ファシスト体制

2017年02月09日 | 歴史を尋ねる
 1935年(昭和10)の夏、コミンテルンよりファシズム国家と名指しされた日本は、ファシズム国家だったのか、また、ファシズムとはどんな体制なのか。語源は第一次大戦直後にイタリアで結成されたファッショ党から来ている。岡崎氏の解説によると、ファシズムは独裁政体の一種である。独裁政治は人類史上数多くの例があるが、二十世紀のファシズムの特徴は、議会民主主義に失望した民心が強力な中央政府を望む欲求から生じたものであり、デモクラシーと対極をなす政体である、と。こうした独裁体制志向は、ロシア革命以降は、プロレタリア独裁の旗を掲げる国際共産主義運動と、これに対する、各民族各国家を基盤とする国家社会主義運動に二分され、後者がファシズムと呼ばれた。ふーむ、この分析は分かり易い。各国の中産階級は、階級的憎悪に基づく暴力革命を主張する共産主義に恐怖を感じた。この恐怖は、革命後のソ連、中国、更にはカンボジアのポルポトの下でいかなる悲劇を経験したかによって、証明された。「それ民は賢にして愚、愚にして賢(なにも知らないで小賢しいことをいうが、大きな政治の流れや人物についての善し悪しは知っている)」 共産主義は、敗戦で混乱の極みにあったロシアで、トロッキーの軍事的天才によって成功したが、民衆の代表的な意思が表明された他のヨーロッパ諸国では成功していない。
 他方、ファシズムは第一次大戦後の不安な民心を捉え、イタリアだけでなく、ハンガリー、ブルガリア、スペインなどにもファシスト政権が成立した時期があった。ファシズムは、アンチ・デモクラシーの一党独裁志向であり、国家主義、民族主義であり、裏からの定義では反共であった。

 では1930年代~40年代にかけての日本の体制はどうであったか。当時の政府国民一般の意識は、反政党政治であり、国家主義、国権主義であり、反共であった点ではファシスト的であった。満州事変、五・一五事件以降、非常時体制が十年以上続いた。しかし日本では、非常時体制下であっても、制度上は、ヨーロッパのファシスト体制とはまったく異なっていた。戦時中でも議会はあって政府批判は行われていたし、翼賛体制外の議員も選出されていた。ファシスト党や軍国主義党の一党独裁などではなかった。国家総動員法にしても、非常時における暫定的な措置であり、ナチスの授権法とは違うとはっきり説明されていた。東条英機首相は一時、外相、内相、陸相、文相、軍需相、参謀総長を兼任して独裁権力をもつかの如く見えたが、重臣たちの決定一つで更迭された、と。
 統帥権独立と軍部大臣の現役将官制のために、軍の力が他の民主国よりも異常に強かったが、一方で、同じ制度の下で大正デモクラシーや幣原の協調外交が行われた時もあり、その時代の日本は、他のデモクラシー諸国と異なるところはなかった。統帥権の独立は、大正デモクラシーによって埋没されていたが、議会政治における党争の具として掘り起こされ、その後、非常時において軍の発言権の大きな柱になったが、それは種々の政治的、経済的環境がしからしめたもので、この制度がある以上軍国主義は必然だというのは歴史の事実を無視することになると、岡崎氏はいう。

 統帥権は、大日本帝国憲法第11条に定められていた天皇大権のひとつで、陸軍や海軍への統帥の権能(国軍全体を指揮・統率すること)を指している。明治憲法下で天皇の権能は特に規定がなければ国務大臣が輔弼することとなっていたが、それは憲法に明記されておらず、また、慣習的に軍令(作戦・用兵に関する統帥事務)については国務大臣ではなく、統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)が補翼することとなっていた。この軍令と国務大臣が輔弼するところの軍政の範囲についての争いが原因で統帥権干犯問題(野党の政友会総裁の犬養毅と鳩山一郎はロンドン海軍軍縮条約に反対して「軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」と政府を攻撃)が発生した。その後の経緯を追うと、元内閣法制局長官で法学者だった枢密院議長倉富勇三郎も統帥権干犯に同調する動きを見せた。海軍軍令部長加藤寛治大将は昭和天皇に帷幄上奏し辞職した。この騒動は、民間の右翼団体(国粋団体)をも巻き込んだ。条約の批准権は昭和天皇にあった。浜口雄幸総理はそのような反対論を押し切り帝国議会で可決を得、その後昭和天皇に裁可を求め上奏した。昭和天皇は枢密院へ諮詢、倉富の意に反し同院本会議で可決、翌日昭和天皇は裁可した。こうしてロンドン海軍軍縮条約は批准を実現した。しかし、浜口雄幸総理は国家主義団体の青年に東京駅で狙撃されて重傷を負い、浜口内閣は1931年(昭和6年)4月総辞職した(浜口8月死亡)。結果、幣原喜重郎外相の協調外交は行き詰まった、というのがこの時の経緯である。事実関係だけ羅列すると、浜口狙撃事件は唐突感がぬぐえないが、時代の経済環境、社会環境、報道の在り方も関係しているのだろう。

