国家総動員法の成立と宇垣外相の和平工作

2017年02月28日 | 歴史を尋ねる
 昭和13年(1938)2月、議会の最大課題は国家総動員法であった。事変が拡大するにつれて、戦争は近代戦の特徴である国家総力戦の様相を呈してきた。資源、資金の貧弱な日本は、国力を挙げて戦争に振り向ける必要が生じた。国防のために人的・物的資源をすべて動員しようというのが法の趣旨であるが、問題点はその実施を勅令に由らしめるという点であった。運用如何によっては、議会の機能を奪ってしまうことになる、と岡崎氏。議会では、これは憲法の精神に反するという批判が激しく、審議は難航した。この2月11日の紀元節は、明治憲法が発布されて五十周年にあたり、当時石橋湛山は社説で、伊藤博文の『憲法義解(ぎげ)』を引用して、憲法の下で国民は法律の許す範囲で自由を享受できる条文を讃え、ドイツにもイタリアにもすでにない憲法の恩典に日本は浴していると、憲法の精神を擁護している。
 議会審議の最中、説明員佐藤賢了中佐が議員に向かって「黙れ」と発言して、陸相が陳謝したり、また右翼団体が、政友会、民政会本部を占拠する事件もあり、緊迫した審議が続けられた。結局は、集会、新聞に対する統制などの条項を削除する修正をはかって法案を通した。近衛文麿は例によって風邪で臥せていたが、平熱に復した所で議会に現れ、「この法律はファッショ・イデオロギーによるものではなく、平時でも適用されるナチスの授権法(国家における非常事態などの発生に際し、立法府が行政府やその他の国家機関に対し、一定の権限を授権する法律)と違って、戦時にだけ適用される」と説明した。

 ファシズムと日本の総動員体制の根本的違いは戦時かどうかの点にあった。戦時に指導者に独裁的権力を与える制度は古代ローマの共和制の頃からあった。どんな民主主義国家でも戦時にはある程度、中央集権、統制経済、戦時機密保護の態勢をとらざるを得ない。大事なことは、それが一時的だという原則さえ守られれば民主主義としてそれほど相反するものではない、と岡崎氏。確かに、戦時と平時を同様な物差しで測るのは妥当ではないだろう。日本の国家総動員体制下の社会が、いわゆる軍国主義体制だといわれても、他の国でも見られる戦時体制と同様で、戦争の様相が国家総力戦ともなれば、やむを得ない事態だったともいえる。問題は内閣の力、政治の力が弱すぎた、この点に尽きる。時には政府を支えることも国民の責務かもしれない。

 昭和13年5月末、近衛首相は内閣を改造した。国民の圧倒的人気と裏腹に近衛はしばしば辞意を漏らした。もともとディレッタント的(学問や芸術を趣味として愛好する人)な責任感の薄さもあっていつも辞めたがっていたが、不満の対象は杉山陸相のやり方に嫌気がさしていた。春の議会終了後も辞意を表明したが、周囲の強い慰留を受けて、内閣改造を決意した。陸相の更迭は通常ならば不可能に近い何時であるが、近衛の辞意を翻させようとした天皇のご配慮もあり、戦地にあった板垣征四郎を呼び返して陸相とした。しかし、板垣は、満州事変の時は石原が参謀にいて光を放ったが、陸相としては、一般軍人と同じく北支に第二の満州建国を望む方向であり、支那事変解決のためには、何ら定見を持っていなかった。問題は当時の陸軍の体質そのものであり、それを変えるのは、首のすげ替えではなく、総理の指導力が必要だった、と岡崎氏。結局、このとき日本は、総理に人を得てなかったということになるが、陸相更迭をする力で、首相辞任、新内閣組閣がベターだったのだろう。

 近衛は外相の広田にも飽き足らず、宇垣一成を外相に迎えた。その際、宇垣は「国民政府を相手にせず」の立場を取り消す了解を得ていた。しかし、折角そのために宇垣を任命しておきながら、近衛は大勢に順応して、この人事を無意味にしてしまう。
 宇垣は外相に就任するとすぐ、クレーギー英国大使との会談を始めた。英米との利害調整が目的だった。これに対して「対英媚態外交を葬れ」「宇垣・クレーギー会談絶対反対」の街頭運動も起こった。過激将校の首相官邸怒鳴り込みもあり、外務省の枢軸派事務官は宇垣の私邸に抗議に行った。宇垣はこれと並行して対支交渉も進めた。宇垣の就任は、中国の知日派にとって明るいニュースと受け取られ、旧知の張群外相から祝電がきて、話し合いたいといってきた。宇垣は、交渉相手が張群や汪兆銘のような知日派ではかえってやりにくいということで、むしろ孔祥煕(総理)が良いといって先方も受諾した。宇垣の基本的な立場は、日本には領土的野心はないということを基礎とする、会談の場所は台湾か長崎として巡洋艦を迎えに出そうというところまで話が進んだ。
 しかし、国内でも閣内でも、和平交渉に対する反対が強く、また交渉の見通しも明らかでないうちに、対華中央機関設立問題で宇垣は辞任することになった。この問題は中国問題における外務省権限を中央機関に移譲する内容で、宇垣外交にブレーキをかけようという強硬派の意図があった。陸海軍当局は外務省東亜局長・石射猪太郎を説得するため試案を持ってきたが、石射は譲らない。しかたがないので閣議で強行突破を決めた。閣議の日、石射は大臣にその意を伝え、宇垣は「よろしい」といって席を立った。そして一時間もたたないうちに、宇垣が辞表を提出したとのニュースを石射は聞いた。翌日、外務次官・堀内謙介と東亜局長・石射猪太郎は辞表を提出した。石射のメモワールには、『事変の解決を自分に任せるといっておきながら、いまに至って私の権限を削ぐような近衛内閣にとどまり得ないのだ、余の心境を諒とせよ』と。
 岡崎氏は次のように思いを巡らす。宇垣の和平工作が成功したかどうかはわからない。成功するためには、ほとんどクーデターに近いような軍部の統制強化を行わねばならない。宇垣はそれを実行する意思と決断力は持っていただろう。そのためには総理の鉄の如き支持がなければならない。それが望めないなら、はじめから見通しはない、と。
 宇垣の後任について、近衛は堀内次官に「じつは専任外相は誰でもよいのだがね」といったという。それなら、何のためにわざわざ広田を切って宇垣の出馬を乞うたのか、岡崎氏の怒りは収まらない。ふむ、近衛は二重の意味で誤りを犯した。難局に臨める人材を無駄殺しした。
 堀内は駐米大使に、石射は駐蘭公使に転出した。

 宇垣の和平工作をセッチングしたのは、当時香港総領事であった中村豊一氏であった。氏は緒方貞子氏の父であった。戦後、中村氏が語った内容が下記ブログに収録されている。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/nicchuusensou/wahei/nakamura0.html
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