開戦前夜 日米諒解案の生成 1(二人の神父)

2017年06月22日 | 歴史を尋ねる
 松岡洋右は戦後、巣鴨プリズンに戦犯として収容されたが、東京裁判がスタートした直後、持病の肺結核悪化のため亡くなった。日本と自己の立場を陳述するチャンスを奪われたままの最後だった。この過程で松岡が日本を崩壊と破滅に導いた張本人であるイメージが形成され、それを後押ししたのは「近衛手記」であった。近衛は、第二次近衛内閣の外相であった松岡洋右が、おのれの独断と偏見で周囲を無視して強硬外交を推進し、日米交渉を挫折させ、アメリカの怒りをあおり立て、日本を戦争に追い込んだ、と。自分の平和への願いと努力は、すべて松岡のためにぶち壊された、と記した。松岡が外相の地位にあったのは、第二次近衛内閣が成立した1940年7月から内閣改造した41年7月までの、ちょうど一年間であった。この一年間は歴史の転換点で、主な出来事を列挙すると、日本軍北部仏印進駐、日独伊三国軍事同盟、松岡訪欧、日ソ中立条約、日米諒解案交渉、独ソ戦、日本軍南進決定、関東軍特殊演習、と続く。松岡が外相を解任された直後の日本軍南部仏印進駐と、報復措置としてのアメリカの対日石油輸出全面禁止。これが日米対立を決定的にしたもので、日本を後戻りできない袋小路に追い込んだポイント・オブ・ノーリターンだったといわれている。松岡が内閣から追放されたあと、第三次近衛内閣、東条内閣と、政局は目まぐるしく動揺・混乱し、日本の外交は坂道を転がり落ちる一方で、あっという間に対米開戦に追い込まれてしまった。

 日米交渉がなかったら、太平洋戦争は開幕しなかっただろうか。太平洋戦争の発生が日米交渉の有無に左右されるものではないことは、容易に理解できるが、歴史上の現象としては、日本にとって開戦の跳躍台(スプリング・ボード)になったのは、日米交渉の行き詰まりであった、と児島襄はいう。日米交渉のその発端から終幕まで、終始して異常な雰囲気に包まれ、その経過をたどると、日米交渉は一般的な意味での交渉とは程遠い性格であった。日米両国とも、第二次大戦の流れの中で、もはや同一平面上では併存できない立場にいることは、よく理解していた筈である。交渉とはいえ、日米交渉は相互の理解と妥協を求めるものではなく、屈服または政策の訂正を要求し合うものであった。そして交渉の過程は、国際政治に付きまとう各種の困難な要素がむき出しに現れている。また、交渉の経緯は日本側の極度の内部不統一を露呈した。政府に一貫した方針も政策もなく、首相、外相、大使はバラバラに動いている。これが文明国の政治、行政かとの嘆声をさそわれるほどであり、結局は米国に思いのままに操縦されたのも無理はなかった、暗号解読のハンディだけだはなかった、と児島襄。氏は1973年、多くの方の資料提供を受けながら、当時の交渉経緯をつぶさに調べあげている。文献として、岡崎久彦氏のも、福井雄三氏のも、斉藤良衛氏のも、バランスが充分とれた内容になっていないと思われるので、このテーマは児島襄氏の著書で当時を振り返りたい。

