開戦前夜 日米諒解案の生成 6(岩畔大佐)

2017年07月06日 | 歴史を尋ねる
 出発の数日前、新しく陸軍省軍務課長に就任する佐藤賢了大佐と出会い、岩畔大佐は「ちょっと米国に行ってきます。支那事変をなんとかしたいと思いましてね」と告げた。佐藤は「ハテ、妙なことをいう」と胸中で想った。支那に行くというならともかく。、アメリカにいって支那事変をどうしようというのか。それに岩畔大佐は軍務課長として前年7月決定された国策『世界情勢の推移に伴う時局処理要綱』、9月に締結された日独伊三国同盟の最も熱心な推進者の一人だった。『・・要綱』は日満支を骨幹とし概ねインド以東、豪州、ニュージーランド以北の南洋方面を一環とする自給態勢を確立する」ために、第三国の援蔣行為を絶滅」して支那事変を解決しようとする政策で、その為には「南方武力行使」と対米英戦の覚悟も必要だ、と規定している。日独伊三国同盟が対米英戦に繋がりかねない含意を持つことも明らかで、極めて強硬な対米方針である。こうした対米姿勢の推進役・岩畔大佐が、なにしに米国に行こうとするのか。軍務課長は陸軍省における政策担当の主務者である。その前任の軍務課長に尋ねても、知らない。ということは上司の武藤軍務局長もにも何も告げていないのか。岩畔大佐の赴任は、支那問題に関する補佐という野村大使の要請にもとづくということで、それ以外の仕事はタッチしない姿勢を維持したのかもしれない。しかし岩畔大佐は横浜出帆と同時に「案ずるなかれ、枢軸同盟の方式につき詳細なる訓令を携行しあり」と打電している。必要な主務者に何も語らずに訓令を受けることが出来ず、事実、大佐は陸軍当局の訓令を受けていない。その意味で、岩畔大佐の訪米は、ワシントンの神父工作にもう一つ、不明確な要素を付け加え、岩畔大佐をサンフランシスコで迎えた井川理事の動きは、さらに不明瞭であった、と児島襄。
 井川理事は岩畔大佐を出迎え一応の会談ののち、日本に帰る船に託して近衛首相に手紙を送った。「拝啓、愈々御健勝の段奉賀候。去る十八日夕刻、大統領側近より太平洋平和維持に関する根本原則試案とも申すべきものの送付有、茲に御転送候関、御査収下され候、右は・・・大統領自身、目下南方旅行に藉口して本案検討中の趣に御座候へば・・・」この文書は随分と理解に苦しむ内容に満ちている、と児玉襄。これまで記したように、原則的協定案は井川理事と二人の神父の合作であり、ウォーカー長官ら米国側には、『日本側の提案』の印象で提示されている。ところが、井川理事は、米国側、それも「大統領側近」の提案だと報告している。しかも、大統領が同案を検討するために、わざわざ旅行を口実にホワイトハウスに閉じこもっているといっているが、その事実もなく、ウォーカー長官も二人の神父もその種の空言を語った様子はない、と。

 3月24日、国務省日本課長J・バランタインはニューヨークに到着、二人の神父の工作の背景を聴取した。訪日した際、日米関係が問題になり、松岡外相はほんの一時間だけローズベルト大統領に会うことが出来れば、日米関係を改善して見せるといったこと。その後、井川理事を含む多くの日本側指導者に会ったこと等々。結局27日、バランタイン課長は井川理事に会った。会談は4時間におよび、井川が熱心に述べたのは自己紹介であった。井川は日本のシベリア出兵の際に陸軍顧問を務め、現宮内大臣松平恒雄と親しくなったと述べ、自分は首相を二回務めた若槻礼次郎の従弟だといった。現在は中央金庫理事で、中央金庫は日本最大の金融機関で、日本全人口の55%、農漁業人口の95%が関係していて、いわば私はそれだけの日本人を代表していることになると自己紹介している。バランタイン課長は、井川理事の物語の合間に、原則的協定はどの程度日本の公式諒解を得ているか、こんご具体的に交渉を進める計画であるか探ろうとした。井川理事はそういった質問には直接答えず、逆に米政府側の反応を確かめようとしたが、バランタイン課長が伝統的なアジア政策を述べると、井川は日本大使館を批判する言葉を述べた。そうかと思うと、井川理事は交渉は野村大使とハル長官と直接に行うべきだとも主張した。バランタイン課長の報告書を読んだ国務次官、ホーンベック顧問も興味深かった以上の表現もなく、岩畔大佐到着待ちとなった。

