国の選んだ道に決して誤りはなかったと、いっそう自信を深くする」と。ふーむ、蒋介石のこの心配に配慮した安心できる条約やアクションが取られれば、話し合いの余地はあった、と読み取れる。しかしそれは望めないと、見切ったのだろう。

 ここで問題になるのは、米国の動きであった。米国はドイツのポーランド侵攻直後、中立の立場を宣言したが、その一方で戦火が太平洋に及ぶことを予想、太平洋防衛のためのレインボー計画にひそかに着手、それまで国際的傍観の中で孤軍奮闘していた中国にとって、励ましになるものであった。米国はすでに1938年12月、中国に対して2500万ドルの桐油借款に応じた。この桐油借款は盧溝橋事件以後はじめての借款で、その金額の多少はともかく、米国が単なる道徳的対日非難から、実質的中国援助へと変化し始めたことを示した。日本に対する経済制裁の動きもしだいに目立つようになった。1939年1月、航空機及び部品の対日禁輸、2月対日クレジットの禁止、続いて、ローズベルトが米議会に送った太平洋・グアム島などの防衛及び軍事費拡大計画が議会で承認、日本の海南島上陸(2月10日)を、米国は太平洋に対する脅威と受け取った。「米国議会が毅然として太平洋防衛案を通過させた。これは九か国条約復活の実現であり、われわれが一年半に及ぶ抗戦の犠牲によって獲得した実効である」(2月28日の蒋介石日記)。ローズベルトが桐油借款に正式に許可を与えた5日後、英国はトラック購入(ビルマー雲南間の物資輸送用)のため、中国に50万ポンドの信用供与、同時に中国銀行と交通銀行に対して、別途通貨安定のために500万ポンドを貸し出した。さらに米国は7月日本に対して日米通商航海条約の廃棄を通告した。
 この条約廃棄について、北村稔氏はその著「日中戦争」で次のように解説する。戦争終結を模索する近衛内閣は、1938年11月3日、国民政府との交渉再開の基礎として、日本、満州国、支那による「東亜新秩序建設」の政治声明を発した。ところが米国は日本政府の声明を、九か国条約を基礎にする米国のアジア権益を全面否定するものと認識した。米国の中立政策を一変させ、日中戦争を日米戦争へと発展させた最大の原因が、日本政府が日中戦争終結を目指して掲げた新方針であったのは、歴史の皮肉である、と。日本側では、事態の重大性への認識に温度差があり、外務省は強気であった、と。政府声明発表後の1938年12月25日、有田外相が外国人記者団に対して、日・満・支経済ブロックの結成を述べ、第三国の経済活動は新体制達成のためには制限されると表明した。そして予想される米国の経済政策に対処して、石油などの資源を南方で確保する南進政策が台頭し、1940年夏には「大東亜共栄圏」の構想として結実した。しかし、米国との摩擦を避けようとする人々も数多く存在した。当時の日本経済は、輸入の40%以上を米国に依存し、1939年当初の閣議では、対ソ戦に備える重工業中心の生産力拡大方針が決定されており、この実現には米国からの輸入物資が不可欠であった。それゆえ、対米関係の改善は常に重要政策として位置付けられていた。以上の背景の下に、強気と弱気の交錯した外交政策が展開され、破滅的な日米戦争に突き進んでしまった、と北村氏。

 米国は明らかに太平洋における戦争準備に入った、と蒋介石。「30余億ドルにのぼる軍備拡張費が、米国議会を通過した。これは日本にとって最大の打撃である。もし日本が機を知るならば、侵華政策を改めずにはいられない」(1939.5.25日記) 蒋介石にとって力強い味方が現れたとの思いだろう。この辺から、日中交渉があれば、極めて強気に臨んだだろう。7月2日、米大統領は「国防強化促進法」にサイン、英国を除く東半球地域に対する、40余種の軍事物資の輸出を許可制にする大統領命令を出した。続いて、7月25日、許可適用品目に上質石油とくず鉄の一部を追加した。くず鉄の輸入で日本は大きな打撃を受けた。この時期、日本は第二次近衛内閣が誕生したころである。9月の日本の北部仏印進駐に対して、米国は「中国の侵略と歩調を合わせて、フランスの植民地を侵略するものである」と厳しい非難の言葉を投げた。米国は日本の北部仏印進駐が実行されるのを待って、9月25日、中国に2500万ドルの追加借款(為替援助)を与えることを決定、26日には、輸出許可制を適用するくず鉄を、全等級に拡大、日独伊三国同盟が公表される前日だった。
 米国の対日態度は、日独伊三国同盟の調印によって、いっそうはっきりした。10月2日、米国政府は「米国は、日本の恫喝に一歩も退かないという強い決意を、明白な行動で示すべきである」という基本方針を決定した。さらに米国はパトロールの為に太平洋に出勤した艦隊を、そのままハワイの真珠湾に留める措置を取ると共に、10月8日、国務省は極東にいる米国人に対して、緊急な用件がない限り帰国せよという最初の警告を発した。10月12日、ローズベルト大統領は「脅迫や威嚇に屈して、独裁者たちの示す道を進む気持ちはない。米国は被侵略国を援助する」と表明した。米国の強い対日態度は、日本の威嚇に屈しかけていた英、仏に対しても、日本への譲歩を思いとどませる作用を及ぼした。10月17日、英国のチャーチル首相はビルマルートを再開し、中国に通じる南の動脈は再び血が通い始めた。また、日本の
商工相・小林一三が蘭印で石油安定輸入交渉を行ったが、蘭印当局の強い態度で決裂した。

 

 
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