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森永砒素ミルク中毒事件

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米国から帰国した森永太一郎(1865-1937)が創立した森永西洋菓子製造所は、1911年(明治44年)に森永製菓と改称する。その森永製菓が、主力商品のミルクキャラメルの原料である練乳を自社製造する的で、1917年(大正6年)に愛国練乳合資会社を買収、日本練乳を創立した。この会社が森永乳業のルーツである。この森永乳業のホームページの「あゆみ」欄には、”昭和30年8月 粉乳中毒事件発生”との記述がある。これが、森永砒素ミルク中毒事件のことである。少々表現が違うが、自社にとって都合の悪い情報をホームページで開示しているのは当然のこととはいえ、立派なことである。以下、この事件の推移を見てみよう。

 1955年6月から8月にかけて、西日本を中心に人工栄養の乳児の間で原因不明の疾患が多発した。当初は奇病とみられたが、8月24日に岡山県衛生部により、乳児の間で砒素中毒患者が多発していること、患者が飲用していた森永乳業製粉ミルクから砒素が検出されたことが発表された。1956年2月の厚生省発表では、患者数は少なくとも1万2159人、うち131人が死亡したとされている。しかし、当時は障害を隠す傾向が強かったこともあり、実際の被害はこの数倍に達するとの説もあった。この事件の原因は、森永乳業徳島工場が粉ミルク製造時の乳質安定剤として用いた第2リン酸ソーダ(リン酸水素2ナトリウム)に、砒素が混入したことにある。森永乳業は安価であるとの理由で、1953年頃から全国の工場で工業用の第2リン酸ソーダを使用していた。そこには元々極微量の砒素が含まれており、それ自体は問題ないとの説もあるが、1955年4月10日に納入された第2リン酸ソーダに不純物として大量の砒素が混入していた。このため粉ミルクが汚染され、砒素中毒を多発させることになったのである。
 1955年9月18日に森永ミルク被災者同盟全国協議会が結成されるなど全国各地で被害者団体が組織され、森永乳業に原状回復と補償を求める運動が行われた。しかし、交渉は難航する。一方、厚生省は10月9日に医療問題を扱う「西沢委員会」、22日には補償問題を扱う「5人委員会」と2つの専門家グループを発足させ、1956年3月26日には全国一斉検診の実施を通達したが、「ほとんどの患者が全快しており、後遺症を心配する必要はない」との結論を拿出した。さらに、1963年10月2日に徳島地裁で本事件に関する刑事裁判の一審判決が言い渡され、徳島工場の製造課長と工場長が無罪となる(徳島地検が控訴)。こうした流れの中で被害者団体などによる被害者救済運動は衰退し、各地で提訴されていた民事訴訟の全てが1964年までに取り下げられた。
 しかし、大阪大学医学部衛生学教室丸山博の指導下で、養護教諭や保健婦らが被害者を訪ね歩くなど地道な活動が続けられた。1969年10月18日、その報告書「14年目の真実」が公表され、脳性麻痺・知的障害・てんかん・脳波異常・精神疾患など深刻な後遺症に苦しむ患者の実態が明らかになる。さらに、10月30日に第27回日本公衆衛生学会で丸山がこの問題について報告を行う。これを契機に、11月30日に森永ミルク中毒の子供を守る会(現森永砒素ミルク中毒の被害者を守る会)が発足する等、再び運動が活発化し、世論の支持を得るようになった。

 この間、刑事裁判は控訴審による差し戻し判決、最高裁による控訴審判決支持と進展していたが、1970年2月9日に徳島地裁で森永乳業の刑事責任を認め製造課長を有罪とする(工場長は無罪)判決が言い渡された(判決確定)。また、同年5月26日に提出された日本小児科学会森永砒素ミルク調査特別委員会の最終報告書により、後遺症が依存することが公式に認められた。10月には森永ミルク中毒の子供を守る会・厚生省・森永乳業の3者間で救済対策の早期実現が確認され、12月23日に森永乳業が基金として30億円を拠出するなどで合意が成立。1974年4月24日に恒久的な救済機関である財団法人ひかり協会が発足した。

 なお、事件発覚以来長期にわたり、森永乳業は自社製品中に含まれる砒素が事件の原因であることを認めようとしなかった。また、これを認めた後も、納入業者を信用していたので、自社に注意義務は無いと主張した。こうした無責任な体質や裁判の長期化から森永乳業の企業イメージは著しく損なわれ、森永乳業製品のボイコット運動も発生するなど、森永乳業は大幅にシェアを失うことになった。
1955年(昭和30年)6月頃から主に西日本を中心としてヒ素の混入した森永乳業製の粉ミルクを飲用した乳幼児に多数の死者、中毒患者がでた。これが、歴史に残る森永砒素ミルク中毒事件である。食品添加物の安全性、粉ミルクの是非などの分野で、現在でも忘れられることなく、折にふれて引き合いに出される事例となっている。

森永乳業は、1953年(昭和28年)頃から全国の工場で乳製品の溶解度を高める目的で、工業用の砒素を触媒にして作られた化合物(添加物)を粉ミルクに添加していた。1955年(昭和30年)に同社徳島工場製造の缶入り粉ミルク「森永ドライミルク」の製造過程で用いられた添加物(工業用の第二燐酸ソーダ)の中に不純物として”砒素”が含まれていたため、これを飲んだ1万3千名もの乳児が砒素中毒となり、130名以上の中毒による死亡者が出た。






森永砒素ミルク中毒事件

1955年8月24日

 1955年6月から8月にかけて、西日本を中心に人工栄養の乳児の間で原因不明の疾患が多発した。当初は奇病とみられたが、8月24日に岡山県衛生部により、乳児の間で砒素中毒患者が多発していること、患者が飲用していた森永乳業製粉ミルクから砒素が検出されたことが発表された。1956年2月には厚生省が、患者数は少なくとも1万2,159人、このうち131人が死亡したと発表した。しかし、当時は障害を隠す傾向が強かったこともあり、実際の被害はこの数倍に達するとの説もある。

