「もてる国」「もたざる国」、「もてる者」「もたざる者」の相克緩和

2017年04月20日 | 歴史を尋ねる
 結果から見れば、近衛の政治は日本を破滅に追い込んだ、という岡崎久彦氏は、その近衛文麿を次のように解説する。元老の西園寺は、いずれは自分のあとを継ぐ皇室の藩屏として近衛に期待していた。他日総理になることを期して、貴族院議長にさせるなどの準備もさせた。早く父を失った近衛に対して、父親の役目を果たそうとした。しかし政治思想的には、近衛は西欧的自由主義の西園寺の子というより、アジア主義者の実父近衛篤麿の子であった。
 敗戦前後に書いたとされる『元老重臣と余』では、「満州事変勃発のころより、余は西園寺公始め重臣たちと、時局に対する考え方につき相当の距離のあることを感じるようになった」と書き始め、西園寺に連れられてパリの講和会議に出席した時を回想する。近衛は京大を卒業した翌年(訪欧の前年)、「英米本位の平和主義を排す」という論文を発表していた。第一次大戦は、平和主義と軍国主義の間の戦いというよりも、現状維持国と現状打破国の争いだと考え、実情は英仏がすでに世界の植民地を独占して、ドイツだけでなくすべての後発国は獲得すべき土地もない。こういう不公平な現状を打破しようというのは正当な要求であり、日本はドイツに同情なきを得ない。英米の平和主義は現状維持を便利とするものと唄う、事なかれ主義であり、正義人道とは関係ないと、論じた。そして、パリ会議でも英米を中心とする国際連盟を謳歌することは出来ず、早晩連盟の破綻を予期した。「ゆえに余は当時元老重臣を始め、政府当局がややもすれば英国に追随する傾向ありしに対して不満であって、ときどき西園寺公にもお話したが、公は長いものには巻かれろ、という諺を引いて反駁せられた」と回想している。

 「満州事変を契機にして元老重臣の指導的立場はにわかに弱化し、軍部がこれに代った。・・・反動は恐ろしいもので、これらの人々は過去十年間の平和主義、協調主義、国内では議会政党万能主義への鬱憤を一時に爆発させて、元老重臣は君側の奸なり、政党政治家は国体の破壊者なり、というふうに排撃の火の手を挙げ、その結果が五・一五となり、二・二六となった」 近衛もまた幣原外交、大正デモクラシーの間は鬱屈していた。近衛が皇道派の軍人に近かったのは事実のようであった。これらの人々に対して、少壮軍人らの個々の言説には容認できないことは多々あったが、彼らが満州事変以来推進し来たった方向はわが日本として辿るべき必然の運命であるといっている。西園寺公は、少壮軍人は熱に浮かされている。この熱のある間はなるべく刺激しないように冷えるのを待つにかぎる。冷静に復したら外交も軌道に乗り、幣原時代の協調主義に戻るだろう、と。これに対して余は、いま日本の進む方向は世界の情勢がそうさせている。軍人の熱が冷めるのを待つといわれるが、政治家がこの国民の運命の認識に欠ける以上、軍人の熱は冷めない。軍人にリードされることは甚だ危険である。一日も早く政治を軍人の手から取り戻すためには、先ず政治家がこの運命の途を認識して、軍人に先手を打って、諸種の革新を実行するほかない、と説いた。斉藤(実)子爵を奏請して軍人の頭を冷やすことを期待された西園寺公は、二年後にはまた同じ構想の下に岡田(啓介)大将を奏請した。穏健、無害な首相を相次いで任命したのは、軍部の矛先をそらして時間を稼ごうという西園寺の意図だったろう。しかし、過激派の前には、こうした軍人たちさえテロの目標になった。西園寺の期待は、二・二六によって完全に裏切られた。今度は元老は余に首班を奏請した。・・・余は大命を拝辞したのは、健康その他種々の事情もあったが、また一面、西園寺公と考え方に相当距離がありと認めたからだった。そして昭和十二年には、「二度大命を拝辞するのは臣下の道ではない、と止むを得ずお受けをした」と書いている。
 「第一次内閣成立後一カ月にして支那事変が勃発した。・・・すでに戦争になると、まったく統帥権の外に立つ首相として、その政策を実行することはきわめて困難になる。・・・しかし、かかる情勢になったからといって、元老重臣がやはり先見の明ありしとは考えられない。むしろ反対に、元老重臣が、かの漫然たる国際協調主義に終始せず、世界の動向と日本の運命の道を深く認識して、常に軍人に先手を打っていかれたならば、いま少しく堅実なる歩み方ができて、今日のごとき困難に直面せずに済んだのではないかと考える」 うーむ、当事者が恨み節を言っている。ここで岡崎氏は面白いエピソードを紹介している。幣原喜重郎は、広東政府外相の陳友仁が「満州を日本が任命するハイ・コミッショナーの下におこう」と提案した時に、これを受諾する選択肢は与えられていた。それは満州事変の一カ月前であるから、石原莞爾の先手を取るチャンスはあったろう。しかし幣原は九か国条約を厳格に守り、これを断った、という。もう近衛内閣になったころからは先手を取る余地はあまり残されていなかった。それでも近衛は軍の考え方を先取りするような思想を表明しようとしていた。

 内閣の発足早々、初閣議の挨拶や記者会見で何を言うかについて、近衛自身が書いたメモが残っているが、それによれば、「現内閣の使命は、国際的には『もてる国』と『もたざる国』、国内的には『もてる者』と『もたざる者』との間の相克対立を緩和するにあり」として、国際間の分配の公平のために国際正義を、国内の分配の公平のためには社会正義を、といっている、と。そして「国際正義は世界領土の公平な分配まで行かなければ徹底せず、事前の策として、移民、貿易が自由に行われればよいが、これも困難な現状では『もたざる国』に属するわが国の大陸政策の正当化する根拠となる」と書いている。この考え方は大川周明、北一輝をイデオローグとする青年将校の思想と大同小異である、と岡崎氏。この時期となっては先手ではなく、後追いであるが、当時の世論にも軍にも、近衛内閣は違和感を感じさせないものであった、と。
 組閣も順調に進み、陸相の杉山、海相の米内光政は留任し、外相は広田弘毅、書記官長に風見章を登用、一般に評判も良かったが、一カ月後盧溝橋事件が勃発した。
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