たた&にせ猫さんの備忘録

―演劇、映画、展覧会、本などなど、思うままに―

『小谷元彦展 幽体の知覚』 森美術館

2011年01月30日 | 日記
  『小谷元彦展 幽体の知覚』 2010.12.19
    2010年11月27日(土) →2011年2月27日(日)
    森美術館 六本木ヒルズ森タワー53階

  昨年12月19日に見た小谷元彦展の感想です。
  村上隆氏の『芸術闘争論』を12月15日に本屋で見つけ、読了は正月。村上隆氏の現代アート鑑賞の手引きを参考にしてブログを書いてみようと、後回しにしたら、1か月以上たってしまいました。

  パンフレットからキーワードを羅列すると、…東京芸術大学、彫刻、多様な手法と素材、彫刻の常識を覆す作品、造形美と美意識、身体感覚や精神状態をテーマに見る者の潜在意識を刺激するような作品、多層的なイメージ、彫刻特有の量感や物質性に抗う、実態のない存在や形にできない現象、「幽体」の視覚化」…

  広い会場、部屋ごとにテーマや試みが示され、パンフレット通りの多様性や造形美、美意識を感じることができます。どの作品も素晴らしい完成度。彫刻科出身ということですが、素材の扱いが印象的で、「フィンガーシュバンナー」や「ラッフル」などの、木の質感が個性的で美しい。「ニューボーン」シリーズ、さらに「ロンパース」といった映像、鏡張りの空間での滝のインスタレーションが見る者を圧倒し、どれも見どころいっぱいです。

  村上隆氏の歴史のくし刺し、多様性、圧力などすべてのキーワードを満たし、世界に打って出るアーティストであることを示しています。

  では幽体を感じたかと問われれば、完成度が高く、いわゆる影のない感じ。影のない存在の不確かさに迫るというのなら、そうなのかもしれないけれども、幅の広さ、多様性からは、逆にカタログ的な印象を受けてしまう。
 ネオテニー・ジャパンで、高橋氏が小谷氏に対して、「醒めた狂気を感じる」と独白しているけれど、狂気は狭まってゆくある瞬間の確信にあるとすれば、多様性はそれに反しているのでは。

  美意識の高さの誇り方、それでいて冷めている感じはあり、技術の高さがそれを支えているけれど、作者の中で完結している感じを受けてしまう。
  幽体というのが、どこかしらにほの見えてくる影ならば、針の穴ひとつの破たん、本人の中ではどこまでも整合しているのに裏から見ると破たんしている怖さとかが必要なのではないかしらと思ったり。単に、この感性が好きでないというだけかもしれないけれど、ユーモアや諧謔がほしい。

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『トランスフォーメーション展』 東京都現代美術館

2011年01月23日 | 日記
   『トランスフォーメーション展』 2011.1.22
     東京都現代美術館 2010年10月29日→2011年1月30日

  東京都現代美術展は2004年にオノ・ヨーコ展を見に行って以来。オノ・ヨーコ氏をジョン・レノン夫人としてではなく、ジョン・レノンを魅了した、圧倒的なアーティストと認識した展示会。

  今回は中沢新一・長谷川祐子氏の共同企画:
  公式ホームページに、「この展覧会は、「変身・変容」をテーマに人間とそうでないものとの境界を探るものです。… 今、なぜ「変身・変容」なのか?…テクノロジーの発展によって、従来の社会に属する「人間」という形がぶれはじめ、その存在にはかつてないほどの多様性が生まれつつあります。…そこで表現される「変身・変容」する形は、私たちの夢や希望、おそれをひとつの予兆として映し出します。…」と、展示の趣旨が概説されています。15カ国21組のアーティストによる作品。

  映像展示が多く、今回の公式カタログの表紙にもなっているマシュー・バーニー氏の作品は何と1回3時間の上映。きちんと見ようと思うと、時間的な余裕がかなり必要。

  映像展示が多い割に、順路1.2の作品は見づらいし、3は細長い通路のつきあたりの壁面映像で、通路に人が溜まっていて、よく見えません。バーニー氏の映像も3時間もあるのに、椅子ひとつなく、若い学生さんたちが床に座って見ています。映像を見るのもなかなか大変。

  映像展示が多くなると、鑑賞に時間がかかる割に、テーマがぼやけてくるというか、作者の独りよがりに延々と付き合わされている感じがしてくるというか。やはり、時間を切り取ったような、それでいて圧倒するような作品に出会いたいという願望が強まります。昨年の森村氏、束芋氏は楽しめたけれど…。
  バーニー氏の作品は独特の美しさがあるけれど、映像を3時間見たいとは思わないかな。

