人生の処方箋・セラピスト愚禿進の我が計らいにあらず e-mail:gutokushin610@outlook.com

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我が計らいにあらず 58 自然という生き方 14

2017年06月15日 | 人生の処方箋

  親鸞のことをもう少し書く。親鸞は罪業深重の我が身、煩悩具足の凡夫といって自分がどうしようもない悪を背負っていることを深く自覚していました。だからこそあの歎異抄が生まれたのです。こう言っても親鸞や歎異抄に関心がない人には申し訳ないが、ここを飛ばしては前に進めないんですので。その悪人である自分こそ救われるという時、あの「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや。」の一文が頭をよぎる。
 以下は五木寛之氏の訳文
 「善人ですら救われるのだ。まして悪人が救われぬわけはない。」以下歎異鈔 三の訳文のみ全文を記す。
 「あのような悪人でさえも救われて浄土に往生できるというのなら、善人が極楽往生するのはきまりきっていることではないか」
 こういうところが、普通一般の考えかただろう。。
 そのことばは、なにげなく聞いていると、理屈にあっているように思われないでもない。だが、あらためて阿弥陀仏の深い約束の意味を考えてみると、仏の願いにまったく反していることがわかってくる。
 というのは、いわゆる善人、すなわち自分のちからを信じ、自分の善い行いの見返りを疑わないような傲慢な人びとは、阿弥陀仏の救済の主な対象ではないからだ。ほかにたよるものがなく、ただひとすじに仏の約束のちから、すなわち他力に身をまかせようという、絶望のどん底からわきでる必死の信心に欠けるからである。
 だが、そのようないわゆる善人であっても、自力におぼれる心をあらためて、他力の本願にたちかえるならば、必ず、真の救いをうることができるにちがいない。
 あらゆる煩悩にとりかこまれているこの身は、どんな修行によっても生死の迷いからはなれることはできない。そのことをあわれに思ってたてられた誓いこそ、すべての悩める衆生を救うという阿弥陀仏の約束なのである。
 わたしたち人間は、ただ生きるというそのことだけのためにも、他のいのちあるものたちのいのちをうばい、それを食することなしには生きえないという、根源的な悪をかかえた存在である。
 山に獣を追い、海河に魚をとることを業が深いという者がいるが、草木国土のいのちをうばう農も業であり、商いもまた業である。敵を倒すことを職とする者は言うまでもない。すなわちこの世に生きる者はことごとく深い業をせおっている。
 わたしたちは、すべて悪人なのだ。そう思えば、わが身の悪を自覚し嘆き、他力の光に心から帰依する人びとこそ、仏にまっ先に救われなければならない対象であることがわかってくるだろう。
 おのれの悪に気づかぬ傲慢な善人でさえも往生できるのだから、まして悪人は、とあえて言うのは、そのような意味である。『私訳歎異鈔』五木寛之著 PHP文庫より

 次回はこれに対する私の考えを書きます。
 なお歎異鈔は数多くの訳者によって出版されていますが、自分の好きな者を選んで是非読んでみてほしいと思います。宗教に関心のない人でも、一度は読んでみたらいいと思います。一種の哲学書、思想書として。

 

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