重光葵の見た欧州戦争の状況

2017年05月05日 | 歴史を尋ねる
 1939年8月独ソ不可侵条約締結時の秘密議定書には、両国の勢力範囲が確定されていた。バルト四国はソ連の勢力範囲、ポーランドは分割、ベッサラビアもソ連勢力範囲、バルカンについてはドイツは経済的利益のみを有し政治的利益は有しないと規定していた。しかしドイツは事実上バルカンを重要視し、到底手放せなかった。1939年3月ドイツがチェコ侵入占領、4月イタリアがアルバニア占領、9月ポーランド分割、ドイツはその後バルト三国等を承認、双方の勢力範囲は、メーメルからポーランドの中央を経て、ルーマニア北方国境に至る線で一旦は確定、更にのち、11月ハンガリー、ルーマニア、スロバキア、41年3月ブルガリア、ユーゴスラビア及び6月クロアチアはいずれも日独伊三国同盟に相次いで加入、枢軸陣営に参加した。
 中欧及びバルカンはベルリン、バクダッドまたはハムブルヒ、バスラを貫く道の沿道に当たり、ドイツが英植民地を攻撃する通路にもあたった。イタリア半島から北アフリカ、キレナイカを経てエジプトを衝く通路、バルカンを経てクレタ島等を飛んで小アジア方面を衝く線も、英帝国を襲う線路として重要となった。独ソ秘密議定書にかかわらず、英本国の侵入作戦が不首尾に終わった後は、イタリア及びバルカンより地中海を超えて、英帝国の心臓部に打撃を加えるほかに、勝利の方途はなくなった。

 戦争当初のソ連とドイツの勢力範囲決定は、いずれも戦術的になされたもので、戦争の経過如何で次の戦術を生み出すものであった。ソ連はドイツの西欧戦争の間に、バルト海、黒海も事実上ソ連の内海化し、黒海と地中海とを繋ぐダーダネルス及びボスポラス海峡の支配権獲得がロシア伝統の政策だった。このため、バルカンでロシアが長く有していた潜勢力を呼び起こすため、ギリシャ正教を利用して宗教運動を起し、汎スラブ運動を呼びかけた。のみならず、バルカン諸邦が防共協定に参加、三国同盟に加入したことは許す所でなく、ソ連の革命勢力を以て、これに変えようと画策した。
 1940年ドイツが軍事上の成功によって国際的権威が絶頂に達した時、ヒットラーは全般的な問題を話し合うため、モロトフのベルリン訪問を促した。11月ベルリンに到着したモロトフにヒットラーは、かねての考えにより、ソ連の三国同盟加入を勧奨し、今日は英帝国の破壊に進む好機で、ソ連はコーカサスよりイラン、イラク、ペルシャ湾方面に進出すべく、ドイツは協力すると枢軸参加を説いた。モロトフ曰く、ソ連の今日の要請はかかる遠大な理想を実現する前に、卑近な現実問題を解決することにある。ソ連はダーダネルス及びボスポラス海峡において軍事基地設定を欲し、ブルガリアの領土保全を要求した。これらに対してドイツの承認を得たい。また、ルーマニアに領土保全をしたが、これは何処に向けた保障であるか説明を求めた。以上の要望についてヒットラーに回答を迫ったので、ヒットラーは激怒するに至った。会見は再度にわたって行われたが合意は成立せず、モロトフは回答を得ずベルリンを引き上げた。このモロトフのベルリン訪問は歴史的転換点になった。ソ連が枢軸に味方であるか、敵であるか、が明確になった。ヒットラーはソ連のバルカン方面に対する野心を知って、独ソは両立することが出来ぬと意識した。モロトフのベルリン訪問経緯も、相当正確に世界の首都に報道された。独ソの間に容易ならざる新事態が生じつつあることを人々に感じさせた、と重光。

 松岡外相の独訪問当時の欧州戦争の大勢はどうだったか。英帝国の急所は、英本国のほか、地中海方面、ペルシャ、印度方面及び東南アジア方面であった。ソ連を三国同盟に抱き込んでペルシャ、印度方面を衝くことは失敗した後、ドイツは日本を南進に誘引した。英本国を乗っ取れないヒットラーは、たとえ欧州大陸を席捲しても、その戦争態勢は楽観を許さなかった。対英作戦失敗後、ドイツの目標は、大西洋戦争によるイギリスの海上封鎖戦と地中海方面の戦争であった。大西洋戦争は、結局海上勢力の戦争で、初めからドイツに成功の見込みがなく、結局地中海方面の戦争に絞られた。
 イタリア軍はバルカンを目指したが、英国の援助を受けているギリシャ軍に敗退、北アフリカでエジプト目指したイタリア軍はこれまた敗退、イタリア陸軍の精鋭はその影を没した。スペインのフランコ将軍はジブラルタル攻撃をヒットラーから誘われたが、ドイツの勝利を見通すことが出来ず、巧みに遷延策を講じ、その要求を最後まで容れなかった。ドイツはフランス、ヴィシー政権を圧迫して西地中海だけだなく東地中海の制圧を目指したが、ソ独英の三大勢力の間に挟まって最後まで動かなかったトルコの中立維持で、東方は遂に動揺しなかった。当時ドイツは、日本の仏印進入について、日本の依頼によってフランスに圧迫を加えた。英米はドイツのフランス圧迫を以て、すべて枢軸全体の一定の計画の下に関連あるものと判定した。ドイツは地中海戦争に勝利し、エジプト及び小アジア方面に進出し、ここに日本の勢力と手を握り、英帝国の破壊を計ろうとするものと英米は判断、他方、ドイツは米国の目を東亜に引き付けるよう、ヴィシー政府から米国大使に日本の仏印に対する要求を漏らすことを黙認した。北アフリカ戦争は、もはや英国のみの戦争ではなく、米国の安全保障の前線は、北アフリカであり仏印であった、と重光。ふーむ、日本の置かれた立場は、いつの間にかヒトラーの世界戦略に繰り込まれていた、ということか。そして岡崎久彦氏が口を極めて三国同盟成立を図った松岡洋右を批判するのもこのことを指しているのか。

 対英戦争失敗後、ヒトラーは1941年、米国参戦前に、是非とも地中海戦争に勝利し、南進しようとする日本との連携を実現する計画であったに違いない、と。しかし対ソ戦争のため遂に不可能となった。すべて予定通りに行かず、ロンメル遠征軍は英軍の反撃に遭い、イタリア軍の轍を踏み、トリポリ方面に退却した。松岡外相が欧州訪問した1941年3月は、イタリア軍が事実上敗北し、ヒットラーは対ソ戦を決意した時であり、更には米国はすでに実質上参戦に等しき立場をとっていて、戦争の世界的様相は決定的になった一般情勢であった、と。
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