第二次近衛文麿内閣

2017年04月29日 | 歴史を尋ねる
 昭和一桁生まれ以上の人で、軍国主義時代とはどういう時代だったかと問われて、思い出すのは第二次近衛が組閣(昭和15年(1940)7月)して以来、9月には三国同盟が成立し、10月には大政翼賛会が発足し、11月には皇紀二千六百年式典が挙行され、12月には西園寺公望の国葬が行われた。生活面では、夏には砂糖とマッチ、冬には木炭、16年春には米が配給制となり、「戦地の兵隊を思え」「贅沢は敵だ」もポスターが街頭に張られた。これが軍国主義時代とイメージされるものではないか、と岡崎氏はいう。そのあとの真珠湾攻撃後は、もう軍国主義などという思想的問題を超えた、どこの国でもある戦時体制である、と。この時代の最も象徴的な出来事は、明治憲法発布以来半世紀の歴史がある議会制民主主義の柱である政党が消滅したことである。

 新体制運動は近衛を中心に動いた。昭和15年6月、軽井沢から帰った近衛は、既存政治を打破しようと、「内外未曾有の変局に対処するため、強力な政治体制を確立する必要は何人も認めるところである。自分は今回枢密院議長を拝辞し、かくの如き新体制の確立のために微力を捧げたい」という声明を発表した。新体制運動が動き出すのは昭和15年に入ってからで、3月には政友会、民政党、社会大衆党の中の愛国主義的傾向の人々が、聖戦貫徹議員連盟をつくった。運動はこの連盟を中心に拡がり、近衛声明が出るころには既に大勢が決していた。そして声明後、七月中にまず社会大衆党、次いで政友会各派、民政党の永井柳太郎派、国民同盟と各政党が解党を宣言し、最後まで躊躇していた民政党主流派も8月には解党した。しかし近衛は初めから、既成政党の離合集散は無意味だと強調し、新党といわず新政治体制又は挙国体制と云った。陸軍が米内光政内閣(三国同盟に反対した)を強引に引きずりおろした背景には、近衛の新体制運動を期待する国民世論の雰囲気もあった。近衛の動きは結果として米内内閣倒閣に手を貸したこととなる。元老の木戸幸一は、米内留任を望まれる天皇のご意見を米内に伝えず、米内辞職後は近衛を推した。
 重臣会議で一致して近衛を支持したという結論を伝えても、西園寺は奉答を謝絶している。「今ごろ人気で政治をやろうなんて、そんな時代遅れの考えでは駄目だ」と漏らした。ヒットラーの後追いの真似をしても駄目だ。米内のような「正を履んで懼れない真の勇気」を持った人が去るのを惜しんだ言葉だろうと岡崎氏。西園寺の危惧はたちまち的中し、近衛内閣はそうそうに三国同盟を結び、大東亜新秩序建設、国内では新体制運動に突き進む。大日本帝国が破局に邁進しつつあるのを明確に予知し、それを側近に漏らしつつ、11月腎盂炎で急逝した。自由民権運動以来自ら手塩にかけて育てた日本の正統政治の終焉と、大正デモクラシー以来の日本のリベラリズムの逼塞、そして大日本帝国滅亡の予兆を目の当たりにしつつの死だった、と送辞を贈っている。

 近衛新内閣は発足早々、政治主導で新体制運動を行う方針を明らかにし、政、官、軍、有識者、右翼、リベラルすべての要人を取り込み、その最大公約数をスローガンとした。その発会式で、近衛は「本運動は大政翼賛の臣道実践ということに尽きる・・・これ以外に綱領も宣言もなしといいうるのであります」と述べている。結局は精神運動だけとなり、政党政治を解党した代りの機能として、上意下達、下意上通の機関となることを目的としたが、やがて東条内閣の戦時体制においては、上意下達の機関となるだけの役割となった。
 どうして、こんなにも簡単に政党は亡びたのか、岡崎氏は自問する。昭和7年の犬養毅首相暗殺以来、政党は一度も政権を取っていない。しかし、議会は憲法の下の予算議決権、内閣不信任の権限を持っていた。阿部信行内閣が退陣に追い込まれたのは内閣不信任案が決議されたからだった。また、議会内での言論の自由も尊重された。昭和15年2月の反軍演説で、衆議院の斉藤隆夫は除名処分となったが、補欠選挙でまた当選した。新体制運動が聖戦貫徹議員連盟から始まり、斉藤除名決議が圧倒的多数だったことを考えると、斉藤のような冷徹な判断を持った人は例外的少数で、政党人の圧倒的多数は、近衛、軍、一般大衆と同じで、抽象的愛国的スローガンに酔っていたのだろう。

 さらに岡崎氏は、昭和史の判断の難しさも語っている。引用できる資料の多くは、敗戦後の手記、あるいは東京裁判での証言であり、自ずと自己弁護の性質を持っている。新体制運動について、近衛は敗戦後の手記の中で、各政党自体の力によって軍部の力を抑制することは不可能と語っているが、組閣直後の記者会見で、内閣の具体的方針に軍の主張を大幅に取り入れているものであって、「軍とピッタリ一緒になってやっていく」と語っている。「いまや党争に明け暮れる時代ではなく、国民一致協力して、大日本帝国の威信と栄光を守らねばならない」というような雰囲気が、世論・マスコミ・議会・有識者の中で、主導的であった。軍を抑えようとしたという弁明も、単に迎合したという戦後史観も、いずれも当時の国民感情の実態を正確に伝えていない、と。
 当時国民感情が鬱屈していた。支那事変当初の戦勝に次ぐ戦勝の感激も長期持久戦になって薄れ、国民生活には軍備の負担が大きく影響し、物資も不足して、いつまでこういうことをやっているのだろうという不安感もあり、人心一新を期待する空気に満ちていた、と。

 当時を岡崎氏は面白い見方で分析をする。新体制運動は、昭和維新以来の疑似社会主義的イデオロギーの影響も明らかに見られるが、世界史上時々見られるファンダメンタリズム(原理主義)運動の一種だ、と。ファンダメンタリズムの特徴は①何人も表向き反対できない道徳的規律を要求する。労働を尊び、贅沢を戒め、倹約節約し、私生活の自由放縦を抑制するなど。②全体の理想のために個を犠牲にして捧げる。イスラム世界で繰り返される革命、クロムエルのピューリタン革命、中国の文化革命など。日本でも、新体制運動は、純真な日本国民とくに人口の多くを占める農民の間に広く支持された。忠国、愛国、尚武、廉恥、節約という武士的道徳のファンダメンタリズムの一時期であった、と分析する。
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