 本事件の原因は、森永乳業徳島工場が粉ミルク製造時の乳質安定剤として用いた第2リン酸ソーダ(リン酸水素2ナトリウム)に、砒素が混入したことである。森永乳業は安価であるとの理由で、1953年頃から全国の工場で工業用の第2リン酸ソーダを使用していた。これには元々極微量の砒素が含まれており、それ自体は問題ないとの説もあるが、1955年4月10日に納入された第2リン酸ソーダに不純物として大量の砒素が混入しており、このため粉ミルクが汚染され、砒素中毒を多発させることになったのである。

 1955年9月18日に森永ミルク被災者同盟全国協議会が結成されるなど、全国各地で被害者団体が組織され、森永乳業に原状回復と補償を求める運動が行われたが、交渉は難航した。一方、厚生省は10月9日に医療問題を扱う「西沢委員会」、22日には補償問題を扱う「5人委員会」と、2つの専門家グループを発足させ、1956年3月26日には全国一斉検診の実施を通達したが、ほとんどの患者が全快しており、後遺症を心配する必要はないと結論した。さらに、1963年10月2日に徳島地裁で本事件に関する刑事裁判の一審判決が言い渡され、徳島工場の製造課長と工場長が無罪となった(徳島地検が控訴)。こうした流れの中で被害者団体などによる被害者救済運動は衰退し、各地で提訴されていた民事訴訟の全てが1964年までに取り下げられた。

 しかし、大阪大学医学部衛生学教室丸山博の指導下で、養護教諭や保健婦らが被害者を訪ね歩くなど地道な活動が続けられ、1969年10月18日にその報告書「14年目の真実」が公表されて脳性麻痺・知的障害・てんかん・脳波異常・精神疾患など深刻な後遺症に苦しむ患者の実態が明らかになった。さらに、10月30日に第27回日本公衆衛生学会で丸山がこの問題について報告を行った。これを契機に、11月30日に森永ミルク中毒の子供を守る会(現森永砒素ミルク中毒の被害者を守る会)が発足するなど、再び運動が活発化し、世論の支持を得るようになった。

 この間、刑事裁判は控訴審による差し戻し判決、最高裁による控訴審判決支持と進展していたが、1970年2月9日に徳島地裁で森永乳業の刑事責任を認め製造課長を有罪とする(工場長は無罪)判決が言い渡された(判決確定)。また、同年5月26日に提出された日本小児科学会森永砒素ミルク調査特別委員会の最終報告書により、後遺症が依存することが公式に認められた。10月には森永ミルク中毒の子供を守る会・厚生省・森永乳業の3者間で救済対策の早期実現が確認され、12月23日に森永乳業が基金として30億円を拠出するなどで合意が成立。1974年4月24日に恒久的な救済機関である財団法人ひかり協会が発足した。

 なお、事件発覚以来長期にわたり、森永乳業は自社製品中に含まれる砒素が事件の原因であることを認めようとしなかった。また、これを認めた後も、納入業者を信用していたので、自社に注意義務は無いと主張した。こうした無責任な体質や裁判の長期化から森永乳業の企業イメージは著しく損なわれ、森永乳業製品のボイコット運動も発生するなど、森永乳業は大幅にシェアを失うことになった。
1955年(昭和30年)6月頃から主に西日本を中心としてヒ素の混入した森永乳業製の粉ミルクを飲用した乳幼児に多数の死者、中毒患者がでた。これが、歴史に残る森永砒素ミルク中毒事件である。食品添加物の安全性、粉ミルクの是非などの分野で、現在でも忘れられることなく、折にふれて引き合いに出される事例となっている。

森永乳業は、1953年(昭和28年)頃から全国の工場で乳製品の溶解度を高める目的で、工業用の砒素を触媒にして作られた化合物(添加物)を粉ミルクに添加していた。1955年(昭和30年)に同社徳島工場製造の缶入り粉ミルク「森永ドライミルク」の製造過程で用いられた添加物(工業用の第二燐酸ソーダ)の中に不純物として”砒素”が含まれていたため、これを飲んだ1万3千名もの乳児が砒素中毒となり、130名以上の中毒による死亡者が出た。

この事案、当初は奇病扱いとされてたが、岡山大学医学部で森永乳業製の粉ミルクが原因であることを突き止めた。1955年(昭和30年)8月24日、岡山県を通じて厚生省(現厚生労働省)に報告され、事件として発覚した。翌年、厚生省が発表したところによると、砒素の摂取による中毒症状(神経障害、臓器障害など)が出た被害者の数は、12,344人。うち死亡者130名と言われていた。しかしながら、当時は障害を隠す傾向が強く、これ以上の患者が発生したことは確実であるといわれている。また、認められた患者についても消費者の権利が確立されていない時期でもあり、満足の行く救済措置がされない患者も多かった。

患者は、現在も脳性麻痺・知的発達障碍・てんかん・脳波異常・精神疾患等の重複障害に苦しみ、手足の動かない身体をかがめ、皿に注がれたお茶を舐めるように飲むなどの日常を強いられている。また、就職差別や結婚差別を受けたり施設に封じ込められたりした被害者や、ミルクを飲ませた自責の念で今もなお精神的に苦しんでいる被害者の親らも多いといわれている。

森永乳業が原因をミルク中に混入した砒素化合物と認めたのは、発生から15年経過した1970年(昭和45年)の裁判中のこと。その際、同社は、第二燐酸ソーダの納入業者を信用していたので、自分たちに注意義務はないと主張していた。「食品としての品質検査は必要ない」と主張していた森永の態度は厳しく指弾され、1960年代には、森永製品のボイコット運動が発生する。当時、森永は乳製品の売り上げでは明治乳業・雪印乳業をしのぐ企業であったが、裁判が長期化したこともありイメージダウンは拭いきれず、森永乳業はシェアを大きく落とすことになった。