岩畔大佐はニューヨークに到着して二人の神父に会った後、ワシントンに到着した。陸軍武官府は当惑した心境で岩畔大佐を迎えた。岩畔大佐の赴任は、前年12月に内示を承知していた。支那問題に関して野村大使の特別補佐に当たらせるという指示以外に何の連絡もなかった。武官磯田三郎少将は大物過ぎる補佐官に戸惑った。と、3月1日、井川理事が武官府を訪ね、二人の神父を通ずる日米交渉の準備工作の概要を語って、磯田少将に「この件に関し陸相または参謀総長から何かご指示がきていませんか」と質問、磯田少将は無言で首をふった。使命が極秘であろうと、武官府になんの連絡もないとは、心外。また、その種の国際交渉はもともと大使の任務であり、それを補佐するのが武官の仕事だ。若杉公使、海軍兵学校武官にそれとなく井川工作の意向を尋ねても、両者とも反応が消極的、それぞれ警戒すべき旨の指令を受けていることがうかがえた。磯田は岩畔が入ってくると、率直に質問を繰り出した。岩畔大佐は少将の質問に耳を傾けていたが、じつは、と姿勢を正して、「本工作に関しては、近衛首相から話があり、外務省及び海軍の省部はあまり関心を示さなかったが、陸軍大臣は毒でも使い方では薬になる。本工作もやり方によっては為になるかもしれない、之が成否を深く憂慮することなく、とに角やってみたら良いだろう、ということになり、井川、岩畔両名の派米をみるに至った」 だから宜しくお願いします、と岩畔大佐は一礼した。この岩畔大佐の発言は、明らかに事実に相違している。大佐は、日本を出発する前に井川理事とはあっているが、井川から聞いた二人の神父の工作については陸軍省の誰とも話し合わず、陸相東条中将にも報告していない、陸相から激励されるはずもない。なぜ、ウソをつくのか、児島は思いを巡らす。
 岩畔大佐については、やり手、無私の人、信念の人、智謀の人などの人物評が多い。強引な謀略家という評言もあり、近衛首相の秘書牛場友彦は、一見してただ者でない、一種異様な迫力を受けたのを覚えていると回想しているとか。
 ワシントンに大佐を迎えたばかりの磯田少将にとって、岩畔大佐の脳中は推し量るべくもなく、陸軍首脳部と接触が深い軍事課長であっただけに、疑う根拠は何もなかった。宿舎に向かう岩畔を送り出すと、大使館の若杉公使に電話して、出来るだけ早い機会に大使、公使、参事官、陸軍武官と岩畔大佐との会合を呼びかけた。4月1日、大使館に出頭したが、挨拶だけで格別の話もなかった。3日夜も囲む会を催したが内地情報が話題の中心で、神父工作には触れなかった。4月6日、岩畔大佐は野村大使を訪ね、一束のタイプした文書を手渡しながら、神父工作を正式交渉に移すべき、と強調した。大佐は、サンフランシスコからの汽車中で井川理事とドラウト神父が合作した「日米原則的協定案」を検討し、4月2日から連日、ワシントンで協議し修正した。持参した文書は「原則的協定案」とその岩畔修正案であった。大使は経過説明よりも原案をどのように修正、その意味と異議を質問した。
 
