毛沢東、国民党中央候補執行委員に当選

2016年10月08日 | 歴史を尋ねる
 近代中国の歴史的事実を蒋介石の眼を通して見るとよく分かるが、それでも限界がある。それを毛沢東の眼を通して見ると、その限界の所が霧が晴れてくる。その両者の角逐を通して近代中国が誕生したことが分かる。ここでは毛沢東が中国共産党の中で重きをなしてくる過程を遠藤氏の著書で追ってみたい。

 湖南省長沙に戻った毛沢東は小学校の歴史担当教員になりながら、1919年7月、「湘江評論」を創刊した。ところが当時湖南を制圧していた北洋軍閥の監軍、張敬堯に阻止され1カ月のちに発禁処分となった。激怒した毛沢東は、打倒張敬堯運動を起こす。地元の労働者、民衆を組織化しただけでなく、パンフレットも大量に作り、上海や広東あるいは北京など進歩分子の集まる地域に配り、抗議表明を各地で行った。この運動は様々な新聞にも載ったため、全国各地の進歩的知識人の下に届いた。結局、張敬堯は1920年6月、湖南監軍を罷免された。一連のことが功を奏したか、1921年7月、上海で開催された中国共産党第一回全国代表大会に、毛沢東は長沙代表として参加することになった。中国共産党創立委員の一人になった。このときの代表者は12人、党員は全国で50人前後しかいなかった。もし毛沢東が北京大学図書館に残っていたら、並み居る知識人の中で北京代表の中には入れなかっただろう。長沙に居てこそ代表メンバーであった。ただ第一回党大会において毛沢東はほとんど発言していない。毛沢東伝では、他の代表が外国語を話し、マルクス主義の本を熟読しており、文献に基づいた高邁な論理を展開していたので毛沢東は寡黙だったと伝えられている。

 国民党は、孫文が創立した中華革命党を1919年10月改組したものだった。中華革命党は1906年に三民主義を党綱領として結党し、辛亥革命を成功させている。共産党が誕生したころ、中国の国号は中華民国で、中華民国の政権与党は国民党であった。この孫文に対して、ソ連のコミンテルン(1919年の創立された共産主義政党による国際組織で、モスクワに本部を置くコミュニスト・インターナショナルのこと)は執拗に国共合作を提案してきた。誕生したばかりのソ連は新しい国家としての承認を各国に求めたが、なかなか承認してもらえず、いっそのこと世界各国を共産主義の国家にしてしまえということからコミンテルンを組織した。ヨーロッパでの受け入れがなかなか広がらないので、ソ連はターゲットを集中的に中国に絞った。そもそも中国共産党の創立は、コミンテルンのお膳立てであった。陳独秀や李大釗などをコミュンテルンのメンバーにして、モスクワの指導の下で中国共産党を創立させた。しかし党員の数が少なすぎる。1922年第二回党大会時、全党員は195人、それに比べ国民党員数は13万5千人に達していた。このままでは中国に共産主義政権を打ち立てることは出来ない、先ずは国民党に寄生して、そこから発展していくしかないと、コミンテルンでは議論された。その結果がヤドカリしながら国民党を内部から切り崩し、その中で共産党が大きく成長する策が決議された。
 孫文は最初のうちは激しく拒否したが、コミンテルン代表のヨッフェが「ソ連は中国に対する一切の特権を放棄する」「中国で共産主義を実行することはない」と誓い、「中華民国の統一と完全な独立を応援する」などと言い立て、ついには説得されて、孫文ヨッフェ宣言を出した。1923年6月の第三回党大会で大論争の末、共産党員個人の名義で国民党に入党することで妥協した。この形式はコミンテルンで計画したものだった。中国の統一という革命への情熱に燃えていた孫文は、1924年1月第一回の国民党全国代表大会を広州で開催した。この大会で孫文の三民主義を基本としながらも、国共合作のため「連ソ」「容共」「扶助工農」が党綱領として決議された。

 この大会には個人の資格で多くの共産党員が参加していた。毛沢東の参加し、彼は要所要所で積極的に意見表明を行い、その堂々とした、論理の通った発言に、孫文や国民党の幹部たちも驚いた。毛沢東の存在に注目し、国民党中枢の中央執行委員の選挙に当たり、候補者リストに毛沢東を入れた。そして国民党の執行部に高く評価され、毛沢東はいきなり国民党中央候補執行委員に当選した。孫文も汪兆銘も毛沢東のことが気に入り、国民党大会終了後、彼を国民党組織部秘書に就かせ、中国共産党中央も国民党に倣い、組織部、宣伝部などの部を設置して、毛沢東は中共中央の組織部長となった。
 順調に動き出したかに見えた国共合作だったが、国民党の右派は共産党員を嫌い、1925年3月孫文が逝去、8月左派の長老、寥仲愷が暗殺されると、共産党を絶対に受け入れない国民党右派が台頭し始めた。そのトップが蒋介石だった。しかし国民党左派には元老、汪兆銘がいた。孫文亡き後、汪兆銘は広州の国民政府の主席に就いた。この主席の座も、コミンテルンが背後で操っていた。国民党内に左派と右派というレッテルを生み出し、左派と右派をアピールしてイデオロギー的に異なるという固定観念を植え付けようという指令は、最初の段階でコミンテルンが出していた、と遠藤誉氏。そうすれば国民党を内部から分裂させることが出来るとの作戦だ、と。その結果、この時点までに国民党の主要なポストは国民党左派か共産党員によって占められ、共産党による国民党乗っ取り作戦は着実に進んでいた。
 1925年9月、湖南から広州に駆け付けた毛沢東は、汪兆銘から国民党中央宣伝部長代理に任命された。汪兆銘は主席としての執務が多すぎるため、自分が兼任していた宣伝部長の職を、毛沢東に譲った。のちに日本の傀儡政権の主席となる汪兆銘は、まるで弟のように毛沢東を可愛がり、10歳違いの二人はのちに汪兆銘傀儡政権と毛沢東との共謀につながった、と遠藤氏は解説する。表面の歴史的事実からは想像つかない、歴史の不思議だ。
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