一審では森永側が全員無罪とされたが、検察側が上訴し、刑事裁判は1973年(昭和48年)まで続く。判決は過失の予見可能性判断において危惧感説(新々過失論)を採用し、元製造課長が実刑判決を受けた。ちなみに危惧感説が採用されたと見られる裁判例は本判決が唯一である。一審の判決が衝撃的だったため、被害者側は民事訴訟を断念。のちに後遺症問題が明らかとなるが、その際も森永乳業側は長らく因果関係と責任を否定した。最終的に、被害者・厚生省・森永乳業の話し合いにより、1974年(昭和49年)財団法人ひかり協会が設立され、被害者を恒久的に救済し続けている。

なお、被害者側で支援活動をしていたのが、当時弁護士だった中坊公平氏である。彼はこの事件に関わるまでは、地位が安定している企業の顧問弁護士で一生を過ごそうかと考えていたが、父親の一喝で関わることになる。

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津田倫男著『老後に本当はいくら必要か』

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津田倫男著『老後に本当はいくら必要か』

本書の著者である津田倫男(つだ・みちお)氏は、1957年島根県松江市の生まれ。一橋大学卒業後、都市銀行、外資系投資銀行などに20年勤務した後、外資系ベンチャーキャピタル日本代表を経て独立した。現在は、企業アドバイザーとして、企業の買収・合併、企業防衛、戦略的提携、新規事業開発などの助言を行っている。主な著書に『M&A 世界最終戦争』(幻冬舎新書)『外資系企業で成功する人、失敗する人』(PHP新書)『60歳からのチャレンジ起業』(ベストセラー)等がある。本書の目次は以下のとおり。

●リーマン・ショックで吹き飛んだ蓄え
●なぜハイリスク・マイナスリターンの商品を買ってしまうのか
●高利回り商品を勧める自称「プロ」の本音
●素人が絶対避けるべき商品群
●本当に高利回りでなければならないのか
●神のみぞ知る、今後の経済情勢
●今までは救われなった小金持ち
●生活自己防衛のためのさまざまなヒント
●これからの高齢者の役割
●ボランティアと家庭菜園だけでは早くボケる
●カネか、知恵か、経験を出す

老後の不安が世の中を被っている。何億円必要だとか、どれだけの保険に入らなければ・・。さまざまな情報が飛びかう。だが、本当にそんな大金が必要なのだろうか。著者は疑問を投げかける。一方、老後の不安を持つ人々に、金融商品を売り込む側が付け込む余地が生じるというのも現実。虎の子の退職金を金融商品に注ぎ込んで、なくしてしまった人がいかに多いか。その体験から、金融商品のカラクリを熟知する著者は、「けっして手を出してはいけない」と、警鐘を鳴らす。大きな経済成長が見込めない日本において、資産を増やすなど無謀な話だと見極めることが大切だというのだ。本書は、年金プラス月に数万円で充分に自足できることを、様々な角度から検証する。
本書は、そろそろリタイアを意識し始めたビジネスマン向きの本である。彼等は退職金、年金、貯蓄と、お金(暮らし)のことが心配になってくる。しかし「経済的なことだけを心配して生きるという非生産的な生き方を選んで欲しくない」と著者は呼びかける。確かに本書が指摘するように、老後に必要なお金は、普通に暮らすのであれば、年金の他は月に数万円あれば足りるであろう。「心配」することがかえって危険なのは、資産を殖やそうとして投資行動に走ったりするからだ。ボランティアや家庭菜園、あるいは孫と遊ぶのもよいかも知れない。しかし、より大切なのは「自分自身を成長させるための投資である」と著者は言う。知的好奇心・知識欲をもち続けることが若さを保つ秘訣。それは組織(会社)という後ろ盾、あるいは身分を離れ、自立するためにも必要なことだ。しかも「趣味を極めるとかえって臨時収入の機会」が得られるかもしれない。他人の思惑にとらわれる必要がなくなった「老後」の日々。本書にあるような「心の持ち方」が大切というのだ。
                     (2010年、祥伝社新書、定価760円+税)
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門倉貴史著『中国経済の正体』