 「米国は大戦参加の気構えを強めている。いや、実質的にはすでに参戦している」この大佐の指摘は正しい、ローズベルト大統領は、武器貸与法の成立にともない、3月15日、ナチスドイツとその追随者たちの独裁諸国を崩壊させるため、米国民は一致して努力と犠牲を払うべきだ、と演説したが、3月中旬の動きは、陸海兵員の増員、陸軍機月産二万一千機の目標設定、艦隊建造費34億4千万ドルの計上、海軍兵学校生徒の繰り上げ卒業など、まさに戦時体制そのものであった。岩畔はこのままでは必ずや米国はヨーロッパ戦争に参加し、さらに日米戦争も必至であろうが、ただ、米国としてもヨーロッパと太平洋の二正面戦争は避けたいに違いない。「その意味で、日米関係の調整は現在がチャンスだと言える。ただし、それには両国間の懸案を一挙に、かつ全面的、劇的に解決するものでなければ不可能だ」
 日米間の懸案、言い換えれば日米関係を危険にさせている根本問題は、日独伊三国同盟、支那事変、日本の南進、米国の対日禁輸の四つである。この四つを一気に解決してしまえば良い。岩畔大佐は、テーブルの上に置いた文章をめくりながら、原則的協定案は一種の平和条約案の形式にとられ、抽象的になりすぎているので、もっと具体的に双方の利益に合致させるよう修正してみた、と述べた。具体的には、
 1、極東モンロー主義の宣言はやめ、その代わり日本は行動の平和性を守り、米国も日本が必要な天然資源を入手することを援助する。
 2、蔣介石政権が日本側の和平提案を拒否し続けているのは、米英が蔣政権を援助しているからだが、事変は今や日支両国を疲れさせようとする共産主義の謀略に利用されつつある。支那事変の解決に日本側も最大限の譲歩を用意することを前提に、米国は満州国の承認と和平交渉を蔣介石政権に斡旋し、それが拒否されれば対支援助を打ち切る。
 3、日本側の譲歩として、日本軍の二年以内の撤兵、北部仏印からの撤兵。

 野村大使は、岩畔大佐の説明を聞き終わるとほおを紅潮させ、隻眼にはうすく感涙もにじんでいた。野村大使は赴任前米国での交渉の腹案として対米試案を書いたが、岩畔大佐の修正案は対米試案とほぼ同じ狙いであった。「結構です。やりましょう」 野村大使は、結構、を」繰り返し、きっぱりと岩畔大佐に対する支持を言明すると、若杉公使に陸海両武官の呼集を指示した。直ちに二人の武官が到着すると、修正案を外交文書に相応しい最終文案を作成して正式交渉に移し一気に成立させる、という今後の交渉スケジュールを告げた。若杉公使が言葉を添え、野村大使もよろしくとあいさつした。

 磯田少将は驚いた。神父工作の承認を野村大使に進めたのは少将自身であったが、これほど急速、簡単に決定されるとは夢想外であった。かって井川理事が述べた日米交渉は太平洋、アジア地域で日米利益協定を目指していると受け取れたが、岩畔大佐の修正案は、支那事変解決を焦点とする対米取引を企図している印象を受ける。そして岩畔大佐は、二人の神父を通じて、米国政府とくにローズベルト大統領、ハル長官ら首脳部の直接諒解を得られる見込みは充分である、という。磯田少将にしてみれば、至って楽観的な岩畔大佐の態度に不安が感じられた。なんとなく神父工作が岩畔工作にすり替えられ、それだけ交渉の性格も米国本位から日本本位に変化した感じがするからであった。磯田少将の三項目にわたる所見は、岩畔工作の進展に対する危惧の表明だったが、反応は殆どなかった。
 若杉公使は神父工作に私人が介在していることで好感を持てなかったが、今度は日本で最大の勢力・陸軍の要人が推進役になるとなれば、工作の意義は大きく変化する。しかもその背後に近衛首相、東条陸相の存在がので、交渉の前途は期待が持てる、と。
 
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