 日本軍国主義の経緯の複雑さに比べ、ドイツにおけるナチズム勃興の背景は明快であった。まず第一に、ヴェルサイユ条約がドイツにとって非常識に過酷であった。大戦発端は、どちらに理があり非があるとも云えない帝国主義国間の戦争だった。それなのに、戦勝国側がドイツに課した領土と賠償の要求はほとんど無理難題に等しかった。ドイツ人のなかにヴェルサイユ体制反対と、ドイツ領土から切り離されたドイツ人居住地域の祖国復帰運動が起こるのは自然の成り行きであった。もう一つは世界恐慌の影響がもろに来たことであった。ドイツ経済は、過大な賠償の負担にあえぎつつも、1923年ごろから安定成長軌道に乗った。ここから世界恐慌までの六年間は左右からの強力な圧力を受けながらも中道勢力を中心とする議会民主主義が行われた古き良きワイマール共和国の時代であった。しかし戦争で資本の蓄積を失い、賠償を課せられたドイツがなんとか経済を運営できたのはアメリカ資本の流入であった。ところが1929年の大恐慌でそのアメリカ資本が引き揚げてしまった。ナチスがなくとも、あのヴェルサイユ条約と世界恐慌がある限り、軍部独裁か何かの形でのドイツの極右化は避け得なかった、岡崎氏は考える。ナチスは満州事変の最中である1932年に第一党となり、33年1月、ヒトラーが首相になると、たちまち議会で独裁権を得て唯一政党となった。これは大恐慌下の危機的状況においてのみ実現し得たと岡崎氏は言い添える。

 ドイツ国会議事堂放火事件はこうした中で起こった。1933年1月30日、ヒトラー内閣が成立した。アドルフ・ヒトラーは政権基盤を固めるために議会を解散。3月5日に総選挙を行うことを決めた。2月27日ドイツ国会議事堂放火事件は起こった。プロイセン内務省のディールス政治警察部長は国会議長公邸で開かれた閣僚、警視総監、ベルリン市長、イギリス大使、元皇太子ヴィルヘルム・アウグストなどが参加する対策会議で犯人逮捕を報告した。しかし、ヒトラーは「共産主義者による反乱計画の一端」と見なし、「コミュニストの幹部は一人残らず銃殺だ。共産党議員は全員今夜中に吊し首にしてやる。コミュニストの仲間は一人残らず牢にぶち込め。社会民主党員も同じだ!」と叫び、単独犯行であるとするディールスの意見を一蹴した。
 3月5日の選挙の結果、100議席を持っていた共産党は81議席へと後退した。一方ナチス党は199議席から288議席へと躍進したが、全体の647議席の過半数獲得には至らなかった。3月23日、全焼した国会議事堂に代えて臨時国会議事堂となったクロル・オペラハウス(クロールオペラ劇場)で総選挙後初の本会議が開催された。出席した議員の数は535人であり、共産党議員81人、社会民主党議員26人、その他5人の議員は病気・逮捕・逃亡等の理由で「欠席」した。出席した社会民主党議員は全員が反対したものの、ナチス党はドイツ国家人民党と中央党の協力を得て3分の2の賛成を確保し、全権委任法を成立させた。この法律は国会審議・議決なしに、大統領の副署なしに広範な範囲の法令を制定する権利をヒトラー政権に委譲するものであった。議場の周辺には親衛隊がピケラインを張り、議場内の廊下には突撃隊員が立ち並んでいたという。
 
 全権委任法の成立後、国会はほとんど開かれることが無くなり、また開会時もクロル・オペラハウスを仮の議場に使用した。そのため焼け落ちた国会議事堂は修復されず放置された。第二次世界大戦中には連合軍による空襲やベルリンの戦いで攻撃目標となり、更に破壊が進んだ。戦後は連合国軍の占領する西ベルリンに位置したため、西ドイツは国会議事堂としては使わなかった。建物が国会議事堂としての役割を再び果たすようになるのは、ドイツ再統一によってベルリンが再びドイツの首都となってからである、という。

 当時、不況に沈み、政党政治の弊に絶望していた日本人にとって、ナチスドイツの出現にはまぶしいものがあった。ドイツ經濟の復興は確かに見覚ましかった。独裁政治の強力な指導の下に、道路、飛行場等の国家的大事業が着々と進められ、その為の義務的勤労奉仕と徴兵の復活もあって、1933年初めに六百万人を数えた失業者は第二次大戦の直前にはほとんどゼロになっていた。農村不況と政党政治の腐敗に慷慨していた軍人たちの私的結社は皆、親ナチ派となった。リッペントロップが大島駐独武官に、国際共産主義の脅威に対抗するための日独提携の話を持ち出したのは、35年夏のコミンテルン大会から間もないころのことであった。
 
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