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門倉貴史著『中国経済の正体』

本書の著者である門倉貴史(かどくら・たかし)氏は、1971年神奈川県の生まれ。1995年慶応義塾大学経済学部を卒業した。銀行系シンクタンク等を経て、2005年にBRICs経済研究所を設立、現在は同研究所の代表を務めている。著書に『統計数字を疑う』(光文社新書)、『貧困ビジネス』(幻冬社新書)等がある。
 本書のタイトルに含まれる”正体”というコトバが、本書の性格を如実に表している。中国経済の急速な発展。そのことは、様々なマイナスをもたらしてきた。砂漠化もそのひとつ。その原因のひとつとして、中国での家畜の“乱放牧”が指摘される。乱放牧された家畜は、草木の芽が食べつくし、砂漠化を招く。そのほか、農地の乱開発や森林の乱伐なども砂漠化を引き起こす。中国が経済発展を優先して、環境保護をなおざりにしてきたことが、砂漠化の進展を招いたのだ。中国で進む砂漠化現象は中国だけの問題にとどまらない。近年では、中国の砂漠化が韓国や日本といった周辺国にも“黄砂”というかたちで悪影響を及ぼしている。
急激な工業化・モータリゼーションの進展に伴って、工場の煙突から出る煙や、車からの排気ガスが急増、大気汚染の問題が中国で深刻化するようになった。日本でも高度成長期に公害や大気汚染の問題が浮上したが、13億の人口を抱える中国が現在引き起こしている大気汚染の問題は、当時の日本とは比べ物にならないほどに深刻である。
ところで、実際に中国の各地を訪れて、人々の生活や経済活動の様子をつぶさに観察すると、「経済統計が示す数字は本当に中国経済の実像をとらえているか?」と、思わせる出来事に遭遇することがある。これが著者の指摘だ。公式の経済統計に含まれていない隠れた経済活動の状況から中国を見る必要があるというのだ。隠れた経済活動は一般に「地下経済」と呼ばれ、脱税や賄賂、武器の密輸、違法薬物の取引などによって構成される。中国経済の真の姿をとらえるには、厳然と存在する「地下経済」を頭の片隅に入れておく必要がある。実際、中国では、公式の経済統計を見ているだけでは理解できない現象が、「地下経済」を含めてとらえ直すと、すっきりと分かるケースが少なくない。
「一人っ子政策」は、人口爆発を抑制するのには一定の成果を上げたと評価できよう。一方、「一人っ子政策」の導入に伴って、急速な少子高齢化の進展など様々な社会問題が噴出している。大きな社会問題のひとつは、男女比の不均衡。伝統的に男尊女卑の考え方が強く、後継ぎとして男性を重んじる風潮がある農村部では、「一人っ子政策」による産児制限を受けると、女児よりも男児を出産するインセンティブが働く。中国政府は人工中絶を禁止しているが、実際には出産前に胎児の性別を超音波で調べて、女児であることが判明した時点で中絶手術をしてしまうケースが後を絶たない。生まれたばかりの女児を孤児院に捨てる。また、人身売買のブローカーに自分の子どもを売り飛ばす。その結果、戸籍に登録される新生児の男女比のバランスが大きく崩れてしまう。
(2010年、講談社現代新書、720円+税)   


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畑村洋太郎著『失敗学実践講義』

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畑村洋太郎著『失敗学実践講義』

本書の著者畑村洋太郎(はたむら・ようたろう)氏は、1941年東京の生まれ。東京大学工学部機械工学科修士課程修了。東京大学大学院工学系研究科教授、工院大学グローバルエンジニアリング学部特別専任教授を歴任した(東京大学名誉教授、工学博士)。専門は失敗学、創造的設計論、知能化加工学等で、2001年から畑村創造工学研究所を主宰している。2002年には、NPO法人「失敗学会」を、2007年には「危険学プロジェクト」を立ち上げた。『失敗学のすすめ』、『危険学のすすめ』など多数の著書がある。本書は、2006年に講談社から刊行された同名のタイトルの単行本を文庫本化にあたり増補したものである。
事故や失敗は、起こっては困る。しかし、「必ず起こる」ものと考えておくべきだ。これが著者の基本的な考え方。重要なのは、その失敗から何を学ぶかである。本書では、電車脱線、回転ドア死亡事故、金融システム障害など、様々な場面で発生した事例を徹底的に解明・分析する。「失敗学」を生かせば、あなたの仕事や組織は、確実に強くなる。と著者は発言する。本稿では、本書第6講「起こる前に起こった後のことを考える(火災に学ぶ)」をベースに、著者の考え方を紹介してみよう。どのような場所でどのような形で火災が起こるか。ありとあらゆるシナリオを想定することで、火災の可能性を減らしていくことはできる。それでもなお、火災は「完全に防ぐことができない事故」だと著者は考える。備えをしているつもりでも、それをあざ笑うかのように予想外の形で火災事故は起こってしまう。火災の可能性を減らすのと同じように大切なこと。それは、火災が起こったときに、どのような動きをするかを決めておくことである。それにより、たとえ火災を防ぐことができなくても事故の被害を最小限に食い止めることができるからだ。著者は、ここで2002年10月1日、三菱重工業長崎造船所で建設中の「ダイヤモンド・プリンセス」号(以下「ダ」号)の火災事故を取り上げる。「ダ」号は、11万3000トンの世界最大級の豪華客船。この船の建造中、溶接作業を行っているときに生じた熱が厚さ5ミリの床の鉄板の反対側にあった可燃性のプラスティック製の内装に伝わり発火し燃え広がって36時間燃え続けた。
事故直後、三菱重工の関係者は、119番通報や初期消火の遅れなど安全管理の甘さを糾弾された。事故が起こると、関係者はいつもそうしたことで責められる。しかし、この場合、実際はどうだったのだろう?この火災事故に関しては、世間はあまりに皮相かつ短絡的な見方をしていると著者は見る。「ダ」号の火災事故の場合、突発事故ではあったが、約1000人の作業員が全員無事に退避している。大きな事故であったのにケガ人を一人も出さなかった。この点になぜ世間は誰も注目しないのかと、著者には不思議に思う。船の中、特に建造中の船の中というのは、迷路そのもの。そんな場所で火災発生後の避難がスムーズに行われて一人のケガ人も出さなかったのは、事故後の連絡網、退避経路の確保、安全確認など、日頃の訓練で身につけた初期動作の一つ一つが現場で働く作業員に浸透していたからにほかならない。後日、著者は現場を訪れ、艤装工事中の船への出入りは幅1㍍程度の二ヵ所のタラップから行われ、ここではバーコードで人の出入りをすべて管理していたことを知る。工事責任者は全員が退避するのを待って、消火活動を開始した。
(2010年、講談社文庫、552円+税)
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『日本生命百二十年史』拾い読み

