国防国策大綱

2017年04月01日 | 歴史を尋ねる
 国力充実のための財政的裏付けを検討する「昭和12年度以降5カ年間歳入歳出計画案」の作成に続き、「生産力拡充五カ年計画に関する研究」の中の「満州における軍需産業建設拡充計画案」が参謀本部に提出されたのは、ひと月あとの9月だった。宮崎の説明のあと、石原と片倉衷(石原の教え子で当時陸軍省軍務課の満州班長)との間に宮崎構想を巡って意見が交わされ、財政力がない状況での国力充実案は実現性に乏しく、まず満州国で実現させることが得策と、片倉。 石原はこれに同意して、軍務局と整備局が中心となって、陸軍省としての「満州産業開発五カ年計画目標案」が作成され、陸軍省、参謀本部合同会議で決定された。目標は昭和16年までに、日満、北支を通じる自給自足主義の確立、北満方面の開発促進、南満方面の軍需工業作興を方針とした。国内を充実するには時間がかかることから、石原、宮崎、片倉の線で、満州の開発が先行した形となった。

 2・26事件発生後、石原は戒厳司令部二課長を兼務、反乱軍を鎮圧すると、陸軍大臣に辞表を出して帰宅し、引き籠った。陸軍省軍務局高級課員の武藤章中佐(のちに上海事件後、日中事変拡大を若手参謀たちとグルになって押し進め、石原作戦部長を追い落としたばかりか、東条英機の懐刀として「北守南進」を推進、日米開戦に突入するきっかけを作った)が電話を掛けてきて「あなた一人がいさぎよくしたって仕方ないでしょう」「バカなことを言うな、武藤君! 私は何も自分の一身をいさぎよくしようなどという気持ちではない! この際、中央にいる課長以上のものは全部、責任をとって現役を退け、と言うのだ!」と怒鳴った、とのちに親族が語っている。陸軍省も参謀本部も、少将級で部長になるが、今回の2・26事件では、誰一人責任を取ろうとしないばかりか、反乱兵に自決を勧めて蓋をしようとしていた。石原は相沢事件といい、2・26事件といい、一番の臆病者は部長級以上の首脳部だったと、のちに語っている。

 石原莞爾が国防国策について海軍との思想統一を図ろうと思ったのは、陸海軍には作戦計画があるが、戦争計画がない。これでは国防を全うすることが出来ない。世界列強は国防国策を基として、外交を律し、軍備を整える準戦時代に入っている。漫然と想定敵国を列挙して、外交や国力と別個に、軍備だけを以て国防を全うし得うるものではない。速やかに戦争計画を策定し、国防国策大綱を制定する必要がある、と。現代の戦争計画とは、国家や政府が戦争に対処するために、特定の仮想敵国に対して、戦時の軍事戦略を総合的にシミュレーションすることをいうが、石原が考えているのはもう少し広義の様である。軍備だけでは国防を全うすることが出来ない。どこが仮想敵国であるかではなく、アジアなかでも中国、満州、朝鮮が同盟を結ぶ。アメリカとの最終戦争に備える、戦争計画が急務だと指摘して、海軍側と合同会議を提案した。
 これまでの国防国策は、明治42年(1909)に、時の総理桂太郎、陸相寺内正毅、海相斉藤実、外相小村寿太郎、参謀総長奥安鞏、軍令部長東郷平八郎により、「帝国国防方針」が策定された。その頃の国防はまだ総力戦という言葉もなかった時代で、兵器も不充分、もっぱら兵力の戦争に勝てばよかった。国防方針の骨子も、米露支三国を仮想敵国と定め、一朝有事の際の安全をまっとうする防衛方針として、アメリカに対しては渡洋侵攻を近海で迎撃、ソ連に対しては主力を満州の野に撃滅、中国に対しては中北支の要地を占領する、の三つを想定した防衛方針を決定していた。これを陸海軍統帥部で協同提案し、陸海軍大臣で同意するまで審議、そのあと両統帥部の長が奏上し裁可を得る。天皇は上奏原案を元帥府に諮問、そのあと外交と財政面を総理に下問し、合意を見て最後に天皇が裁可した。従って、先ずは海軍とのすり合わせが必要だった。、そこで軍令部は福留繁作戦課長、参謀本部は石原第二課長でスタートした。
 
