人生の処方箋・セラピスト愚禿進の我が計らいにあらず e-mail:gutokushin610@outlook.com

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我が計らいにあらず 69 人を救うということ 8

2017年07月08日 | 人生相談

 分別という言葉を使わなくなった。使うところが違うのだ。今は分別(ぶんべつ)と読んで使う方が多くなったからだろう。だから無分別(むぶんべつ)という言い方はしない。

 給料が上がって、年収1000万円になった、と喜ぶ人がいた。
 そこで高級住宅街に引っ越した。ご近所さんと話をしていると、ご近所さんはみんなゆうに年収1000万円を超えていることが分かった。その人はショックを受け1000万円ではまだ少ないと、必死に働くようになった。
 子どもがテストの答案用紙をもらって学校から帰ってきた。90点だった。「すごい!」と子どもをほめた。ついでに「平均点はいくつだった」と聞くと「95点」と子どもが答えた。親ががっくり。態度を一変させ、子どもを叱った。このような光景は数値こそ違うが、どこの家庭にもありそうなことであり、実際にもあることだ。しかし禅の考えかたではこれを厳しく戒める。
 比較することによって物事を考えるということは、そのもの自体を見ていないということだ。
 年収1000万円の人は、他人との年収の比較によって、一喜一憂する。そうしている間は今の自分には永遠に満足できない、肯定できないことになってしまいます。そこから苦しみが始まるんです。
 子どものテストの点数も同じです。他の子どもの点数が我が子の点数90点より上か下かに意味があるというように、自分の子どもの90点ということ自体を、それ自体として認めるということができなくなり、自分(の子ども)に立脚せず、他に依存するきわめて危ういものの見方です。
 自分自身の努力、子どもの努力ではなく、他との比較によってでしか意味を感じられなくなり、他に認められなければ自分自身を認められなくなります。自分自身で自分を認めることが本当は一番大切なんです。

 自分の人生を生きているのは自分です。これは誰の目にも明らかですよね。他との比較によって、自分の人生の価値が変動するなんてことはあり得ません。誰かに比較されなくても、誰かと比較しなくても、自分自身を認めるだけで、自分は肯定されるのです。
 無分別という禅語は、比較によってうかび上がる自分ではなく、誰とも比較することのないままの自分自身を、しっかりと自分自身で認めていこうということを伝えているのです。

 無分別とは、一本の線を一本の線のままでみる智惠です。前回の記事でビルバルが一本の線を書き足すことで、長い短いという概念を生じさせたが、それは必ずしも賢いといわない。概念は概念でしかない。それを知らなければかえって、概念は苦悩の元となる。多い少ない、上下、勝ち負け、優劣これらは比較によって得られた概念である。それが苦悩の原因になることは明らかですよね。
 人の悩みは、線を2本にすることから生じるのが大半である。
 人は誰もが一本の線である。他と比べることのできない一本だけの線である。
 それはもうこの娑婆の世界からは忘れられてしまった考え方、ものの見方であるけれども、その存在の真の意味を知る上では決してないがしろにしてはならないことである。
 本来の人の在りようを見誤らないように。

 無分別という禅語は、娑婆で暮らす凡夫である私の忘れてはならないありがたい言葉です。ちょっと長くなりました。心に悩みをかかえてる人に、禅語よりも、心理学とか精神医学の知識の方が役に立つと思っている人もいるかと思いますが、これも無分別でいきましょうよ。宗教でも文学でも芸術作品でも,それ自体の価値を認めれば、それでいいのではと思います。私のブログは様々なジャンルが登場します。いいと思うところをつまみ食いでいいと思います。それではまた。

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