人生の処方箋・セラピスト愚禿進の我が計らいにあらず e-mail:gutokushin610@outlook.com

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我が計らいにあらず 70 人を救うということ 9

2017年07月11日 | 人生相談

 「我が計らいにあらず」というタイトルからして、セラピー(治療・療法)、カウンセリング(助言・指導)とはほど遠い印象を持たれる方も多いでしょう。私は他力を念頭においています。といっても浄土教思想の他力よりも、もっと緩やかに考えています。つまりわたしには親鸞、法然らの「信」というものがありません。思想としての他力、哲学としての他力というものがあればそれに近いものですが、晩年の親鸞の境地である「自然法爾」と表裏一体にあるところの他力とでも言っておきましょうか。その一方では、「自然」(じねん)という生き方をも考えています。生き方という言い方は自力の世界にとどまっていることになりかねないのですが。意識して「こう生きてやろう」とか「人を救ってあげよう」とかは、自分がまず修行とまではいかなくても、知識や情報を得て、取捨選択してあるところまでたどり着くことが必要ですが、それ自体はもう自力です。そしてこれまではその自力に頼って仕事もしてきたし、自分の人生も送ってきたと思っています。それで自分が救われたか。他者を救うことができたか。否である。かといって禅の修行も、法然、親鸞のように信の世界に入り込むこともできずにいる。

 前に一度書いたけど、「臨床宗教師」というものが制度化されようとしているが、私にとっては時すでに遅しである。若い僧侶にとっては、特に仏教の僧侶にとっては、宗教は死者のためならず。生者のためにこそあれといいたい。生死一如である。

 また脇道にそれました。
 

 まずこれだけははっきりさせておきます。他力とは、「他者の力を借りて」ということでは絶対にない。法然や親鸞は弥陀の誓願への絶対的信であった。南無阿弥陀仏の称号を唱える念仏が、ただ唯一の衆生の救われる道であることを確信を持って説いた。私の場合それはそれで分かるのだがと言ってしまう。分かるのではなく、信じることができるものでなければならない。それが何々宗の何々派というものに入信するのとは違うものである。他者を救い、自分も救うということは、宗教でもなく、科学でもない何かだと思うが、今は分からない。このブログはそれを捜す旅のようなもの。つづく。

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