国共合作と盧溝橋事件とゾルゲと

2016年10月17日 | 歴史を尋ねる
 瀋陽から満州事変に関する第一報を受け取った時、蒋介石は第三次中共掃討作戦の真っただ中で、江西省の南昌にいた。中共が中華ソビエト共和国を建国しようとしているのは江西省なので、ここで徹底して中共の紅軍を殲滅しなければ孫文の中国革命の遺志を遂げることは出来ない、それを実現するつもりだった。それを打ち砕いたのは日本の関東軍だった。満州事変が起きて大歓声を上げたのは毛沢東ら中共軍であった。これで予定通り中華ソビエト共和国を建国することが出来る。毛沢東は蒋介石国民党軍と党内権力闘争による挟み撃ちで、絶体絶命の淵にあった。毛沢東が1956年、元軍人の遠藤三郎とあった時、日本軍閥に感謝するといった思いはこの時点から発生していたと、遠藤誉氏。
 1931年11月中華ソビエト共和国が江西省の瑞金で正式に誕生し、臨時政府が樹立された。臨時政府の主席に選ばれたのは毛沢東だった。井岡山で上げた手柄(仲間を大量に殺戮した)が功を奏した。蒋介石は9月22日の演説で、日本が公然と侵略行為に出たのは痛心の極みだ。国民は挙国一致して真の愛国精神を発揮しなければならないと訴え、直ちに中華民国の名において国際連盟に日本国を提訴。蒋介石が中華民族の思いを切々と訴え本気で嘆き悩んでいるのに対して、毛沢東は満州事変を絶好のチャンスと位置付け、蒋介石の苦しい立場を逆利用し、蒋介石がすぐに日本と戦おうとしないことを以って、売国奴と宣伝し、戦っているのは共産党だけだと勇ましいスローガンを掲げ、抗日世論を煽った。蒋介石は尚も、攘外先安内を実行して、1936年6月、第四次中共掃討作戦を再開、しかしまたしても、日本軍の熱河省侵攻により、その対抗戦に力を注がなければならず、失敗に終わった。

 事態が動いたのは中共内部で表面化した内部分裂だった。毛沢東はゲリラ戦法を基本戦略に置いていた。これに対し、上海中共中央局を牛耳っている王明などのソ連組は正面出撃を主張。コミンテルンが毛沢東を批判し、毛沢東の代わりに張聞天を人民委員会主席の座に就けた。更に軍事顧問としてドイツ人のオットー・ブラウンを派遣した。当時ソ連のリーダーであったスターリンは、毛沢東のことを田舎バターと嘲笑っていたことを毛沢東は知っていた。特に歴代中共中央委員会総書記は毛沢東以外すべて留学組で、ほとんどがモスクワで、王明、張聞天、博古などがメンバーだった。毛沢東がソ連を嫌い、知識人を心の底から憎んだか想像できると遠藤氏。
 オットー・ブラウンは毛沢東のゲリラ戦法を捨てさせ、代わりに積極的な突撃型戦法を実施した。ところがその戦法に切り替えた瞬間、瑞金ソビエト政府はいとも簡単に壊滅、毛沢東ら紅軍は瑞金ソビエト政府を放棄し逃げ出した。蒋介石はまたしても毛沢東らを取り逃がした。毛沢東や周恩来、朱徳らに率いられた10万人の紅軍を第一方面軍、四川省や湖南省の紅軍を第四方面軍と呼び、各地に紅軍は散らばっていたが、コミンテルンの指示に従って、一斉に西へ北へ逃走を始めた。のちにこの敗走を北上抗日と称しているが国民党軍も追いかけられない、まして日本軍は一人もいない。しかしスローガンは中国工農紅軍の北上抗日宣言を出したり、一致団結して日本帝国主義を中国から追い出そうという宣伝ビラを160万部以上も印刷し配布している。中国人民はこの宣伝ビラを信じて来た。国民党軍は尚も追討を止めず、湖南、貴州、広西まで掃討を続けた。しかし毛沢東らは山中に逃げ込み、険しい地勢ばかり利用して逃走するので殲滅できなかった。ようやく国民党軍の守りが薄い貴州省の遵義県まで落ち延びたときには、10万人だった紅軍も3万5000人まで減った。1935年1月占拠した邸宅で遵義会議を開く。この会議ではコミンテルン指示による攻撃型戦法の失敗を総括し、ソ連組が失脚する。そして毛沢東は中共中央軍事委員会主席に選ばれた。紅軍は再び四川省ソビエトの第四方面軍と合流を目指し出発したが、四川省で蒋介石が待ち受けていることを知った毛沢東は突如南下し、貴州省に向かう。そこは雲南省と共にアヘンのデルタ地帯。蒋介石は重慶から軍用機で貴州に駆け付けたが、国民党の貴州軍はアヘン吸引者が多く、軍隊の体を成していない。毛沢東は追撃をかわして雲南省に逃げ込む。しかし紅第四方面軍と合流できた時は、毛沢東の紅第一方面軍はわずか1万人を残すだけであった。

 1936年2月、陝西省延安の山岳地帯に革命根拠地を構えた毛沢東が、食糧事情の困窮により東征抗日と称して山西省の農村に出撃すると、蒋介石はこれを迎撃すべく、山西省と陝西省に配備した国民党軍を動かした。そこに陝西省の指揮を執らせた者の中に張学良がいた。山西省で農民の食料の掠奪を行った紅軍は多くの兵士を失いほうほうの体で陝西省に引き上げた。蒋介石に言わせればもうすぐに紅軍を殲滅できるところまで来ていた。1936年12月、毛沢東らの誘いに負けて張学良が中共側に寝返り、西安で蒋介石を拉致監禁し、国共合作を無理やり吞ませてしまう。そもそも万里の長城の北側、中国東北地方にいた軍隊や住民の多くも、日本が満州国という傀儡政権を築いて以来、故郷を追われ不満の日々を送っていた。その哀しみを歌った「松花江上」の歌詞には、九一八という言葉が何度も出てくる。毛沢東は「中国人が中国人を打つのはおかしいではないか、一致して抗日に力を注ぎ、国を救おうではないか」と訴えた。これらの言葉は東北を追われた多くに人々の心に響いた。まずは兵士の段階、続いて毛沢東は周恩来や潘漢年に指示して、張学良を説得するよう命じた。

 蒋介石が最後の5分の戦いを命じたとき、西安にいた張学良が動かなかったことに蒋介石は怒った。わずかな部下を引き連れて張学良の下に行った。張学良は蒋介石を拉致監禁し、中共から指示された八つの要求を差し出し、これを吞めば南京に戻すと交換条件を出した。この要求に蒋介石は激怒してすべて拒絶、さっさと殺せと居直った。ところがそこへコミンテルンから指示が来た。蒋介石を殺してはならない、と。日本という敵がいて、蒋介石がその敵と戦っているという状況がないと、共産党が発展するのは厳しい。日本との戦争は蒋介石にさせろ、コミンテルンは、まもなく日中戦争が始まるのを知っていた。
 蒋介石が拉致されたのは1936年12月12日、自由の身になったのは25日、南京には26日に戻った。南京では一日遅れのクリスマスプレゼントだと言って爆竹が鳴り響き、蒋介石の巨大な肖像画が街を飾り、市民が蒋介石万歳!、中華民国万歳!と叫んで蒋介石を迎えた。蒋介石は逆に、自分の存在がこのように位置付けられていることに初めて知って深い感動を覚えたと遠藤氏は記述する。
 そして案の定、翌1937年7月7日、北京で盧溝橋事件が起き、日中全面戦争に入った、と。
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