軍事同盟への道 3(阿部・米内内閣)

2017年05月19日 | 歴史を尋ねる
 欧州戦争が開始され、帝国主義的勢力が東亜から退潮するに従って、東亜の指導的地位に空白が生じ、日本がこれを満たしていくことは自然の流れでなければならぬと重光。そこで重光は次のように紙面で提案する。
 日本が真に東亜の指導者となるには、列強のこれまでの帝国政策を踏襲した遣り方では不可能である。覚醒してきた東亜人を敵としては、指導権は取れないからである。日本が東亜諸国の信頼する友人となってこそ、これらの諸国は、日本を先進国として仰ぐのである。アジアが、欧州の植民地として取り扱われるべき時代はもはや去った。民族主義はアジアにも実行されねばならぬ。今次大戦はその機会である。日本がアジアの先頭に立って、東亜各民族の要望である独立解放を主張し、実行してこそ、東亜人は日本を指導者とするであろう。もし日本が誤って欧州の帝国主義政策を採って東亜の民族に臨んだら、これらの民族は地理的に近いだけに、日本を侵略者として、欧米諸国に対するより憎悪の念をもって見ることが必至。日本は絶対にこの過失を犯してはならなかった。この根本義は、単に国際上の倫理とか道徳とか、または人権上の感情とかの抽象的問題ではなく、現実の利害関係の問題としてもかくあるべきである。根底においてこの善隣友好の観念がなくて、誰が日本を信頼して資源を開き貿易を助長し、日本の生産品を歓迎する気持ちになるだろうか、と。うーむ、日本の産業立国政策を志向したものである。

 更に重光の主張は続く。この根本政策から見ても、支那問題は速やかに円満に解決を計らねばならなかった。日本が国際間で孤立感を深めているのは、日支関係を調整し得ない点から来る。英米の圧迫を感じなくなった日本は、支那と妥協するために必要な譲歩が出来る余裕ある地位になった筈である。支那問題について、支那は勿論、英米その他の国も納得し得る解決策を案出することは、孤立を解消する唯一の方法である。この方策は、満州問題を解決して、多年の難局を打開する鍵となるものであった。日本はこれまでの国策を清算してこれを正常に復し、列強との不必要な摩擦を排し、親善関係を恢復して、国家の安全感を取り戻すべきであった。以上は欧州戦争の帰趨如何に拘らず、日本の取るべき万全の豊作であった。
 欧州戦争の帰趨について、当時の情勢から一応の判定をしてみても、ドイツは陸軍が優勢、英国は海上が絶対優勢、空軍が優劣つかない場合、戦争は長期になる。長期戦において米国は必ず英国側に参戦するのは第一次大戦で経験済み。そうすれば欧州戦の終局の帰趨も明瞭、以上は国際的常識による判断で、珍奇な説でもなく、重光もロンドンから繰り返し指摘していた、という。日本は欧州戦争が東亜に波及することを絶対に防ぎ、自らは、東亜諸民族に対する善隣友好の親善政策を打ち立て、大きく世界の大国として、生きる道を発見すべきであった、と。

 以上のような重光の国際情勢の見方からすれば、当時の日本は軍部の希望的観測に基づく一方的判断によって立てられた企画に、馬車馬のように突っ走ることしかできない国情になっていた。日本の指導者は、欧州の危機に際して行われた、平沼内閣総辞職の大局的理由について、深く考慮する暇もなく、ひたすら目前の国内政治を糊塗するに汲々として、内閣の更迭を日常の事務として処理した、と嘆ずる。この重大な時期に、平沼内閣退陣後の後継は、阿部陸軍大将を首班に、外相は野村海軍大将が就任、穏健なる人格の持ち主である陸海両大将を中心とする内閣は、無為と混雑の中に貴重な時間を失い、約半年後に倒れてしまった。失われた機会は再び帰っては来ない。支那事変も南進政策も、今まで回転している機械の動きの続きで、世界の大変動には無頓着のまま陸海軍によって続けられていった。むしろ、英米勢力の退潮に乗じて、これまでの極端政策を、更に強力に遂行する機会が来たものと逆に考えて、ますます深みに落ち込んだ。結局指名される内閣の首班は、単にブレーキをかけるための陸海軍部内の穏健分子に止まり、陸海軍勢力の上に立って、国家の方向を左右する地位にはいなかった。湯浅内府は、阿部陸軍内閣の後継として米内海軍大将を推した。陸相には穏和派の畑前侍従武官長が留任した。国際的に最も重大な時期に出来た米内内閣は、陸海軍勢力の均衡と穏健な政策の実行とを目的として作られたものに過ぎなかった、と手厳しい。1940年1月に出来た米内内閣も、ただ軍部の行動に対応するのみで、積極的政策を樹立する暇もなく、国内情勢に押し流されて、同年7月に倒れた。