  まずは3階に上がり、作品1.2.3と巡って、大ホールでは、5.ジャガントーナ・バンダ氏、8.ジャイア・シアカンダー氏の作品が印象的。バンダ氏の作品は、このような絵画の多くが、薄っぺらなものなりがちなのに、自国の文化やイメージを投影させて、厚みを持たせています。シアカンダー氏の映像作品、いろんな動物の積み木みたいなのは、継時的に要素が加わり、時間と奥行き感を細密画の技法を交えて構成し、独自性を発揮しています。
  2階では11.ヤン・ファーブル氏の作品。彫刻より、小さな作品が何か不思議な本の挿絵みたい。15.スプニッ子!氏の作品も面白い。今回一番ユーモアのセンスがあったような。

  B2階アトリウムの展示は既視感のあるものが多かったかな。

  公式ホームページに「古今東西、変身をテーマにしたイメージや芸術は多く作られてきました。」とあるように、変身・変容は芸術が扱いやすいテーマなのでしょうか、ある意味分かりやすい作品が多かったような。それだけに、企画展の前提となっている「その存在にはかつてないほどの多様性が生まれつつあります。」という多様性が、逆に感じられない印象もありました。

  アーカイブコーナーでは、映画や漫画、いろんな変身作品が示されています。ロボット、アイボもありました。なぜか、どの作品よりもインパクトがあったような。優れた製品、アイデアは、アーティストのアートを超えているかも。
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『芸術闘争論』 村上 隆著

2011年01月16日 | 日記
   『芸術闘争論』 村上 隆著 幻冬舎 2010年11月25日 初版

  正月休みに読んだ本です。いつも通勤帰りに立ち寄る本屋で平積みになっていました。金ぴかで目立つ表装です。

  帯に「ぼくの野望、それは世界のアートシーンへ日本人アーティストを一気に二〇〇人輩出させること。そうすれば世界は変わる。アートのルールは変えることができる!日本芸術界の欺瞞の歴史と、その安楽な生き方と、戦う!!この本は必ず、現実を変えようと思っている人の戦う糧になると信じます。」と書かれています。

  世界的なネームバリューを獲得した村上氏の高邁な理想、野望のもとに書かれた本であることを謳っています。

  金ぴかの表紙を開けると、ベルサイユ宮殿で開催された村上氏の企画展の写真。違和感のある展示品もありますが、Flower Matango(d) 、Oval Buddhaはさすがに美しい。今日ベルサイユが建築中なら、村上氏に発注があっただろうと思わせる作品。

  本の内容は、現代アートに至る歴史的概説、現代アート鑑賞の手引き、アート製作の実際、アート作家を目指す人へ提言。

  鑑賞の手引では、①構図、②圧力、③コンテクスト、④個性の四つが現代美術を見る座標軸、ルールだと挙げています。
  でも、これは現代美術を見る場合だけではなく、絵画鑑賞、あるいは制作にあたって大切な要素。趣味で油絵を習っていた時に、画稿で構図の大切さを再三指摘されていました。構図は本当に難しい。

  コンテクストに関して言うと、古典的な作品でもコンテクストが分かる方がずっと楽しい。
  『「怖い絵」で人間を読む』中野京子著 NHK生活人新書の“はじめに”の項で、中野氏は、「絵画、とりわけ一九世紀以前の絵は、見て感じるより、読むのが先だと思われます。一枚の絵には、その時代特有の常識や文化、長い歴史が絡み、注文主の思惑や画家の計算、さらには意図的に隠されたシンボルに満ちています。…」と書き、知識を持って絵を読む楽しみや重要性を述べています。

  村上氏は「歴史が串刺しにならなければ、現在美術ではないわけです。現代芸術は自由人を必要としていない。必要なのは歴史の重層性であり、コンテクストの串刺しなのです」とまで言い切っています。

  ただ、私個人としては、19世紀以前の絵画と現在アートのコンテクストを読む楽しさを比べると、圧倒的に19世紀以前の絵画のコンテクストを読むほうが楽しい。なんといっても、教養趣味を穏やかに満たしてくれる。

  現代アートでは、製作者の意図がどこにあるのか、作品からだけコンテクストを読みとれと言われても情報量の少ないものも多い。そうなると、解説を読むことになるのですが、解説という言葉に置き換えられた時点で、製作者の意図や感性が方向づけられ(言葉はものごとを規定していきます)、作品が急に「そう分かれっていうの」と、底浅いものになってしまう感じがあります。

  歴史の重層性、コンテクストの串刺しと言われても、歴史や社会の文脈が曖昧な現代で、製作者が切り取ったそれは、社会や歴史の枠が個人に対して重い時代のそれとは違うのではないか。
  現代芸術では、個性、感性、個人>社会、歴史、そして、感性、個性自体が、既視感に苛まされて、不自由であるような気もします。