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『日本生命百二十年史』拾い読み

『日本生命百二十年史』が出版された。たまたま目を通す機会があったので、チョット気にかかる点等をメモしてみた。

日本生命の創業には、第百三十三国立銀行の頭取であった弘世助三郎が中心的な役割を果たす。弘世は、近江彦根(滋賀県)の素封家に育ち、早くから救世救民の志が強い人物であったが、近代的生命保険の仕組みを知って、関西の中心地である大阪に新たな生命保険会社を興そうと決意、創立に向けて精力を傾けた。創立委員・発起人については、第百三十三国立銀行の取引先である各国立銀行首脳等を歴訪し、協力を依頼する。1889年(明治22年)7月1日に大阪府知事に提出された創立願には、大阪府、滋賀県の財界有力者ら62名が発起人として名を連ねた。同月4日に創立が認可され、ここに日本で3番目(明治生命、帝国生命に次ぐ)の生命保険会社として「有限責任日本生命保険会社」が誕生する。7月28日の創立総会では、社長鴻池善右衛門(10代、1877年に第十三国立銀行(現、三菱東京UFJ銀行)を創設)、副社長片岡直温(前職は滋賀県警察部長)以下の初代経営陣を選任、創業者の弘世助三郎は取締役に就任する。

 同社の営業開始は、創立から2か月半を経た9月20日のこととなる。これは、年齢別の保険料率を定めた「保険料表」の完成に時間を要したため。この「保険料表」作成こそ、同社の経営理念が明確に反映されたもの。創立にあたって同社が用意した「保険料表」は、実は外国で使用されていた保険料表を補正したものに過ぎなかった。事業経営の将来に大きな影響をもつ保険料率が、欧米人の死亡率によって算出されていることの不合理に、経営陣は納得ができない。この窮地を救ったのが、東京帝国大学教授の藤澤利喜太郎。藤澤は、その著書『生命保険論』の中で、日本人の生死をもとに作成した死亡生残表(藤澤氏第一表)を掲げていた。担当の人見米次郎(当時岩崎姓)は、藤澤を訪問して保険料表の作成を懇願した。藤澤は、保険料を低すぎることのないように定め、もし将来余剰金を生じたときは、これを契約者に割り戻すべきであるとし、その実行を経営陣が誓約するならば、どのような援助も惜しまないとの意向を表明した。
1918年(大正7年)に始まり翌々年迄続いたスペイン風邪の蔓延。その影響により、生命保険会社の死亡率は急激に悪化した。同社でも、予定死亡100に対する実際死亡は戦争時を除く平常年で70~80台であったが、1918年~1920年度の3年間は、件数ベースで見ると、99,92,102と予定死亡率と実際死亡がほぼ均衡するレベルに達している。この間、流行性感冒による死亡は合計2,735名、保険金支払額は203万円を超えた。とはいえ、業界全体を見ると同社以外の会社が大きな死差損を出す状況下にあって、同社の損害は比較的軽微で済む。これは、同社が、前述の藤澤教授による保険料表(第二表)を用いており、厳格な保険数理が働いていたことも幸いしたとされている。
 さらに、1923年(大正12年)9月1日には、関東大震災が発生。災害史上空前の惨禍となる。地震と火災発生により、関東・東海の広範囲にわたって甚大な被害が生じ、死傷者十数万人、被害総額は100億円を超えた。同社は、ただちに救護班を組織して、大阪本店から現場に派遣し、被害者の救護に当たる一方、保険金、貸付金その他の支払いに非常簡便の手段を講じた。関東大震災による支払保険金は翌年8月末までの1年間に支払いを終了した額が81.6万円。同一期間内に震災地域内の契約者に支払った解約返戻金8.7万円、同じく貸付金31.3万円であった。なお、被害が関東とその周辺に限られたため、同社における死亡率の上ぶれは小さかった。

 時代はずっと下って、1996年(平成8年)。この年の4月に施行された改正保険業法では、「生命保険固有分野」、「損害保険固有分野」、「傷害・疾病・介護分野(第三分野)」についての定義規定により、保険業務区分が明確化され、本体による生損保兼営は依然として禁止されたものの、”子会社を通じての生損保兼営”が可能となる。日本生命は、平成8年8月8日、100%子会社として「ニッセイ損害保険株式会社」(以下ニッセイ損保)を設立、同年8月27日事業免許を取得して同年10月1日営業を開始する。ニッセイ損保の販売体制には特徴があった。それは、従来の代理店に加え、個人マーケットについて日本生命の営業職員を代理店として販売を行う点である。生命保険と損害保険を併せてご提案するトータルサービス(TS)を同社の中心チャネルである営業職員一人ひとりが提供するという体制をとることにより、顧客の利便性の向上を図ったのだ。また、この手法は経営資源の有効活用にも資するものであった。TSの推進の目的で、平成9年度より、営業教育訓練体系にTS教育を加えた。同時に初級代理店から普通代理店に格上げしていくための教育も推進するなど、損保教育の拡充を図った。
 また、生損セット商品の開発も行い、万一の場合や就業不能時の所得補償のための新商品「トータルガード」(平成9年9月)、特定のケガや携行品の損害、個人賠償責任などをカバーする「スーパーアクティブパック」(同年11月)といった商品も発売していく。1999年(平成11年)4月にサービスを開始した「ニッセイ保険口座」を開設した顧客に対し、ニッセイ損保の自動車保険・火災保険・傷害保険等の所定のご契約について、ニッセイ損保の規定に基いて、保険料の割引を行う「口座で割引」制度も導入された。
 1999年(平成11年)6月、日本生命は、同和火災、ニッセイ損保との3社で資本関係の強化に同意した。既に、同和火災とニッセイ損保の間では、自動車保険の損害査定業務などで提携関係にあったが、さらにこれを拡大していこうというものである。変化の早いマーケットにおいて、顧客サービス強化のために必要な機能強化を”自前”で行うよりも、技術的・時間的・コスト的な面など総合的な観点から、”提携”による方が効率的であるとの判断からであった。
 更に、同年7月に同和火災の第三者割当増資を引き受けたことで、同和火災は日本生命グループの一員となった。翌年5月、ニッセイ損保と同和火災は「合併契約書」に調印、2001年(平成13年)4月には、「ニッセイ同和損害保険株式会社」(ニッセイ同和損保)が誕生する。この合併を機に、リスク細分型自動車保険「ぴたっとくん」を発売した。この商品は、運転者の年齢や範囲に応じて合理的な保障と保険料を実現している。
 ニッセイ同和損保の誕生は、日本生命グループとしての損害保険事業の幅と規模を拡大し、これにより日本生命社の損害保険事業への確たるコミットメントを示すこととなる。生命保険・損害保険双方の商品を提供することによりお客様との接点が増え、営業職員の活動の幅が広がることになった。一方、ニッセイ同和損保は、日本生命とのクロスセリングの効果もあり、他の大手損保会社を上回る業績伸展を示す。正味収入保険料は、平成12年度末の2,683億円から20年度末には3,109億円と15.9%の大きな伸びとなる。その後、2009年(平成21年)1月、ニッセイ同和損保は、あいおい損保および三井住友海上グループとの経営統合を発表している。ニッセイ損保が誕生したのが1996年(平成8年)。僅か10年余の間であったが、本書により目まぐるしい変化の跡を簡潔に辿ることができた。
 