 当時、重光駐英大使は、本国政府と英国政府との調和に全力を尽くしていた。欧州戦争勃発の機を逸せず、日英の疎通を計り、支那問題の解決へ向けて、東亜に戦禍の及ぶことを避けて、東亜に日本の地位を確保することが、日本の向かうべき唯一の道と信じた。チェンバレン内閣は、日本との関係調整に異存がなく、日本の態度如何によっては、むしろこれを切望していた。日本の政策の合理的転換如何に懸かっていた。日本軍が英仏租界を封鎖した天津事件、東京湾での英艦臨検捜索してドイツ人を逮捕した浅間丸事件、日本の英国に対する注文品、ドイツに対する軍需注文品の積み出し問題についても、英国は妥協に応じた。この対日政策は、在野時代日本を非難していたチャーチルも、首相になった時代に引き継がれた。重慶支那政府援助のためのビルマ・ルートを一時閉鎖して、日支間に妥協の道を発見することを希望するまでになった。米国と日本との、物質的国力の余りに大きい差異に鑑み、また日本がシンガポールを攻撃して、戦争に参加する無謀な国でないことを信ずると述べた。ビルマ・ルートの閉鎖は、当時の世界情勢から見て重大な出来事で、英国は勿論、支那及び米国においても、多大の反響があった。在英支那大使は、猛烈に抗議した。ただ何らの反応を示さなかったのは、日本政府だけであった。米内内閣はこの機会を捉えて大勢を挽回する気力もなく、もはや軍部の圧迫および策動の対応に追われ、国際的な根本問題に努力する余裕のない存在に過ぎなかった、と重光は回想する。日本においては、仏国の敗戦後、英国の実力は過小評価され、ドイツの成功は過大評価され、冷静なる世界形勢の判断には眼を蔽って、軍部の施策は無軌道に狂奔する有様だった、と。

 平沼内閣の辞職による日本の政策立て直しの機会が、逸し去られた一年余の時間は貴重であった。清算された筈のドイツとの関係は、いつの間にか軍部を中心に復旧し、ドイツの主張と宣伝は、無制限に受け入れられる態勢が日本に出来て来た。ドイツは英米は到底日本の味方であり得ないことを説得するに務めると共に、ドイツこそ日本の友人であることを現実に示した。孤独を感ずる日本軍部は、援助者を欲しがった。目的は、満州国の国防だけでなく、日本の東亜における全地位防護の問題であった。ここで軍は三国同盟の交渉を蒸し返してきた。米内内閣は、参戦を余儀なくされる三国同盟の交渉を強く反対した。ためにまた軍の倒閣運動が起こった。当時、欧州戦争の帰趨について、二つの見方があった。一つは、ベルリン及びローマにおける陸軍武官を中心とするもので、ドイツの陸軍・空軍の威力が功を奏し、短期日でドイツが勝利、特にイタリアが参戦すれば英国の地位は直ちに崩壊する。日本は大東亜共栄圏を確立し、自給自足できる国づくりの絶好に機会である、というものであった。他はロンドン駐箚大使館を中心とするもので、ドイツ空軍は英国の空を制圧するのは不足で、潜水艦隊の英国封鎖も不充分である。従って戦争は長期に及び、米国の戦争介入も必至で、包囲されたドイツは敗北の外はない。日本は一時の戦争に迷わされることなく、欧州戦争中に、英米との妥協の道を発見し、支那問題を片付け、戦禍が及ばないよう東亜を非戦闘地域に指定する等あらゆる手段を講ずべきである。米内内閣(有田外相)は後者を重んじ、あくまで戦争不介入の政策を支持した。

 
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