  「現代芸術は自由を必要としていない」という、村上氏の発言も現代芸術に自由の余地があるようでいて、本当はきびしいからかもしれません。

  村上氏は、アートも商品として流通するわけですから、巧く流通に乗せるためには、世界市場でのユーザーの好みを知り、中間業者とコミュニケーションを取り、納期を守るなど、成功のための抑えるべきポイント、さらに職業人としての自覚にも言及しています。
  このあたり、世界市場で成功した人ならではのアドバイスです。約束を守れない人、コミュニケーションを取れない人はやはり困るわけです。
  村上氏は一方で、「マンガ家系、オタク系、ファション系の優秀な人、そういう才能のある人はそもそもアーティストになりません。アーティストになるのは、すでに落ちこぼれなのだということです」と書いています。
  落ちこぼれ、社会でうまく立ちまわれず、自由=芸術=正義という自由神話を信奉し、自己のアイデンティティを得ようとしている人に、成功するための社会性を説いているわけで、矛盾を内包している感も否めません。
  社会性のない人は、アーティストとしては成立しないのか。村上氏は、精神疾患を持ちながら作品を作り続けたヘンリー・ダーガーの作品を紹介しています。彼の作品は死後、発見されたそうです。

  現代アートはどこにあるのか、作品の質を高める、アーティストとして成功する指南はあっても、それから先はやはり、作り続ける情熱や思いなのでしょうか。
  
  いろんな文脈から飛躍した作品、後で、思い返して楽しむ余地のある作品に出会いたいものです。
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『十二夜』 シアターコクーン 

2011年01月10日 | 日記
    『十二夜』 シアターコクーン 2011.1.8
      潤色・演出/串田和美
      作/シェイクスピア 翻訳/松岡和子 音楽/つのだたかし
      出演/松たか子 石丸幹二 りょう 串田和美 笹野高史他

  今年最初の観劇。
  十二夜とは、キリストの生誕(12月25日から、12日目。東方の三博士が生まれたばかりのキリストを参拝した日、顕現日とのこと。12月25日~1月6日までの12日間の降誕節の最後の日。祝祭の最後の日にふさわしい喜劇。

  お話は、船が難破し、助かった妹(ヴィオラ:松)が髪を切って双子の兄になって生きようと男装(シザーリオ)。仕えた伯爵(オーシーノ:石丸)に恋心を抱きながらも、伯爵の恋の使者になり、相手のお姫様(オリヴィア:りょう)に恋されて、そこへ双子の兄(セバスチャン:松二役)が生きていて…。お姫様の偉そうにふるまう執事(マルヴォーリオ:串田)が、こけにされるドタバタがまぶされて、最後は大団円。

  串田さん演出の『上海バンスキング』を昨年見たせいでしょうか、楽隊の使い方など似ているような。皆さん、楽器ができて、音楽も心地よい。真ん中に仮設舞台のしつらえで、劇中劇といった趣を強めています。比較的シンプルな舞台装置ですが、劇の本質にあっているし、松さんの二役の切り替えなどをうまく運びます。

  主演の松たか子さんは、いつもその口跡の良さにほれぼれします。早口でもくっきりせりふが聞き取れ、そして、声に感情を乗せるのがとてもうまい。この方が男に生まれ、歌舞伎の役者さんになっておられたら、どんな名優になられたのだろう。
  二人一役(双子の妹と兄)ですから、二人が同時に存在しないと成り立たない場面があるわけで、それがどのように扱われるのか。松さんは舞台中央で正面を向いたまま、立ち位置を変えるわけでもなく、少しの動作とせりふだけで、二人を交互に演じ分け、二人の感情を伝えます。今回一番心に響いた場面。

  石丸幹二さんは劇中、歌う場面(オーシーノと吟遊詩人の二役)があるのですが、あらためてとても素敵な声と。劇団四季で『美女と野獣』で拝見した時より、なぜか好印象。

  りょうさんは、今回の役の方が以前見た『来来来来来』の時より、姿の美しさが生かされて良い感じ。黒からだんだん赤に代わる衣装も素敵でした。

  笹野さんは祝祭(フェスタ)にふさわしいフェステ役(道化)。初めて拝見した時はちょっと…いう印象だったのですが、最近の作品ではどんどん味わい深くなっていくような。

  潤色ということで、楽隊が入り、正月らしく後味良くしているのか、マルヴォーリオの復讐のせりふが入っていないけれど、ハッピーエンドの中に、人生や祝祭の後の悲哀も感じさせる。
 祭りの終わりの寂しさ、束の間だけれど、人生の真実がある恋という瞬間、そしてそれに続く時間への何とも言えないアイロニー。

  どう料理しても、やっぱりシェイクスピアはすごいということでしょうか。
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