 戦後、福留繁が二人のやり取りを書いている。福留「満州事変の結果、適性国家が増えたことを国防上明確に認識すること、二国以上同時戦争の危険が多くなったから、改めて対一国以上の戦争にしない方針を再確認することが必要」 石原「国防方針は時代物になって権威がなくなっている、むしろ国防をも律する諸情勢に対応する新国策を確立するのが良い、当国防方針を改定するなら、思い切って兵力改定が必要」 海軍は仮想敵国にイギリスを加える「帝国国防方針」および「帝国軍の用兵綱領」の改定を主眼としたが、ところが石原はそうした小さな改定ではすまぬ、と「国防国策」という言葉を使ってきた。石原の国防国策とは、「世界列強は国防国策を基としている。ソ連は経済五カ年計画を終え二次計画に入った。軍備だけをもって国防を全うし得るものではない。戦争計画を策定し、国防国策大綱を制定する必要がある。現時の国策は、天皇を中心と仰ぐ東亜連盟の基礎として、先ず日満支の協同を完成するにある。国防とは国策の防衛である。すなわち現在の国防は、持久戦争を予期して次の力を要求する。その一つは、ソ連の陸上武力とアメリカの海上武力に対し、東亜を守り得る武力である。第二点は目下の協同体たる日満両国を範囲とし、自給自足をなし得る経済力である。満州国の東亜連盟防衛上における責務は重大である。特にソ連の侵攻に対しては、在大陸日本軍と共に、断乎これを撃破し得る自信が必要」

 詳細の経緯は省略するが、もう一つの争点が海軍の主張する「北守南進」であった。海軍側は「陸主海従」というメンツにこだわり、明治42年以来の米英仮想敵国主義から「北守南進」で陸軍より優位に立とうとする意見が軍令部内に多かった。石原の「軍部だけで国防が出来る時代ではない。国防方針は今や時代に取り残された遺物だ。それよりも国家が一丸となって国防国策に取り組むことが先決だ」という意見は海軍には通じなかった。海軍は「南方に資源を求める」という本音を隠し、北守南進を譲らなかった。結局、「国防方針の改定」と「国防国策」の両方をやることになった。のちに福留は国防方針改定について回顧している。「国防方針の改定そのものは間違いではなかったが、効果は全然なかった。今にして思えば旧時代に出来た国防方針を修正したぐらいでは済まなかった。その点、石原作戦課長の言が的中した。もはや集団防衛時代に入っていたので、外交こそが、国防の本体になっていた。今にして思うことは、米英を同時に敵国にしなければならないような国防方針は、最初から成り立たなかった」と。
 しかし、陸海軍の調整は五相会議に持ち込まれ、海軍側の圧力に屈する形で国防方針の改定と用兵綱領が裁可された。日本の選択はここから大きく逆回転した、と早瀬利之氏は言うのだが。

 それでもなお石原は「国防国策大綱」に取り組んだ。国防方針も国防国策も、陸海の意見が一致しない限り天皇へ上奏できない。石原は諦めず作成に取り組み、この中で「米英との親善なくして対ソ戦争は出来ない」と強調した。

 国防国策大綱(原案)      昭和11年6月30日第二課
1、皇国の国策はまず東亜の保護指導者たる地位を確立し、東亜に加える白人の圧迫を排除する実力を要す。
2、ソ及び米英の圧迫に対抗するため、航空兵力を充実すると共に、日満及び北支を範囲として戦争を持久し得る準備を完了すること
3、先ずソ連の屈服に全力を傾注、その為英米との親善関係を保持、また外交的手段によりソ連の対抗手段の緩和に努む・・
6、日支親善は東亜経営の核心にして支那の新建設はわが国の天職なり。しかれど白人の圧迫に対し十分なる実力無くしてその実現は至難なり
7、ソ英を屈せば日支親善の基礎始めて堅し、東亜諸国を指導しこれを共同して実力の飛躍的進展を策し、次いで来るべき米国との大決勝戦に備える 

 今の時点でこの大綱を読んでも、どうもピント来ない。一つは当時の石原の情勢判断がどうだっただが、史料が残っていないのか、早瀬氏の著書からは読み取れない。その情勢判断が歴史的・大局的に見て的確だったかどうかによって、大綱の価値も左右されるのではないか。米英との親善はともかくとして、ソ連の見方は軍事面に偏って過大に評価しすぎていなかったか。世界ではもっと違う動きをしていた。
 ただ、昭和15年7月、第二次近衛内閣は御前会議で「帝国国策要綱」を裁可され、松岡洋右の北進論を抑え、南方進出の道を開いた。これが対米戦争の道を開いたとすれば、福留繁の戦後の回顧も首肯できる。
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