本書には、企業スポーツについても、若干のページが割かれている。1929年(昭和4年)創部という伝統を誇るのが野球部。都市対抗野球大会には、1949年(昭和24年)の第20回大会に初出場以来、出場は51回。これは歴代1位という快挙だ。第56大会(1985年(昭和60年))、第63大会(1992年(平成4年))、第68大会(1997年(平成9年))と3回の優勝を遂げている。一方、社会人野球日本選手権では、1974年(昭和49年)の第1回大会以来、出場が29回。2回の優勝(第17回大会、第29回大会)を果たした。また、1954年(昭和29年)に創部された女子卓球部は、優勝22回、総合優勝(内閣総理大臣杯)12回という戦績を残している。同社における企業スポーツは、企業イメージを高め、社内の一体感を作るためと位置付けられている。

日本生命は、“歴史を大切にする会社”である。千葉県浦安市にあるニッセイ総合研修所内には、メモリアルルームが設置されている。ここには、創立趣意書(原稿)、開業時の保険料表、本店旧社屋の模型など、同社の歴史を物語る貴重な資料が展示されている由。規模は小さいかもしれないが、今後本格的な「企業博物館」として発展していくことを期待したい。

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中島隆信著『お寺の経済学』

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中島隆信著『お寺の経済学』

本書の著者である中島隆信氏は1960年の生まれ。現在は、慶応義塾大学商学部教授の職にある。実証的な分析を行う一方で、従来の経済学ではなかなか扱われないできた事象を経済学で読み解く一連の仕事を続けていることで知られている。著書に『大相撲の経済学』(ちくま文庫)、『これも経済学だ!』、『子どもをナメるな』(以上、ちくま新書)、『日本経済の生産性分析』(日本経済新聞社)等がある。
本書は上記『大相撲の経済学』と同様、ちょっとユニークな著作である。日本全国にあるお寺の数は約7万6000あるという。この数字はコンビニの数4万店を大きく上回っている。お寺では幼稚園や駐車場等をケースがよくみられる。また、檀家という存在も見逃すことができない。したがって、保険を販売するに当たって、このお寺(業界?)について、ある程度の知識を持つ必要がある。これが本書を紹介する由縁だ。「お寺」の世界を経済学的に分析することで見えてくる檀家制度・葬式・戒名・本山と末寺の関係などの本質とは何か。そして、”経済学と仏教”という人間の知恵を共存させるためにするべきことは、いったい何かを本書は読者に分かりやすく教えてくれる。本書の目次は、以下のとおり。

序章 今なぜお寺なのか
第1章 仏教の経済学
第2章 すべては檀家制度からはじまった
第3章 お寺は仏さまのもの
第4章 お坊さんは気楽な稼業か
第5章 今時のお寺は本末転倒
第6章 お寺はタックス・ヘイブンか
第7章 葬式仏教のカラクリ
第8章 沖縄のお寺に学ぶ
第9章 お寺に未来はあるか

 この本を書くまで、著者はお寺についてほとんど関心がなかったそうだ。子供ころ、葬式や法事ではお坊さんのお勤めが早く終わらないかとばかり考えていたし、自宅に隣接する境内墓地は不気味な場所以外の何物でもなく、暗くなると雨戸を閉めに墓地側の部屋に近づくのも恐かった。もちろん、お寺の住職と話をしたこともなく、仏教についても歴史の教科書程度の知識しかなかった。そんな著者がお寺の本を書こうと思い立ったのは、経済学者特有の嗅覚によるものだった。世間ではお坊さんといえば「生臭坊主」「坊主丸儲け」「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」等々、胡散臭い表現ばかりが目につく。しかし、訳のわからない場所であるからこそ関心を持ってしまうのが経済学者の性。お寺の背後にはどのようなメカニズムが存在しているのか。そこに住む住職たちはどのようにして生計を立てているのか、そしてお寺は社会の中でどのような役割を果たしているか。かくしてお寺は著者にとり格好の分析対象に思えてきたという。情報収集に当たっては、お寺以外にも葬儀社、霊園、石材店などの関連業者へインタビューを実施した。こうしたインタビューからは、お寺の活動を一方向からだけではなく多面的に見ることの重要性を学んだそうだ。
                      (2010年、ちくま文庫、740円+税)
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佐川美加著『パリが沈んだ日』

