井上馨外務卿による「朝鮮弁法8か条」

2013年03月16日 | 歴史を尋ねる

 甲申政変、甲申の変、金玉均の乱(クーデター)、とかいろいろに称されている明治17年朝鮮事変は、事実関係が分かりにくい事件であるらしい。史料の提示がない後世の伝記や解説本、それの孫引きの文書があふれているようだ。清と朝鮮の書簡や始末書に至っては論外であるという。従って、公式文書から推測するしかない。ここでは外交の責任者だった井上外務卿を追って、日本側の姿勢を見ておきたい。

 甲申クーデターの翌月、1885年(明治18)1月9日、特派全権大使井上外務卿と左議政全権大臣金弘集の交渉を通じて、日本と朝鮮との間に漢城(日朝講和)条約が結ばれた。李朝側は最初、交渉よりも事実究明が先だと抵抗を示し、袁世凱も強硬姿勢をとった。しかし李鴻章は平和的解決を望み、北洋副大臣呉大徴を派遣して李朝政府に譲歩するよう説得させた。また、李朝政府は金玉均・朴泳孝らの引渡しを再三日本政府に要請したが、日本政府は一貫して「彼らは政治亡命者である」として拒否し続けた。

 4月3日から天津では伊藤博文と李鴻章が会談し、18日日本と清国の間に天津条約が結ばれた。ところで、日本政府としては何故伊藤博文を選んで派遣したのであろうか。3月27日に清政府の王大臣と会談した時に伊藤自ら次のように言っている。「本大臣の職務は常に宮廷に参じ、直接に陛下の命を受けて事を執る者である。本大臣を派遣されたのは、永遠の両国和好を厚くし遠謀を以って将来を計り誤りなくするためであって、ただ両国間の案件を談判するだけではない」 伊藤博文は当時宮内卿である。つまりは天皇の明確な意思によるものと知らしめるための格別の配慮があったということであろうと澤田氏は記している。朝鮮問題で日清関係にいかに心を砕いているか推し量れる。結ばれた主な内容は次の通り。①日清両国は四ヶ月以内に朝鮮からいっさいの兵を撤収する。②日清両国は朝鮮国王に兵士を教練して自ら治安を護ることを勧める。日清両国は人を派遣して朝鮮において教練をしない。③日清両国は重大事変が発生して軍隊を派遣する場合には、お互いに事前通告すること。事変が平定されればすぐに軍隊を撤収して駐留しない。http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi045.html 条約の結論を見るまでの伊藤と李のやり取りは厳しいものであるが、「伊藤の議論に於ける応酬というものは殆ど隙のないものであったと思う。 伊藤は議論の中で屡言う。「全く貴政府の内事であって、本大臣の与り知るところではない」「本大臣は朝鮮の全権大使ではない」「素より朝鮮の内事に属することで、本大臣の更に与り知るべきところではない」などなど、相手の議論の流れを切って捨てて容赦がない。 要するに、相手に対して下手な思い遣りなど微塵もないのである」 伊藤博文の人物を見るのに良いブログである。

 天津条約は李朝にとって、朝鮮半島から外国軍隊が撤退したことが収穫であった。しかし李朝の自立が確保されたわけではない。清国は朝鮮に対する内政干渉を強化していった。政変後の権力回復を目指す閔氏一族は、清国の横暴ぶりに愛想がつき、日本も頼りにならないと考え、当時世界最強とも言われたロシアの軍事力に依存しようと考えた。新たな事大主義の誕生であった。しかし朝露密約が発覚し、清国が反発する。ロシアが朝鮮半島の進出情報が出るとすかさずイギリスアジア艦隊が巨文島に集結、しかもその旨を李朝ではなく中国大使に連絡、李朝を清国の属国とみなす立場からであった。こうした動きに対して、日本は日清協力へと動き、李朝に対して柔軟路線を敷くように方針を大きく転換していった。1,885年(明治18)6月井上外務卿は「朝鮮弁法8ヶ条」を清国に提案した。その内容は

「第一 朝鮮に対する政策は全て最高度の秘密の手続きをもって、常に李鴻章と本官(井上馨)と協議の上で李鴻章氏がこれを施行すべし。

第二 朝鮮国王に今のような政務を執らせずに且つ内官の執権を剥いで、その政務に関する途を絶つべし。

第三 国内第一等の人物を選んで政務を委任し、これを進退するには国王は必ず李鴻章の承諾を得るべし。

第四 右の第一等の人物は、金宏集、金允植、魚允中の如き人なるべし。

第五 出来るだけ速やかにモルレンドルフ氏を退け至当の米国人を以ってこれに代わらせるべし。

第六 陳樹棠は篤学の人であるが力量足らず、他の有力者と代わらせるべし。

第七 陳樹棠の後任者を李鴻章から任命し、米国人を朝鮮に推薦した上は将来の政策についての十分な訓令を与えてその者を日本に送り本官と面会させるべし。

第八 陳氏の後任者は京城に在留の日本代理公使と深く交誼を結び、諸事協議して事を執るべし。

 右は全くアジア州全体に虎狼の侵襲を防ぐを以ってその静謐安寧を保全する一点から出るものであって、朝鮮政府の政治に干渉することを主意とするものではない。その趣旨を李中堂には明らかに諒知されるように御陳述ありたい。」で、あった。

 ここでは朝鮮を自主の国と扱うのを転換し、王権の専制を改め両国がコントロールしやすい政府によって国内改革を行わせようとする提案であった。しかしこの提案を清国は受け入れず、日本介入の拒否する態度をとり続けた。

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