 昭和15年11月25日、日本郵船・サンフランシスコ航路客船が横浜に帰港した。船客には二人の米国人神父がいた。出迎えたのは神父の服装をした米国人と日本人であった。その日本人は山本少将で、カトリック教徒であり、海軍部内では異色だった。折から、日米関係は悪化の勢いを増していた。前年9月、ナチス・ドイツはポーランドに進攻、複雑な国際情勢を反映して、日本ではこの一年間足らずに阿部信行➡米内光政内閣➡第二次近衛内閣と政変が続いた。特に米内内閣の末期からは、国内では一億一心を呼号する新体制運動がすすみ、政党から婦人会まで中央集権的大同団結が拡大、こうした国内統一を背景に、9月北部仏印進駐、日独伊三国同盟締結と重要な対外国策が実行された。米国側の反応は厳しく、米国政府は10月になると、くず鉄と銅の対日輸出禁止のほかに、極東の米国人引揚げ勧告、極東への米国人の渡航制限などの措置を取った。この時期にわざわざ日本船に乗ってやってきた米国人神父に、当然新聞記者の注意を引く筈であったが、記者たちは関心を示さなかった。前日、元老西園寺公望公爵が死去、東京市内は沈痛な静けさが漂っていた。新聞報道はほとんどが西園寺公爵関係に集中し、ほかに目立つものは新駐米大使に野村吉三郎海軍大将に決まったというニュースだった。大将は軍令部次長、呉、横須賀の司令長官、学習院院長、阿部内閣の外相を歴任、海軍きっての人格者かつ一流の人材と見做されていた。駐米武官時代、当時米国の海軍次官だったローズベルト大統領と親交を結び、その点からも駐米大使の最適任者と考えられた。
 野村大将は、駐米大使を躊躇したのは、、日本政府の対米外交の焦点が不明確な点であった。三国同盟を強化する一方で日米関係を調整することは、両天秤をかけるようなもので日米国交を調整することは不可能だと、はじめに松岡外相から交渉を受けた時、当時の海相に述べている。そこで、野村大将は日米戦争を避けることを眼目とすべきであり、そのためには東南アジアに対する武力進出はつつしみ、三国同盟の運用、特に米国がヨーロッパ戦争参戦の時は慎重に対処すべきという意見を、近衛総理に進言した。野村の意見は、既に決定されている「基本国策要綱」や「大東亜新秩序」の建設という方針に真っ向から反対するものであったが、近衛首相や軍令部総長伏見宮が賛意を見せたのは、相当の覚悟と決意があるものと野村大将は推理した。二階にあげられてはしごを外すことはないと近衛首相は確答し、海軍から日米戦争は避けたいという訴えもあって、大将は大使就任を承知した。しかし大将の意見を組み入れた対米外交方針は示されないままで、何処から相手に食いつくのか、松岡に指摘したが、日米交渉の突破口は意外な形でつくられようとしていた。

 帝国ホテルに落ち着いた二人の神父(ウォルシュ司教、ドラウト神父)は元ブラジル大使沢田節蔵宅を訪問した。ウォルシュ司教とはニューヨーク総領事時代の知り合いで、来日の目的は日本とアジアの布教の改善の問題ではなく、日米両国の将来を危惧するためで、「現在の状況が放置されたままで進展するならば、日米間の武力衝突に発展するに違いない。いざ戦争になれば、それは日米両国のみならず、人類全体の不幸でありましょう」 ウォルシュ司教は米国国務省の役人にも合い、日米関係の打開について話し合おうとした。しかし連中は頑固な石頭ぞろいで、我々の言葉に耳を傾けようとしない。そこで二人は協議して、日本で責任ある当局者と話し合い、両国の平和交渉の糸口を作るべく来日した、といった。沢田も現実的な外交訓練を受けている。なにか具体的な提案を持っているか質問すると、司教は「日米間の対立は両国の勢力範囲が不明確なために発生している。そこで、太平洋を東西に二分する線を引き、西側は日本、東側は米国の勢力圏として相互に干渉しないことにする。そうすれば両国はともに繁栄の道を歩める」 果たして米国政府は承知するか。提案は非現実的である。沢田は二人の神父と話し合い、二人の提案を文書にしてくれれば、外務省幹部に取り次ぎ、適当な担当者との会談も斡旋すると答えた。しかし二人の神父は単なる自己満足を求める心境はさらになく、つづいてはじめられた工作と活動は、その後の日米国交を大きくゆがめる誘因となっていった、と。
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