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佐川美加著『パリが沈んだ日』

本書は、パリのセーヌ川の洪水史をテーマとする歴史書である。花の都、芸術の都であるパリと洪水。なにかミスマッチを感じさせるが、本書を読み進むとミスマッチどころか、セーヌ川の洪水に悩まされ続けたパリの歴史の側面を再認識させてくれる。
パリは地震や噴火などの災害には縁がない都市であった。しかし、セーヌ川の反乱による水害には、たびたび悩まされていた。セーヌ川の源流はワインの産地フランス中部のブルゴーニュ地方。秋口から降り出した雨が400kmをゆっくり下って真冬の頃になってパリにやってくる。パリはセーヌ川を挟んで広がる平らな土地と外側の丘から形成されている。標高35m以下の土地はパリ低地と呼ばれ、セーヌの水で覆われ、その水によって運ばれた土砂が堆積されてできた土地である。都市化が進むにつれて、橋梁、川岸には川岸に築かれた河岸、下水構、地下鉄等により洪水の被害は大きくそして複雑化していく。この地は、浸水がいつ起きてもおかしくない地形であるといってよい。しかしながら、人々は決してこの場所を離れようとはしなかった。セーヌ川なくしてパリの町はない。ちなみに、パリ市の紋章の中央には川に浮かぶ船が描かれ、その下にはラテン語で「たゆたえども沈まず」と記されている。この紋章はパリが洪水に悩まされて来た町であることの象徴といえるかも知れない。ちなみに、本書には3世紀から2005年6月23日までのパリの洪水の歴史が12ページわたり「年表」として収録されている。
歴史的に見ると、セーヌ川は市民を異民族の攻撃から守る天然の堀であり、交通路であり、働く人々の収入源であり、日々の水と食料の貯蔵庫であった。水位が上がることは川にとって自然現象だ。人間が住みつき生活するようになったとき、洪水による被害を受けるようになった。都市として発展していくのと歩調を合わせるように、セーヌ川の洪水も激しさを増す。
丁度百年前、1910年1月にパリは大洪水に見舞われた。平和で活気あふれる「世界の首都」が水に浸った。被災した建物は1万5千から2万、被災者は20万人といわれる。町中が悪臭を放つ大量のゴミと泥に覆われた。政府、軍隊、ボランティアが総動員で献身的に事態の収拾にあたる。その一方で、市民は晴れ着をきてセーヌ河畔に「一生に一度の大洪水見物」に出かけたり、洪水の期間もモンマルトルのキャバレーやダンスホールで、日々を楽しんだりしていたという。本書は、パリの洪水という自然現象と当時の社会風俗とが多数の図版や写真とともに読者に訴えてくる。
本書の著者である佐川美加(さがわ・みか)氏は1960年の生まれ。現職は雙葉中学・高等学校勤務。早稲田大学(教育学部で地理歴史、文学部でフランス語・フランス文学)卒業後2000年フランス政府給費留学生としてパリ大学ソルボンヌ校に短期留学した。自然地理学とフランス語・フランス史に堪能な著者ならではの書である。
(2009年、白水社、2400円+税)
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絹巻康史著『国際取引法 ーー契約のルールを求めてーー 改訂版』

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絹巻康史著『国際取引法 ーー契約のルールを求めてーー 改訂版』

 元商社マンで拓殖大学絹巻康史客員教授の著書『国際取引法ーー契約のルールを求めてーー』(初版2004年)の改訂版が、同文館出版から刊行された。本書は、臨場感ある事例と図表を豊富に掲載しているのが類書と異なる。この特色をそのままに、今般5年ぶりの改訂が行われた。本書が扱う主題は、以下のとおり。

1章 国際取引とルール
2章 国際取引法の形成と周辺状況
3章 国家制定法と国際商慣習法
4章 国際取引契約の現代化と調整事項
5章 取引の開始
6章 契約の成立
7章 商慣習法の意義(1)
8章 国際売買契約
9章 商慣習法の意義(2)
10章 プラント輸出契約
11章 ウイーン売買条約とユニドロワ国際商事契約原則
12章 国際物品運送契約
13章 国際貨物保険契約
14章 国際決済と直接投資
15章 知的財産の保障と技術の責任
16章 紛争に出会う

 ご覧のように13章で保険を扱っている。この章の細目は以下のとおりである。本書には各省ごとに「国際ビジネスの現場」というタイトルのコラムが挿入されていて、13章には、「保険用語の起源はイタリア語が多い」(例:Primo(最初に)→Premium)といった興味深い話題が盛り込まれている。

 今年は、日本の貿易取引に関わる人々にとって、企業であれ研究者であれ、記念すべき年。日本がウイーン売買条約(国連物品売買条約:CISG)に加入し、8月から日本の国内法として施行された。この機会に次の三点を中心に改訂されている。

①「ウイーン売買条約」及びそれと補完関係にある「ユニドロワ国際商事契約原則」(11章)の全面書き直しを行い、詳細な説明を加筆した。

②「法の適用に関する通則法」が2007年に施行され、旧法「法例」が廃止されたので、「国際私法の法源」(16章8節)
を書き改めた。

③「荷為替信用状統一規則」が2007年にUCP600に改訂されたので、「荷為替信用状による決済」(14章4節)を書き改めた。

 本書の著者である絹巻康史(きぬまき・やすし)氏は、1959年 神戸大学法学部卒業、丸紅に入社した。丸紅米国会社副社長、イラン会社社長を歴任し1996年退社する。同年日本福祉大学経済学部・大学院教授となる。神戸大学法学部講師、拓殖大学商学部講師を兼務する。2000年から2007年、拓殖大学商学部・大学院教授、2001から2005年経営経理研究所所長をつとめ、2007年から拓殖大学客員教授。著書に『貿易取引の契約と実務』(1992年、中央経済社)、『現代の貿易と国際経営』(1995年、同)、『国際商取引事典』(監修編著、2007年、中央経済社)等多数がある。  

(2009年、同文館出版、定価3800円+税)

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大羽宏一編『消費者庁誕生で企業対応はこう変わる』

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大羽宏一編『消費者庁誕生で企業対応はこう変わる』

 昨年9月、消費者庁が誕生した。消費者保護行政の司令塔ともいえる消費者庁の発足によって、企業の消費者対応はどう変わるのか。本書は、消費者庁関連三法や事故情報の収集・分析など、法制度の概要を詳述する。また、企業側のリスクマネジメントのポイントを解説するタイムリーな出版物である。
 消費者庁および消費者委員会の新設については、2007年に福田康夫内閣発足以来の懸案事項のひとつであった。当初法案成立の難航が予想されていた。しかしながら、中国製餃子中毒事件、事故米の不正流通問題、牛肉の産地偽装問題等が次々と発生したことから、福田内閣に次ぐ麻生太郎内閣のときになって消費者庁関連三法が可決・成立(2009年5月29日参議院)。6月5日公布となるに至った。
消費者庁の誕生により、縦割り行政の弊害が是正される。すなわち消費者保護に関して事故情報が一元管理されることになる。また、省庁間の「すき間事案」への対応も可能となるなど、消費者庁誕生による社会的影響は極めて大きい。この点に関しては、本書28ページ以下に紹介されたこんにゃくゼリーの度重なる事故(1995年から2008年の間に死者17名)に対する行政上の対処が的確に行うことができなかった。その例が如実に示している。すなわち、こんにゃくゼリーの死亡事故は、厚生労働省所管の食品衛生法、農林水産省所管のJAS法、公正取引委員会所管の景表法何れにも抵触しない。しかし、17名の死者が生じてしまっている。このほか“縦割り行政の弊害”として、BSE問題、中国製冷凍餃子中毒事件、ガス瞬間湯沸器一酸化炭素中毒事件等の例も紹介されている。

 本書の編者(第1章、第7章)である大羽宏一(おおば・ひろかず)氏は、1966年の生まれ。一橋大学商学部卒業後日本火災海上保険に入社、同社に長らく勤務の後、1998年大分大学教授(現名誉教授)を経て、現在は熊本県にある尚絅大学学長の職にある。著書に『総合生活学 ~女性の視点から見た現代社会~』(編著、法律文化社、07年)、『損保保険論』(共著、有斐閣、06年)、『早わかり製造物責任[PL]法のすべて』(共著、日本経済新聞社、94年)などがある。本書は大羽氏のほか弁護士、国民生活センター職員、大学教授等5人が執筆、本書のテーマに対して多面的にアプローチをしている。本紙読者にとって最も関係の深いのはPLに関して述べた第7章(最近の製造物責任訴訟の事例分析)であろうが、本書は総合的にみても損害保険に携わる者にとって極めて有効な著作である。

                  (2009年、日本経済新聞出版社、2100円+税)

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C- 124 グローブマスター機が小平の畑に墜落、乗員129 名全員が死亡

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C- 124 グローブマスター機が小平の畑に墜落、乗員129 名全員が死亡

 戦時中に旧陸海軍が使用していた主要な 飛行場は、戦後になると連合軍の基地として使用されることになった。東京の郊外にある立川飛行場もその一つだった。1950 年(昭和25年)6月28日に勃発した朝鮮戦争では、日本国内の飛行場は朝鮮半島の基地と違って安全であり、後方基地と して大いに活用されることになる。首都圏で、特に市街地に隣接していて便利な立川基地 (フィンカ基地と称されていた)は、朝鮮戦争においては米空軍の主要な補給基地だった。立川基地では、C- 124 グローブマスター、C- 119 パケット、C- 54 スカイマスター、などといった4 発の大型輸送機 が頻繁に離発着していた。このため騒音問題などで周辺住民との摩擦が絶えなかった。そんな最中に発生したのが、死者が100名を超す巨大な航空機事故である。以下、その概要を見てみよう。

 1953年(昭和28年)年6 月18 日午前4時34分、立川基地を離陸したばかりのC- 124 グローブマスター機が、都下北多摩郡小平町小川の麦畑に墜落した。乗っていた米軍人129名は、全員死亡した。現場は、西武国分寺線小川駅西方、青梅街道の北に当たる地点の畑。機体は墜落と同時に燃え上がり、農家の物置が焼けた。付近の農家の住民1名が火傷を負ったが命には別状はなかった。グローブマスター機には、朝鮮戦争に従軍中の兵士が休暇を終え朝鮮半島に戻る兵士たちが乗っていた。女性兵士、赤十字関係者、特派員は搭乗していなかった。

 立川基地の管制塔によると、パイロットの最後の通話は「エンジン一発停止。基地に帰る。地上管制による計器着陸」というものであった。この通話は、離陸後1分、そして2分後に機体は墜落した。グローブマスター機は、翌幅53メートル、全長39メートル、高さ15メートル、積載量20トン、全備重量80トンの輸送機。機首の部分が開いて、自動車、野砲、大型ヘリコプター等を積み込める耕造になっている。129名が死亡したグローブマスター機墜落事故は、単独機で100人を超える犠牲者を出した初の事故となり、この時点で「航空史上最大の事故」であった。それまでは、その前年12月20日に米ワシントン州ラーソン空軍基地をを出発した同じグローブマスター機による事故。クリスマス休暇のため帰郷する将兵115名を乗せて、同じく離陸直後に墜落、87名が惨死している。墜落地点の小平町は、1962年(昭和37年)に市制を施行し小平市となり、現在に至る。

この時代の、主なニュースを昭和史年表から拾ってみると以下のとおり。僅か半年の間に、後世に残る大きな事件が並んでいるので、ちょっとびっくりした。

1953年3月5日 ソ連首相スターリン死去
    5月9日 出光興産「日章丸」、イランからの石油を積んで、川崎港入港
   5月29日 ヒラリーとテンジン、世界最高峰エベレスト登頂
   6月19日 「原爆スパイ容疑」のローゼンバーグ夫妻処刑される
   7月27日 朝鮮戦争終わる

 ここに挙げた大事件は、その後永らく記憶され時には反芻されてきた。しかしながら、同じ時期に東京で発生した「航空史上最大の事故」は、殆ど忘れ去られているように思える。




   
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